【B視点】春よ、遠き春よ(後編)

 続・SideB



「ちょ……離してくださいっ」


 ビビったあたしは、手首を思いっきりひねって振り払った。

 以前なんかの講習会で見た護身術がとっさに頭をよぎったので。


 拘束はほどけたものの、不安定な姿勢でやったもんだから今度はブーツの中敷きに足の指が滑る。


 ……やべ。

 なめらかなストッキングに覆われた足では、摩擦力が働いてくれない。

 踏ん張れず、急速に視界が傾いていく。


「あだっ」


 無様にビニール床にすっ転んだ。

 半身が打ち付けられて、ごほっとむせ返る。


 けっこうな音だったので何人かが足を止めたり振り返るのが見えた。

 誰も巻き込まなくてよかったけど、なにもないとこでこけたからめっちゃ恥ずかしい。


「あわ、ごっ、ごめんなさい、ごめんなさぃぃっ」

 女性は完全にパニックを起こしていた。青ざめ今にも泣きそうな顔で謝罪を繰り返している。


 や、こっちがコントみたいに勝手に転んだわけだし。死にかけてるわけじゃないからそんな慌てなさんな。


 ……あ。ちょうど、戻って来るタイミングだったらしい。

 あいつが険しい顔でこっちに駆け寄ってきたから、平気っすと軽い調子で手を振って身体を起こした。


「あ、れ?」

 かかとをつけた瞬間、ぴしっと左足に雷が落ちた。そうとしか形容できない衝撃が走り抜けた。

 直接骨を叩かれたかのような疼痛が響き、視界が歪む。力が抜け、膝がぐらりと折れた。


「っ、大丈夫か」

 直後、上体が強く引っ張り上げられた。

 右腕はあいつの首に回され、腰部の衣服が掴まれる。


「あ、ごめ……ちょっとぐらついただけだから」

「直後だから感覚が麻痺しているだけだ。後で診てもらおう」

「え、いやいやそこまでは」

「床につけなかったのだから、そこまでのことだよ。どのみち素人判断はいけない」


 なんか大事になりかけてることに焦りが湧いてくるけど、ここで大丈夫アピールしてもこの子は絶対に引かない人間なので口をつぐむ。

 合図と一緒に、負傷していない足でゆっくり立ち上がった。いわゆる支持搬送の体勢になる。


「あ、あのっ、この度は多大なるご迷惑をかけてしまい誠に申し訳ごじゃ、ございませんっ、治療費は全額負担いたしますそれとタクシーも手配を、」

「いえ、その前に」


 半泣きでスマホを取り出した女性に、あいつが制止の腕を突き出す。

 一旦落ち着きましょうと声を掛けて、トイレに続く通路にあるソファーを指差した。

 並んで腰掛けたところで、あいつが相変わらず青ざめたままの女性に視線を合わせる。


「少し動向を見ていましたが……あなたは、単なるナンパ目的……ではないですよね」

「は……い」

「事情を伺ってもよろしいでしょうか。なにかお困りのご様子でしたので、遠慮なく仰ってください。他言は致しませんので」

「……分かりました」


 一通り話を聞いたところ、やっぱり裏で糸を引いてる奴がいるパターンだった。


 女性は営業職の新入社員で、研修で手当たり次第に声をかけて連絡先交換をしてこいと命じられたらしい。

 とはいえ、名刺や勧誘の文言じゃ断られる可能性が高い。

 なのでその恵まれた容姿を武器にして、ナンパを装えと強制されて……というのが一連の流れってこと。


「それ完全にやばい会社じゃん。今すぐ辞めるべき案件ですよ」

「未だに体育会系の企業もあるのですね……それも休日出勤で」


 ちなみに、あたしたちが高校生なのは気づかなかったらしく『学生の立場からの物言いで恐縮ですが』と付け加えたところえらくびっくりしてた。

 逆に年下に見えたことは黙っておいたけど。

 小学生でも大人びた外見の子はいるし、三十路越えてても学生役で通っちゃう俳優とかいるし、実年齢と一致しない見た目の人増えたよね。


「わたしもどうかしていました。入ったばかりだから、すぐに辞めたら転職で不利だって意地のほうがあって」

「やーでも、石の上にも3年ってもう古い言葉だと思うんです。そりゃ根性は大事ですけど、心を削ってまでする仕事なんて無いですよ。それで鬱になって何十年も棒に振っちゃった人とかいますし」


