第9話 私は絶対に恋愛なんてしない! Ⅸ

 元々、私の身分は低く、その上私生児だった。

 その上で“王の学徒”の地位を得ていたから、嫉妬や侮蔑から、悪口を言われたり、揶揄われたりすることは多かった。


 しかし喧嘩騒ぎにより、直接、私に喧嘩を売る者はいなくなった。

 オリヴィア・スミスは喧嘩っ早い暴力女と……まあ、否定はしないが、そんな評判が付いて回るようになったからだ。


 しかし、だからと言って、悪口を言われることがなくなったわけではない。

 直接、言われることが無くなっただけ。


 陰でこそこそと、遠巻きに悪口を言われることは増えた。

 加えて、私には読心能力があった。


 例え口に出さずとも、心の中で思っていることは、感じ取れてしまう。

 そして自分に対する悪口ほど、聞き取りやすいのは、聴覚も読心能力も同じだった。


 当時は、そんなものは気にならないと、自分に言い聞かせていた。

 そもそも、自分は出生からして不利なのだ。

 慣れ合いなど不要、そもそもするべきではないと、思っていたし、思おうとしていた。

 

 そしてひたすら、勉強に力を入れた。

 とにかく、勉強をしていないと、不安で不安で仕方がなかったからだ。


 

 そう、不安だ。

 私はこの学校に入学してから、悪口を言われるようになってから、増々将来への不安が増した。


 上を、自分と同じ年齢にも関わらず、豊かで恵まれた生活を送ってきた子供を、将来を約束された人たちを見てしまったからだ。


 救貧院や小学校には良くも悪くも、私と同じような境遇の子供が大勢いた。

 それが普通だった。

 むしろ私は人よりも恵まれていたかもしれない。


 容姿も優れていたし、血筋も……私生児だが、しかし父方を辿れば貴種なんだという優越感があった。

 勉強は誰よりもできた。

 何より、人の心を読むことができた。


 喧嘩も強かったし、何より読心能力で人の弱みを握ることができたから、救貧院や小学校ではヒエラルキーの頂点に君臨していた。


 未来に対しても、確かに私は絶望していた。

 だが同時に、諦めていたし、達観していた。


 だけど、今は違う。


 ここでは私よりも地位の低い子供はいない。

 勉強も“王の学徒”に選ばれるほどではあるが、しかし断トツというわけではない。


 未来も……決して明るいとは言えない。

 救貧院の時よりは、確かに明るいかもしれない。

 だけど、私がどんなに努力をしても……生まれながらにして彼らが持っている栄光を得ることはできないのだと考えると、憂鬱な気分になる。

 どんなに勉強をして偉くなろうとも、私生児という悪評はついて回るだろう。


 生まれながらの上流階級には敵わない。


 だから勉学へのやる気も削がれるし、何もかも放り投げたくなる。

 だけど、落ちこぼれれば退学もあり得る。

 退学になれば、あとは奨学金という名の借金だけが残される。

 ゼロに戻るのではなく、マイナスになる。

 他の生徒たちが青春を謳歌している間、私は文字通り体を消費して、働き、借金を返し、そして僅かばかりに残ったお金で僅かな食べ物を食べる。

 そんな惨めな生活が待っている。

 それを考えると、勉強をしなければならないという強迫観念に襲われる。

 “王の学徒”から引きずり降ろされるのではないか。

 落ちこぼれて退学になるのではないか。


 どんなに勉強をしても、この不安からは逃れられない。 


 どんなに勉強をしたところで、得られるものはごく僅かなのに。

 それを放棄すれば、地獄が待っている。

 自分の努力がただの徒労であることを自覚しながらもそれを強制されている。

 人参すら与えられる、ひたすら鞭を打たれて走らされる馬のようだった。



 ……言い訳すると、まるで私が被害者か、悲劇のヒロインか何かのようだが、実際は違う。


 見下せる相手がいなくなったから、途端に自分が惨めになった気がした。

 それだけの話だ。


 つまり見下す相手がいなければアイデンティティを保てない、私の醜く、貧しい人間性に起因するものであり……

 悪いのは全て、私だった。


 それが分かっていたからこそ、辛かった。


 そして気付かぬうちに、食べる量が増えた。

 衝動的に、胃の中に食べ物を詰め込むようになった。

 元々、私は健啖家な方ではあるが、しかし胃の容量には限界がある。


 限界まで胃に詰め込み、吐くことを繰り返した。

 それを何度も繰り返した。


 そして自分がかつての母と同じことを知ることとに気付き、そしてそんな母を侮蔑していた自分を思い出し、増々自分が嫌になった。


 そしてその日も、私は人気のない植え込みの陰で、胃の中の物を吐き出していた。

 

