アイスコーヒー・バイオレンス
名取
1番
この世で最も暴力的な飲み物はコーヒーだ。それも、キンキンに冷えたアイスコーヒーがふさわしい。
人によっては「ホットコーヒーの方が殺傷能力が高いじゃないか」と言う人もいるだろう。確かに、熱々のコーヒーを顔にぶっかければ火傷の一つや二つは負わせられる。だけどホットではやはり不十分なのだ。なぜなら熱いということは、すなわち情熱的ということだから。
情熱、激情、憤怒、嫉妬……
そんなものによって為される暴力なんて、所詮、素人の喧嘩。二番煎じのごっこ遊びに過ぎない。
たとえばノアの方舟の話に出てくる洪水の、世界を壊し尽くす濁流だとか。
あるいは氷河期。あるいは死体安置室。
ほんとうの暴力というのはいつも、黒々としてきぃんと冷たい。
「美味しいね」
そんな暴力の化身であるところの少年が、私の隣ではしゃいだ声をあげる。
「苦いだろ、ブラックじゃ」
「べつに」
ブラックコーヒーを静かに飲み、にっこりと笑うその顔は、側から見れば天使そのものなのだろう。ある意味で、それは正しい認識かもしれない。正式なキリスト教における天使は、たいていの日本人が思うほどには、か弱く可憐な生物ではない。彼らはラッパのひと吹きで大殺戮を行い、元同族である悪魔を喰らう。
「どうしてもやらなきゃだめか?」
キャラメルマキアートなるものをストローでずーずー行儀悪く吸いながら、私は聞いた。少年はふるふると首を振る。
「どうしてもってことはないよ。ただやらない場合、君が地獄を見るってだけさ」
「それは十分『どうしても』に入るだろ」
「そうなの?」
無邪気な問いかけ。
噛んで変形したストローから、キャラメルとミルクの残りを未練がましく吸い続けながら、私は少し考えた。
夏の駐車場。冷えた車内。
助手席には少年天使……もとい暴力の化身。
「なあ、」
すぽん、とカップからストローを引き抜き、口に咥えてぐるぐる回してから、私は言う。
「これを無事にやり終えたら、二人でキリマンジャロを見に行くってのはどうかな」
「えー嫌だよ、そんな遠いところ。一人で行けば」
「冷たいこと言うなって。コーヒーといえば、やっぱキリマンジャロだろ?」
とはいえ、キリマンジャロがなんなのか、国なのか街なのか、浅学の私にはわからない。
「とにかく嫌だ。ほら、そろそろ時間だよ?」
「へーへー」
腰を上げ、車のドアを開ける。
ぶわっ——。
狂気的なほど熱く湿った空気が、顔面にぶち当たってくる。皮膚という皮膚から汗が噴き出し、生気がごっそり抜けていく。
砂漠のような熱気漂う駐車場を歩きながら、ふと空を見上げた。青く澄み渡る、都会の狭い天球。
天文学的な額の借金。
ろくでなしの父が私に遺したのは、それくらいのものだった。おかげで高校にさえ行き損ね、ある日家に帰ると、大勢の借金取りがいた。そしてその真ん中には、柔和に微笑む黒服の少年が立っていた。
「ああ、嫌だなあ」
思わず声が漏れる。
私はほんとうは検事になりたかったのだ。人権を守り、弱者を守り、世に公平と正義をもたらす……そんな仕事に就きたかった。誰もが希望を持って生きられる世界を作りたかった。真面目にだ。今だって時々そう思う。
でももう、無理なのだ。
私はやらなくてはならない。今日もまた、人の心が無常に砕ける様を、目の当たりにしなくてはならない。
「こんにちは」
裏口から建物に入ると、顔見知りに声をかけられた。壁にもたれかかって、棒付きキャンディーを舐めている。もういい歳の男なのに、フードを深く被り、どこか薄ら笑いでちゅぱちゅぱと。不気味なことこの上ない。
「あ、ああ……いつもお世話になってます」
「いやいや、こちらこそですよ
顔見知りの指差す先には、いつものガラス張りの部屋があった。
「……毎度疑問なんですけど」
そのガラスの部屋の中の、パイプ椅子に拘束された男の姿を見ながら、私はダメ元で聞いてみる。椅子の上の男は、不安げな顔で辺りを見回している。
「こういう人たちって、いつもどこから探し出してくるんです?」
「まあ、探し出すまでのこともありませんよ」
パーカー男はくくくと笑った。
「こういう輩は、綿埃みたいなもんでね。たくさんの人が暮らしていれば、ごくごく自然に湧いてくる。掃いても掃いても次の日には新しいのが出てきてる。ま、こっちとしては願ったり叶ったりですがね」
「そうですか」
私は質問したことを後悔しながら、ドアを開けて部屋の中に入る。つまり、さしたる意味はないというわけだ。
部屋の中にはスタンドマイクがある。
私の仕事は、非常にシンプルではっきりしている——歌うこと。それだけだ。
「手荒な感じでごめんなさい。でもその、バイト料は、ちゃんと支払いされますから」
前口上も、今ではもうおざなりに言うだけになっていた。こんな状況で何を言ったところで、ちゃんと耳を貸す者などいない。だから、さっさと歌って、さっさと終わらせることにしていた。
「じゃあ、いきます」
息を吸い、声を出す。
それだけ。
歌う時には思考をしないようにする。頭空っぽにしていないと、辛すぎて耐えられない。スピーカーから聞こえてくる音源に合わせ、歌詞を読む。椅子に括り付けられた生贄の羊の顔は、いつも同じような変化をする。
初めは、驚愕。そして困惑。
激しい否定からの、絶望感。
「……てくれ、もうやめてくれえ!!!」
懇願。懇願。懇願。
発狂したように繰り返されても、私は歌うのをやめられない。それが仕事だからだ。金を返すため、殺されないため。どうしてもやらなくてはならない、私の役目。
そして終わる頃には、皆、同じ顔になる。
「……あ、あは。はは、ははははは」
——恍惚。
私は急いでその場を去った。そういう指示だから、というのもあるが、私自身、居心地が悪いからだった。一刻も早くこの建物を離れたい。仕事終わりはいつも、そんな気持ちにさせられる。
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