 次々と実績を上げていく同期、潰れて音信不通になる同僚、日々悪くなっていく上司の機嫌。

 なかなか成果に結びつかない現状に”自分が貢献できない落ちこぼれなのが悪いんだ”と追い詰められた女性には、逃げるという選択肢が出てこなかった。


 どう見てもブラックなのになぜかしがみついている人って、こういうパターンが多いのかな。

 いまは人手不足じゃない企業を探すほうが難しいから、雇用する側だって転職歴で選り好みできるほど余裕ないと思うんだけど。


「お仕事ですら満足に物を売れない君が、大きな買い物となる転職市場で買い手がつくわけないだろって……」

「うわあ典型的な手口」


 そうやってDV彼氏みたいに追い込んで束縛するパワハラ、未だにあるんかよ。

 うなだれ目を赤くする女性に、あいつが目線を傾けて優しい声をかけた。


「ビジネススキルを伸ばすよりも、ストレス耐性をつけることに重きを置いている会社からは離れるべきです。赤の他人を巻き込んで当たり前、という感覚になる前に」

「は、はい……お出かけを邪魔してしまい、本当に申し訳ございませんでした」

「おかしい、ということに気づけたのなら大丈夫だと思います。あなたが良き職場に巡り会えることを願っております」


 気持ちを吐き出すうちに女性は完全に目が覚めたらしく、辞める踏ん切りがついたと結論付けた。


 払わせるのは気が進まなかったけど、女性がどうしてもと譲らなかったので示談交渉という形になった。

 連絡先を交換して、応急処置としてそこのドラストで買ったらしい湿布と包帯を頂き、一旦解散することにした。


『すみません』


 あいつがトイレに行っている間、先程の女性から電話がかかってきた。


『今更ご迷惑だとは思いますが……どうしてもこれだけは伝えておきたくて』

「はい、どうされましたか?」

『あ……あなたの美しさに惹かれたことも、わたしが同性が好きだということも、本当です。けど……仕事にかこつけて声を掛けたのは不誠実だったことを、改めて謝罪いたします』


 ああ、だから好意を伝えてもそれ以上に進むことは躊躇っていたのかと納得する。


『ああその、この期に及んで交際とか厚かましいことを申し込んでるわけではないです。色々手続きを終えたら連絡先も消します。軽蔑されてもおかしくないところを、優しく接していただき……本当に、ありがとうございました』

