第349話 ヨルウミ


 その竜は、同族からヨルウミと呼ばれていた。

 全身を覆う漆黒の鱗が、波立つような形状をしているからだ。


 ドラゴンの鱗は、なめらかであるほど上質とされ、ヨルウミのように不揃いだと格下とみなされる。

 もちろん、それだけでドラゴンの強さが決まるわけではなく、実際に自身よりも先に生まれた個体に勝つことで、ヨルウミは周囲を黙らせてきた。


 ドラゴンが他の種族を対等に扱うことはなく、ヨルウミもまた例外ではない。

 ドラゴンのみが住まう竜界が、下界と隔絶していることも理由の一つではあるが、それ以上に劣等種への嫌悪感が大きい。

 曰く、なぜ同族同士で争うのか、と。


 ドラゴンに派閥という考えは存在しない。

 全ての個体は王に絶対服従で、力の優劣はあっても主従関係には繋がらない。

 また、火竜や水竜といった同族別種に関しても棲み分けが済んでおり、関わり合いになることはほとんどない。

 あったとしても、私情を挟む余地は一切なく、全ての問題は竜王同士の間で解決される。

 ヨルウミは、それに従うだけだ。

 今回の人族の族滅のように。


 人族とはなんと愚かなことだろう、とヨルウミは思う。

 同族同士で争うだけではなく、王を名乗る者が乱立したあげく、無駄に領域を広げている。

 その結果、神々の怒りに触れ、災厄を招き、果てに五大竜王まで動かすとは。

 どれほどの罪を犯せばそれほどの仕打ちに至るのか、千年ほどしか生きていないヨルウミには理解がつかない。


 だからこそ、人族の国に攻め込む軍の一翼に若い個体で唯一抜擢された時には、それまで感じたことのない高揚感に全身を包まれた。

 ドラゴンの本能は、弱者の蹂躙。

 それを抑え込めるほどの知性を有しているヨルウミだが、竜王のお墨付きとあれば抑圧していた欲望を開放することにためらいはない。


 ゆえに、ヨルウミは信じて疑わなかった。

 己が力で、引き裂き、砕き、吹き飛ばし、焼き殺し、奪いつくすことを。

 伝承すら知らぬ五千年前に、矮小な人族から思わぬ反撃を受ける可能性など、夢想すらせずに。






 竜界から下界へ。


 群れの先頭を征くエンシェントドラゴンが、同族に向けて警戒の唸り声を上げた当初、ヨルウミは何かの聞き間違いと思い込んだ。

 久しぶりに長距離を飛行して風を切る心地よさを味わっていたところを邪魔された不快感も併せて、偉大な先達からの警告を真剣に受け取らなかった。

 だから、エンシェントドラゴンに従って速度を緩めた同胞たちに対して、ヨルウミは構うことなく突き進み、眼下に広がる雲海を突破した。

 そこで、魔力感知においてまだまだ未熟なヨルウミは、古竜の危惧を悟った。


 生まれてこのかた、竜界を出たことのなかったヨルウミだが、人族の基本的な営み程度は聞き知っている。

 一人から数人程度で巣をつくり、それを密集させることによって一つの群れを形成しているとか。

 さらに、数十から数百の群れをまとめ上げる国が作られ、国の支配者である王が君臨する。

 もちろん、人族が群れるのは外敵の侵入を防ぐためではあるが、空からやってくるドラゴンを想定するはずはなく、備えは無いに等しい。

 そう、古き個体から聞いていた。


 それがどうだ。

 目標と言われていた場所には人族の巣は一つもなく、代わりに巨大な円形の構造物が、遥か彼方まで見通すヨルウミの視界に飛び込んできている。

 しかも、構造物の中では人族のものではありえない魔力が無数に渦巻いており、あまりにも想像とかけ離れた状況に、さすがのヨルウミも警戒せずにはいられなかった。

 だが、それは一瞬のことだった。


 警戒?

