第8話 一年前の別れと、今日の別れ


 あれは、俺がノービスになって一年半後、今からちょうど一年前のことだ。


「し、失礼します」


 この頃にはますます人気が高まり、大商人だけでなくお忍びでダンさんの料理を食べにくる貴族がいるとかいないとか、そんな噂まで立つようになった、白のたてがみ亭。

 その建物は、金持ち用の贅を尽くした趣の本館と、平民向けの簡素な造りの別館に分かれている。

 もちろん、噂が立っているのは本館の方だ。


 俺個人としてはどっちか一本に絞った方がいいんじゃないかとも思うけど、金持ちと平民の両方から金を搾り取りたいらしいゴードンの方針に口を出すことはないし、この先もないだろう。


 そのゴードンの部屋は、当然本館の方にあり、指示を出しに来る時以外は俺のいる別館に顔を出すことはない。

 また、昔はよく本館と別館で従業員を融通し合っていたけど、客層がさらに上品になった本館に、別館の従業員が呼ばれることは滅多になくなっていた。


 そんな本館のゴードンの部屋に、ある日唐突に呼び出された。


「ふん、来たか。そこに座れ」


 飴色の光沢を放つテーブルに金貨銀貨の袋を積み、丸メガネをかけて分厚い帳面と格闘していたらしいゴードンが、ノックの後に部屋に入った俺の姿を見ると、正面にあった木の椅子に座るように促してきた。


「失礼します」


 おかしい。今までこんなことはなかった。

 普通、ゴードンが従業員を呼び出した時は、いつもその場に立たせっぱなしで、椅子を勧めることなんてなかったはずだ。

 ましてや、俺はゴードンに金で買われた身だ。なおのことあり得ない。


 そんな感情は顔に出していないつもりだったけど、まるで俺の心中を知り尽くしたかのようにゴードンは一方的に喋り出した。


「テイル、貴様は知らんかもしれんが、貴様を金で買った際の契約があと一年で切れる」


 その第一声を聞いて、納得できるものがあった。

 ゴードンは金に汚く、従業員の給金や客からのチップもピンハネする外道だが、こと契約に関しては一切誤魔化すことがない。

 まあ、商人なら当たり前とも言えるんだけど、ゴードンに関する街の噂では、不利な契約を結んだことがないことで有名なのだそうだ。


「契約終了後は、私が戸籍を持たないお前の後見人になり、成人の儀式への参加など、独り立ちできるだけの支援を行うことになっている」


 ただしそれは、ゴードンが契約に対してことと同義ではない。


「だが、それはお前が、私への借金をすべて返済し終えた時の話だ」


 確かに、俺はゴードンに、冒険者学校の件で借金をしている。

 言葉のままの意味にとれば実にフェアなセリフなんだが、俺を見るゴードンの嘲るような視線が全てを台無しにしている。

 どう見ても、俺をさらに縛り付けることに嗜虐しぎゃく的な喜びを感じている顔だ。


「私から借りた金、利子分も含めて金貨十枚。これを契約が切れる一年以内に返せなければ、お前は私と新たな契約を結ぶことになる。もちろん成人の儀式に参加させることもなければ、後見人になってやることもない。一生私の奴隷として働き続けるのだ!」


 ……ゴードンのことだから、これくらいは言ってくると思ってはいた。

 だが、頭の中で予想することと、実際に面と向かって言われることでは、人族の城と魔王の城くらいの違いがある。


 一言で言うと、はらわたが煮えくり返っていた。


 だが、ゴードンの俺への仕打ちはこれで終わりじゃなかった。

 本当にキレる言葉は、その後に待っていた。


「それからもう一つ、二度とターシャと口を利くな」


「な、なぜですか!?」


 思わず口にしてしまった言葉だが、そんな俺の態度が気に障ったのか、ゴードンの嘲りの眼が怒りのそれへと変わった。


「なぜだと?そんなこともわからんのか!!そもそも、街一番の宿の白のたてがみ亭の看板娘のターシャに、たかが奴隷同然の身分のお前が馴れ馴れしく口を聞いていることがおかしかったのだ!!身分をわきまえろ!!……まあ、明日から本館専属になるターシャとは、口を利きたくとも一目会うことすらできないだろうがな。分かったならとっとと仕事に戻れ!!」