 嘔吐という行為にはなれたが、しかしそのあとの言いようもない罪悪感は慣れなかった。

 食べることは好きだったのに、それが嫌いになるとは、思ってもいなかった。


「……勉強しないと」


 私はそう呟き……そして増々気分が悪くなるのを感じた。


 本当は勉強なんて、努力なんて、したくないから。

 嘲笑されたくない。辱められたくない。馬鹿にされたくない。侮蔑されたくない。見下されたくない。


 考えただけで……吐き気が込み上げてきた。


「おうぇ……げほっ……」


 再び嘔吐した。

 喉が痛くなり、目の前が暗く、そして酷い耳鳴りがした。 


 こんな辛いことを、私は一生続けなければいけないのかと思うと、本当に嫌な気分になった。


 生まれてくるんじゃなかった。 



 そう思ったその時。

 誰かが私の背中を摩ってくれた。

 優しく、力強い手だった。


「うっ……」

「無理に我慢しようとするな。すっきりするまで、出した方が良いぞ」


 返答するよりも早く。

 胃の中の物が出てきた。


 吐き気は五分程度でようやく収まった。


 私はハンカチで口元を拭いた。

 まだ口の中には酸っぱい、気持ちの悪い味が残っているが……大夫マシになった。


「……顔についてませんか?」

「ああ、大丈夫だ。服にも飛んでない」


 背中を摩ってくれたのは、金髪の少年。

 ジャスティンだった。


 彼は私が落ち着くまで、傍にいてくれた。

 そして「どうしてここにいるのか?」と私が尋ねると、彼は顔を背け、小さく鼻を鳴らしながら答えた。


「用を足そうと思って、外に出ただけだ。……別にお前のことが心配でついてきたわけじゃないから、勘違いするな? ただ体調が悪そうな子を放っておくわけにはいかなかった……それだけだ」(別に俺はミス・スミスのことなんか、興味ない。ただ……同級生として心配に思ってついてきただけ。他意はない)


 異常な量を食べてるのに、痩せていく。

 加えて食事中に急に立ち上がって、それからげっそりした顔で帰ってくる。

 そんな同級生がいたら、少しは心配するのが普通だ。

 だから俺はおかしくない。

 ミス・スミスのことを特別に心配したわけじゃない。


 ……などと、彼は言い訳のように心の中で繰り返した。

 つまり心配して、付いてきてくれたのだ。


 少し申し訳ない気持ちになりながらも、私は彼にお礼を口にする。


「はい。……ご迷惑をおかけして、すみません」

「……別に迷惑とまでは、言ってないだろ」


 ぶっきらぼうに答えながらも、私のことを心配してくれていることが伝わってきた。

 ……少しだけ心が温かくなったような気がした。


「立てるか?」

「はい。あっ……」


 立ち上がった瞬間。

 少し眩暈がして、よろけてしまった。

 ミスター・ウィンチスコットはそんな私を受け止めてくれた。


 ……どういうわけか、心臓の動悸が一瞬、早まった気がした。


「少しは休めよ。……お前、食べる時と寝る時以外、ずっと勉強しているだろ?」(陰口とか悪口以前に、絶対に勉強のし過ぎだろ。休日は一日中、図書館に篭って勉強していたし。そんな生活続けてたら、誰だって体調を崩す)


 今にして思えば、どうしてそんなに私の日常生活に詳しいのかと、気になるところではあるが、その時は気に掛けてくれていたことに私は少し嬉しく思っていた。


「そういうわけにはいきません。生まれの悪い私は人一倍頑張らないといけないんです」

「勤勉は美徳だけど、限度というものが……」(こんなに努力しているのは、本当に凄いけど……)


 私はカッと、頭に血が上るのを感じた。


「好きでしてるんじゃない!!」


 思わず叫んだ。

 今にして思えば、怒鳴るほどのことでは全くないのだが、少なくともその時、私はとても不快に感じたのだ。


「不安だから、人より劣っているから、しなきゃいけないから、してるんだ! 勉強なんて、誰が好き好んでするか!!」


 気が付くと、私はミスター・ウィンチスコットの胸倉を掴んでいた。


「もっと早くから、ちゃんとした教育を受けていれば、もっと楽に“王の学徒”になれた! いや、なる必要なんてなかった! 奨学金だって、借りなくてすんだ! 貴族の生まれなら、私生児じゃなければ、せめてお父様が認知さえしてくださっていれば、こんな惨めな思いはせずに済んだ! 貴族のお前に何が分かる!!」


