第275話 幕間 王太子派
晴れやかな青空が澄み渡る、昼下がりのある日。
鮮やかな緑のカンバスに色とりどりの花びらがちりばめられた庭園を、金糸銀糸の詩集で彩られた衣装の若者がしずしずと歩く。
どこにも遅滞がない足運びは、若者がそれなりの身分だと察するに十分だが、青ざめた顔色が優雅さを台無しにしていた。
その理由は、目指す先にいる若者の主にあった。
「殿下、お楽しみのところ申し訳ございませんが、少しよろしいでしょうか?」
「なんだ、午餐を楽しんでいるというのに、騒々しい」
感情は揺らがず、しかし、いつもよりわずかに低くなった主――王太子エドルザルドの声色に、側仕えの若者の心臓が跳ね上がった。
ほとんど音を立ることなくフォークとナイフを使いこなし、ゆっくりと昼食を口に運び続けるエドルザルドの動きは優雅で美しい。
それを見守る給仕達の視線も穏やかで、さすがは王太子といった趣だ。
しかし、若者は知っている。
この、常に王太子の自覚をもって行動する自分の主が、意に染まない言動をした者を一族郎党もろとも、目の前の魚のパティのように、何のためらいも見せずに淡々と切り刻む事実を。
きっと、この主にとって食事も処刑も何の違いもないのだろうと、若者は心の奥底で密かに恐怖している。
「先ほどからギュスターク公爵が参られて、殿下のお出ましをお待ちになっておられます。本日の約束に遅れるので早々にお支度を願いたい、とのことです」
「なんだ、そんなことか。待たせておけばいい」
「で、ですが……」
「昨夜は月が美しかったので、ついミアーナと話が弾んでしまったのだ。食事の時くらいゆっくりとさせてもらっても良かろう。そおそも、ミアーナに遣いに出たのはそなただ、知らぬはずがあるまい?」
「お言葉ですが、殿下、それは礼に失します」
そんな本音を飲み込んで、若者は主に反論しない。
いや、できないのだ。
側仕えと一口に言っても、その出自や役割は様々だ。
特に、支配階級のそれは顕著で、その頂点たる王族ともなれば全員が貴族の出で構成される。
若者の場合は、可もなく不可もない中級貴族家の血筋で、本来は大貴族であるギュスターク公爵の応対を任される立場ではない。
それが、分不相応な仕事をせざるを得なかったのは、単に彼以外に適任がいなかったからだ。
(いくら実家からの指示があったとはいえ、私も側仕えを辞任するべきだったのだ!この御方を止められる方々は王都で亡くなられたか、早々に見切りをつけて去って行かれた。かといって、今さら辞任を申し出れば……)
若者は知っている。
数日前、彼と同格の側仕えが一人、エドルザルドに辞任を申し出て、翌朝に姿を消していた。
少々慌ただしすぎるきらいはあったが、時勢もあって、ほとんどの者達は実家に帰ったのだろうと推測して、急な別れを惜しんだ。
しかし、その側仕えが使っていた部屋の掃除を監督していた若者は、家具の隙間から出てきた一通の手紙を、封がなかったことからついつい読んでしまった。
手紙の内容自体は、遠く離れている婚約者との他愛のないやり取りだった。
いつだったかその手紙を見せられながらうんざりするほど惚気られた記憶が鮮明に残っているから、本人のもので間違いない。
そんな恋文を、絶対にあの同僚が残していくはずがない。
つまりは――
「何をぼんやりとしている?終わったぞ」
「は、はい、失礼いたしました」
いつの間にかに、エドルザルドの午餐は終わっていた。
ナプキンで口を拭き終えた己が主に声をかけられ、若者は慌てて返事をする。
「それで、ギュスターク公はなんと言っているのだ?」
「先方との交渉はほぼ終わり、あとは殿下の御裁可を待つだけ、とのことだそうです」
「それは重畳。では、外出の支度をする」
そう命じて、先頭を歩き始めたエドルザルドに付近に控えていた側仕え達が付き従い、若者もその列に加わる。
ギュスターク公爵の別邸の一つに間借りしている身でありながら、まるで外のことに関心を持たない主の背中を見て、若者は今日も危機感を覚える。
しかし、大貴族ほどの発言力もなく、小貴族ほど無責任でもいられない今の立場に、今さら逃げ道を探してもどこにも見つからないかもしれないと薄々察してはいる。
それでも、若者は心の中だけで主への罵倒を繰り返すことで、目を背けようとするばかりだった。
夕焼けに染まる、タークグラス城。
王都アドナイに次ぐ城郭を備えている一方、客をもてなす施設も充実しており、中でも迎賓館は国賓級の重要人物を迎えるにふさわしい格式を誇っていた。
そのうちの一間では、何十人もの召使が忙しく立ち回り、調理場であつらえた料理の数々を入れ代わり立ち代わり運んでいる。
今日の正客は、主人であるギュスターク公爵を除いてもたったの二人。
彼らの従者を含めたとしても、とても食べきれない量の料理が用意されているのは確実であり、そのおこぼれにあずかれるのは間違いない。