 この後、どんな顔をして別館に戻ったのか、俺は覚えていない。

 だが、いつもは我が物顔で俺に雑用を押し付けてくるダンさんの弟子二人が、この日だけは何も言ってこなかったことを考えると、相当に感情が表情に出ていたんだろうとは思う。


 これが一年前のこと。

 俺が、大きな心の支えを失った事件だった。






「ターシャが別館に顔を見せなくなって、もう一年か。早いものだ、と言いたいところだが、ターシャが本館専属になってからというもの、白のたてがみ亭の人気が他の街にまで届くほどになったからな。ゴードンの旦那の眼に狂いはなかったな」


 そう、俺にとっては悲しい出来事だったターシャさんとの別れも、本人にとってはこれ以上ないほどの、良い意味での転機だった。

 ゴードンに特別に目をかけられ、上等な服や宝石を与えられるようになったターシャさんは瞬く間に常連客の心をつかみ、『白のたてがみ亭と言えばターシャ』と言われるほどの、ジュートノルでも指折りの美貌と知れ渡ったのだ。

 さらに、今では複数の豪商や貴族の家臣から、ぜひ妻に、という話が次々と舞い込んでいて、ゴードンのにやけ面が止まらないらしい。


 だけど、ダンさんがわざわざこの話を持ち込んできたのは、ただの世間話がしたかったわけじゃなかったようだ。


「実はな、近々ここを辞めることになりそうだ」


「え……?」


 俺は耳を疑った。

 白のたてがみ亭の本来の売りは、ダンさんのうまい料理だ。

 近い将来、代わりの器量よしが入ってくることになるだろう接客係と違って、ダンさんの料理の腕は本当に替えが利かない。

 その口ぶりからも、決してダンさんの方から言い出した話じゃなさそうなので、ますますわけが分からない。


「『一流の宿とは、上流階級の伝手をがっちり掴んでいることこそが条件だ。そこさえしっかりしていれば後はどうとでもなる。今までご苦労だったな、ダン』と、この間旦那に言われた。要は、俺の腕はもう必要ないそうだ」


「そんなバカな……!?」


 そうは言いつつも、いつかはこんな日が来るんじゃないかと、最近では俺も何となく察してはいた。

 昔は料理長のダンさんを下へも置かない、媚びへつらうような態度だったゴードンが、最近では煙たい存在のように扱っているところを何度か見てきたからだ。


「大方、仕入れの金を節約したいとか、俺への給金がもったいなく思えてきたとか、そんなところだろう。まあ、料理をなめてかかっている今の旦那には俺もついては行けんから、ちょうどいい機会だがな」


 そう、さばさばした顔で言い切ったダンさん。

 だが俺の顔を見た時には、いつもの、いつも以上の厳しい表情になっていた。


「心配なのはお前だ、テイル。ターシャと会うことを禁じられ、俺が辞めるとなると、白のたてがみ亭にはお前の敵しかいなくなる。俺は特別肩入れするつもりはなかったが、これまで真面目に仕事をこなしてきたお前が、いわれのない差別を受けるとなると話は別だ」


「ダンさん……」


 心配しなくても大丈夫ですよ、と言いたいけど、言葉に詰まる。

 この先、俺を待っている地獄――生き地獄は、俺自身が一番よくわかっている。

 このまま白のたてがみ亭に居続ければ、命と心がすり切れるまでゴードンに使い潰される未来しか見えない。

 一応、自力で何とかしようと準備を進めてはいるけど、ゴードンに先読みされて潰されないとも限らない。


 そんな俺の苦悩を見て取ったんだろう、ダンさんは厳しい顔のまま言った。


「テイル、もし本当にどうしようもなくなった時には、俺のところに来い。ここを辞めた後は、小さな料理屋を開くつもりだから、そこで匿ってやる。もし、旦那から追手がかかるようなら、街の外に逃がしてやる。これでも街一番の宿の料理長を務めていたからな、他の街に伝手の一つや二つは持っている。いいな、ここを逃げ出す時には、俺のことを思い出すんだぞ」


 まだ何一つ、行く末を決められていない俺に、ダンさんに返す言葉はない。

 その代わりにできたことと言えば、二つのカップが置かれた、造りだけはしっかりしている調理場のテーブルに、ダンさんに向かって両手をつきながらこの頭をこすりつけることくらいだった。

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