 怒鳴り散らす私を、呆気にとられた様子で見る彼の顔は、今でも覚えている。

 驚く彼の顔を見て、血の気が引き、冷静になっていくのを私は感じた。


「……すみません。失礼なことを言ってしまいました」


 私はとっさに手を離して、そう謝った。


「……努力をしなければいけないのは、私の出自が他者より劣ることと、無能の証明に他なりません。恥ずべきことであって、誇れることじゃありません」


 ジャスティンがそれを好意的に捉えてくれていることは、その時も良く分かっていた。

 しかしその時は……否、今でもそれは私にとって、恥ずべきことであり、誇らしいことでは全くなかったのだ。

 

「……そうか。そうだな。それもそうだ。悪かった」(少し無神経だったな……それでも不貞腐れずに頑張るところは、美徳だと思うが)


 ジャスティンはそう呟くと、じっと私の顔を見てきた。

 ……その時、私は確かに感じた。


 色で例えれば薄桃色。

 味覚や嗅覚的にはどこか甘く、酸っぱいような。

 強い熱を持っている……


 そんな、背筋がどこかゾクゾクするような感覚だ。


「……何ですか」

「一緒に勉強しよう。お互いの得意なことを教えて、苦手なところを教えて貰えれば効率的だろう? 」


 それは……確かに悪くない考えだ。

 私もミスター・ウィンチスコットも同じ“王の学徒”だが、それぞれ得意不得意がある。


 けれど……


「どうして、私なんかに構ってくれるんですか? ……あなたが損をするだけですよ」

 

 私と勉強をすることで得られるメリットよりも、デメリットの方が多いだろう。

 そもそも“王の学徒”は私以外にもいる。 

 勉強を教え合いたいならば、別の人とすれば良いわけで……敢えて私と勉強しようと、そう提案する理由が私には純粋に分からなかった。


 そんな私の問いに対し、ジャスティンは露骨に目を逸らした。

 何故か彼の顔は赤く、そして例の正体不明の感情が彼から漏れ出ていた。


「別に……損得だけが、人間関係というわけでもないだろ」(それは……きっと、多分……お前のことが……)










 好きだから。








 確かに私には、そう聞こえた。

 その想定外の答えに私は思わず、馬鹿正直に聞き返してしまった。


「好きなんですか?」

「……そんなわけないだろ! 自意識過剰もいい加減にしろ」


 彼はそう言って怒鳴った。

 彼の顔はまるで熟れたトマトのように真っ赤に染まっていた。

 そして気付くと……私の顔も、燃えるように熱くなっていた。


 心臓が破裂するのではないかと思うくらい、高鳴る。

 下腹の辺りがキューっとなり、背筋がぞわぞわとなるような心地に襲われた。


 ……まさか、自分もまたジャスティンに恋をしてしまったのではないかと、私は一瞬だけ錯覚した。

 しかし深呼吸し、冷静になることで、何とな気持ちに整理を付けた。


 ただ、ジャスティンの気持ちに当てられただけ。

 怒っている人を見ると不快になる現象と同じで、好きと言われたことで一瞬だけそんな気になってしまっただけだ。


 まさか、私が……恋愛なんて、するはずがないのだから。


 私はそう自分に言い聞かせる。

 ……しかし心臓の鼓動と、上がった体温は中々戻ってはくれなかった。


「……」

「……」

 

 少しだけ、沈黙がその場を支配してから……彼は尋ねた。


「……それで、どうする?」(……俺と一緒にいるのは、嫌か?)


 彼の問いに対し、私は……


「……宜しくお願いします」


 気が付くと私はジャスティンの手を取っていた。

 すると彼はびくりと、体を震わせた。


 怯えと恥ずかしさ。

 そしてやはりどこか甘酸っぱい不思議な感情を、恐怖と恋心が混ざった感情を、彼は発した。


「そうか。……でも取り敢えず、一度医務室だ。一回見てもらえ!!」


 一方ジャスティンは僅かに赤らんだ顔で、私の手をぐいぐいと引っ張っていく。

 それはとても強引で、乱暴で、粗雑だった。


 けれど私は……


 どういうわけか、安心感を抱いた。

 そしてそのまま、身を委ねてしまったのだ。









 もちろんだが、ちょっと精神的に弱っているところで、好みにタイプの男の子に支えて貰って、その上、熱烈な恋愛感情をぶつけられたからと言って、別に好きになったりとか、そんなことは全然ないし、私はその程度で男の子を好きになるほどチョロくもない……


 勘違いしないでよね!









 「幼い頃、自分は世界で一番とは言わずとも、相対的に見て相当に不幸な部類であると思っていた。

 自分を不幸で可哀想な存在だと思い込むと、シンデレラになった気分になれた。

 そうすることで苦痛に陶酔し、気を紛らわせていたのだ」



 著:C・A・オリヴィア・スミス

 訳:九条薫子

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