そう妄想しながら自然と弾んだ足運びになっている召使いとは裏腹に、晩餐の間では重苦しい雰囲気が漂っていた。
「申し訳ない。このところの殿下は心労が祟って病がちになっておりまして、支度一つにも時を要するようになってしまわれたのです。ところで、もう一杯いかがですかな?」
「いえ、これ以上はけっこう」
「俺はいただこう」
先ほどからしきりに酒を勧めているギュスターク公爵の向かいに座るのは、二人の男性
一人は法衣姿の小柄な体格で、もう一人は騎士の平服を着こなした長身。
対照的な二人だが、一つ共通しているのは衣装を白一色で統一しているということ。
こんなことをする可能性は、ただの目立ちたがり屋か、もう一つしか考えられない。
「待たせたようだな」
当たり障りのない話題も尽きて、いよいよギュスターク公爵の身の置き所がなくなりかけていたところへ、大勢の側仕えを引き連れ、赤を基調とした豪奢な衣装をまとったエドルザルドがようやく到着した。
「おお、エドルザルド殿下。お待ちしておりましたぞ。ささ、そちらの椅子に――」
「そなたらが神聖帝国からの使者か。遠路はるばるの任、大儀であるな。すまぬが、少々多忙の身でな。政に関しては、そこのギュスターク公爵に一任してあるゆえ、よく話し合うといい。教皇猊下には、そなたらが良く役目を果たしたと書状を認めるから、安心して帰路に就くことだ。ではな」
そう言ったエドルザルドは、呆気にとられるギュスターク公爵には目もくれずに広間を去って行った。
後に残された三人のうち、口を開いたのは法衣の男だった。
「ギュスターク公、これは一体どういうことですか?」
「い、いや、その……」
「アドナイ王国臨時政府の救援の要請に応えてる形で、王都アドナイ奪還の一翼を担う。これは王太子エドルザルド殿下のたっての願いであり、今日の会談で殿下自ら正式な要請を行い、私達二人がその言葉を直接猊下にお伝えする。そういう話だったはずです」
「それは……」
「聞いていたのと、随分と話が違うようだな」
パリイィン
騎士姿の男の言葉と同時に、その手にあったグラスが握り潰され、甲高い断末魔の悲鳴を上げた。
側に控えていた召使いの女が思わず声を上げるが、男の手にはかすり傷一つついていない。
その様子を驚きの目で見ていたギュスターク公爵が、かすれた声を出した。
「実を申せば、エドルザルド殿下には今回の要請の詳細を明かしていないのです。それゆえ、御二方にあのような失礼窮まる態度を取ってしまったのでしょう」
「ほう、では、どのようにお伝えしたのです?」
「……王国の危機を知った神聖帝国の方から、私宛に援軍を申し出たと」
「虚言や沈黙を選ばなかったのは賢明だが、それであの馬鹿の名誉が回復するわけではないぞ」
「なっ……!?」
「ジェイル殿、言葉が過ぎます」
「だが事実だ。あの馬鹿の態度は、我らが猊下を侮辱しているようにしか見えん。ヨゼフ司祭もそう思うだろう」
このやり取りに対して、アドナイ貴族として猛烈に抗議するべきところだが、ギュスターク公爵にその意思はない。
神聖帝国特任司祭、ヨゼフ。
同近衛騎士団第三位、ジェイル。
彼らについて、先方からの事前通告以上の情報をギュスターク公爵は掴んでいないが、教皇本人に直接言葉を伝えられるという一事だけ見ても、彼らがアドナイ王国の命運を握っていることは間違いない。
しかし、エドルザルドに同席だけさせて、実際の接待と交渉は自ら一手に引き受ける気だった公爵の目論見は完全に裏目に出た。
まさか、王太子の責任を果たすどころか、顔だけ見せて帰ってしまうとは夢にも思わなかったのだ。
(側仕えが少なくなってから、さらに傍若無人ぶりが際立ってきたとは聞いていたが、これほどまでに愚かだったとは……!!)
「こ、この度は、誠に申し訳なく……ですが、アドナイ王国が存亡の危機にあることと、神聖帝国の慈悲が必要なことは紛れもない事実。どうか、援軍の件だけは叶えていただきたい」
「もちろん、源流を同じくするアドナイ王国を救うのは、神聖帝国の義務です」
法衣の男の言葉に、ほっと胸をなでおろすギュスターク公爵。
事実上の分裂状態にある上に肝心の王太子があの体たらくでは、王太子派単独はもちろんアドナイ貴族の総力を結集したとしても、王都奪還は難しい。
もはや、国外の力を借りる以外に手段はなく、互いに高貴の血筋を交え、多くの聖術士を擁する神聖帝国は格好の同盟相手なのだ。
「ですが、王国再建の将来に考えを巡らせた時、果たしてエドルザルド殿下の元にアドナイの民が一つになるかどうか、しっかりと見届ける必要がありそうです」
「……仰る通りかと」
たとえ、アドナイ王家の正当な血筋が途絶えようとも。
その覚悟を固め始めたギュスターク公爵だった。
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