 警戒とは、相手の力を認めた時に初めて持つべき感情だ。

 俺はまだ、あの中に何があるのか確かめていない。

 だから、そんなわけがない。

 究極の生命たるドラゴンが人族に臆したなどあってはならない。

 そう、これは人族が受けるべき災厄なのだ。

 ならば、災厄と呼ぶにふさわしい力を見せてやればいい。

 人族の言葉にしておよそこのようなことを考えたヨルウミは、ドラゴンブレスの目標をあの構造物に定めた。






 この時、ヨルウミがドラゴンブレス以外の攻撃手段をとっていれば、結末は大きく変わっていただろうか。






 雨粒や氷ではないそれに被弾した瞬間、ヨルウミは鳥が衝突したのだと思った。

 だが、違った。

 無数に飛んできたうちの一つが鼻先で砕けて風に溶けていく一部始終を目撃したヨルウミは、その正体が魔力を内包した土塊だと悟った。

 つまり、取るに足らない人族の攻撃だ。


 同時にヨルウミは、微かな違和感を覚えた。

 もはや飛行ではなく落下軌道に移りつつあるとはいえ、人族の魔法がこの高度まで届くものだろうか?


 見れば、細長い形状の土塊は例の構造物から飛んできていて、複数の地点から発射されているのが分かる。

 わずかに直撃するものもまた、十分な衝撃をヨルウミの体に与えている。

 だが、それだけのことだ。

 ドラゴンの中でも最硬を誇る黒竜の鱗の前には無力で、しょせんは非力な人族の攻撃だ。

 それでも、後続の同族にまでこの鬱陶しさを味合わせる必要はないだろうと、ヨルウミは肚に溜めていた魔力の奔流を地上の構造物に向けて放った。



 閃光。後の爆音。



 他のドラゴンと違い、黒竜には四大属性を操ることはできない。

 その代わりに、最も硬き鱗と最も強き息吹という、ドラゴンらしい特徴を備えている。

 他種の同族と比べてより自らの存在に誇りを持っているし、己が力を信じて疑わない。

 だから、ドラゴンブレスの着弾点である、公都ジオグラッドの大天蓋が辛うじて持ちこたえ、近づきすぎたヨルウミを有効射程内に収めた超大型タイタンの槍四門が一斉に火を噴き、そのうちの一発がヨルウミの右後ろ足の鱗を一枚、中空に弾き飛ばした。


 現象としては、たったそれだけのこと。

 超大型タイタンの一撃ですら黒竜の鱗を貫通できなかったし、ヨルウミ自体は何のダメージも負っていない。

 せいぜい、黒竜としてのプライドが傷ついたくらいだろう。

 だが、それこそが不運だった。

 ジオグラッド公国にとっても。ヨルウミにとっても。


 もしも、ヨルウミ以外の黒竜が先頭を飛んでいれば、鱗を失った事態を正面から受け止め、まずは慎重に距離をとって安全を図っただろう。

 または、エンシェントドラゴンがヨルウミの異変を察知できる程度の距離しか離れていなければ、自制を促す一吠えを発していただろう。

 だが、現実は若すぎるヨルウミを止められる者はその場になく、血の気に任せた突貫を許すことになった。


 そんな黒竜を迎え撃つために訓練を重ねてきた衛士達の照準は正確無比で、斜めに急降下してくるその翼を目がけて放たれた、超大型タイタンの第二射のうち三発が命中し、巨大な翼膜を今度こそ貫いた。






 意識の暗転はわずかな間だった。

 気が付くと、ヨルウミは下界の地上に降り立っていた。

 いや、抜け落ちた記憶の前後から察するに、人族の攻撃で翼を撃ち抜かれ、空から落とされたのだ。

 試しに両の翼を動かしてみるが、胴を浮かせる気配は感じられない。

 翼膜に開いているだろう無残な穴を直視することは、とてもできなかった。


 周囲にはなにもない。

 だが、遠くに見える憎き人族の拠点を再び視界に収めた瞬間、ヨルウミの怒りに火がついた。

 翼が使えないなら四本の足がある。

 足を失えば胴が、胴を失えば首が、首を失えば頭が残っている。

 あの構造物にたどり着きさえすれば、人族の千や二千、この牙だけでも殺戮して見せる。


 もはやヨルウミの中に、いったん竜界に戻り、傷を癒してから報復の機会を待つ、という道は失われていた。

 あるのは、自分が傷つけた黒竜族の誇りを少しでも取り戻すこと。

 そのためには、命ある限り人族を殺し尽くすこと以外には術はない。

 そう信じ、白い構造物を塵一つ残さず滅ぼすことを決めたヨルウミの正面に、立ち塞がる邪魔な影があった。


 それは、黒い鎧を身に付けた、ただ一人の人族だった。

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