「ええ、大丈夫です。伝わりましたから」


 いつか、彼女にも素敵な人が現れますように。やり直した先で、よき出会いが待っていますように。

 互いにささやかな応援を交わして、女性との通話は切れた。


 正直疑っていた節はあった。

 逆ナンだといろいろ危険だし、同性のほうが安全で話しやすそうだからってことで”設定”したのだと。

 いやナンパに出会いを求めるほどあたしも軽くはないけど、残念な気持ちはないと聞かれたら嘘になる。


 そういうコミュニティを探さず出会える確率って稀だし。何より女性はあたしにないものを持っている。

 臆さず、気になった相手に堂々と踏み込める勇気。

 二の足を踏んで進めず想いを燻らせているだけのあたしには、その行動力がまぶしく映ったのも事実だ。


 もっと別の場所で、こんな形じゃなかったら違う未来もあったのだろうか。

 なんて、感傷めいたものが胸に湧いてくる。


「お待たせ」


 トイレから戻ってきたあいつが、苦々しい面持ちであたしに近づいてきた。

 あれほど身を案じてくれた直後にこれだもんな。謝罪の言葉といっしょに、あたしは頭を深々と下げた。


「ごめん」


 せっかくの休日を台無しにしてしまったことに、募る申し訳無さから喉が詰まる。


 会計を終えるまで近くに立っていれば。

 今日はこの子との時間に当てているのだから、同性だろうが今はその時じゃないって立ち去っていれば。

 靴の中で足が滑るということはサイズが合っていないという理由がほとんどだから、衝動買いせずちゃんと測っていれば。


 すべて、あたしの迂闊さが引き起こした結果だ。

 さらに搬送係も担わせるわけだから、いっそう迷惑をかけている自分への怒りと遊ぶ予定がおじゃんになった悲しみが止まらない。


「起きてしまったことを責めても仕方がない。私も似たような状況に陥れば、最善の行動を取れるかは分からないのだから。今は怪我を治すことに専念しよう」

「……うん」


 あいつは淡々と締めくくった。

 他の子みたいにくどくどお説教をすることも、無事でよかったーとオーバー気味に慰めることもしない。


 多くを語らないこの温度は心地よくもあり、痛い。

 もっと怒ったっていいのに、どんな場面でもこの子は優しい。


「それで、今日の事例からの対策となると……なるべく一人で行動するのは避けたほうがいい、ぐらいだろうから……つまり、」

「”私の傍を離れるな”、ってこと?」


 ちょっと調子に乗った先回りを言葉にして、染めてる状況じゃないのに頬が熱をもつ。

 急に言い淀むのが面白くなってついノッてしまった。


「それだと束縛しているみたいで痛いというか……いや、まあ、ニュアンスは間違っていないけど、もう少し柔らかい言葉に置き換えてください」

「や、十分だよ。今日だってずっと楽しみにしてたのにこんなことになっちゃったし、次から二人で行動するときは背後霊に徹するよ」

「怪しまれるから隣を歩きなさい。私も独り言をぼやく不審者の仲間入りを果たしてしまうので」

「あはは」


 ただの冗談に食らったマジレスがツボって、自然と乾いた笑声がこぼれる。

 離れたくない。ずっと隣で歩き続けたい。

 言葉を勝手に深い意味に捉えてしまって、自分への嫌悪感がどんどん増してくる。


 馬鹿だなあ、今日でぜんぶ終わりにするって決めたのに。

 なんで名残惜しくぐずぐずと、あたしはしがみつくようなことやってんだろう。


 友人だと信じている人に向けた心遣いを、都合よく変換して別の関係性に消費してるとかさあ。気持ち悪い以外のなにもんでもないっしょ。

 築いてきた友情を冒涜してるも同じなんだよ。それを忘れてはいけないのに。


「そうだ、約束のプレゼントだけど」

「お、どもです」


 あいつが手に持った紙袋を渡してくる。

 ホワイトデー仕様のかわいいデザインだ。金色のロゴがプリントされた白い袋の取っ手部分には、青いギフトリボンがあしらわれていた。


「……これ」


 ラッピング袋のビニールタイには、ハート型のメッセージタグがついている。


『美味しい焼き菓子を頂き、とても嬉しく存じます。今後も変わらぬご厚誼をお願い申し上げます』と、裏面に達筆の手書き文字が綴られていた。

 やたら格式張った言い回しに吹き出しかける。


「……遅れたことには、私にも原因がある。レジはそこまで混んでもいなかったのだけど、何を書こうか考えていて。書くだけなのだから合流してからでも出来たのに」

「い、いやいや、そこ気に病むとこじゃないよ。むしろ飾りだとスルーされそうなとこに気づいてさりげなく添えるのはポイント高いよ」


 つっかえかけながら言葉をつむぐ。

 タグってあたしですら気づかなかったから、プレゼントの歓喜が処理できないほどに膨れ上がっていた。

 心に釣られて身体まで飛び上がっているみたいで。足怪我しててよかったわ。

 3倍返しまで再現するとは、おのれ。


「てか字めっちゃ綺麗ね君」

「習字と硬筆の教室に昔通わされていて。デジタル社会の今に習ってもと思っていたが……こういうときみたいに、人に見せる機会は意外とあるからやっていてよかったと思うよ」

「そうそう、ないようであるんだよね。ありがと、大事にする」


 本心通りの言葉を口にすると、あいつは緊張がほどけたように表情を緩めた。

 そろそろ出るかと促し、ソファーから腰を上げて。

「あ……っと」

 歯切れの悪い声を出したあいつが振り返った。


「どっちがいいとか、あるかな」

「どっち、とは?」

「ここから駐車場までそこそこ歩くから、さっきみたいな支持搬送だと足に負担がかかる。背負ったほうがいいのかなと」

「せお、」


 少女漫画でも今どきこんなベタな展開ないよ。

 続けざまの供給に脳の処理が追いつかない。意識しまくってるもんだから声が裏返ってしまう。


 いや善意100%の気遣いだってことはわかってるけど、わかってますけど。

 今日だけでどんだけ燃料注がれてんだろうあたし。そのうち爆発するんじゃないだろうか。


「足、どれだけ痛い?」

「ま、まあまあ」

「一度、立ってみてくれるか」


 立ち上がって一歩を踏み出した、とたんに神経を直接揺さぶってくるような痛みが襲ってきた。

 背中を丸め、かろうじて声をこらえる。


 ちょっと待ってさっきはギリ歩けてたはずなのに。足つけらんないレベルまで行ってるとか嘘でしょ。

 混乱する頭に、『直後だから感覚が麻痺しているだけ』とさっきのあいつの言葉が脳裏によぎる。


 ……うぐぐ、自覚したら鼓動に合わせてどっくんどっくん痛みを知覚するようになってきたんだけど。もうちょいアドレナリン仕事してよ。

 これ以上心配させないよう、無理やりピースサインを作る。


「ちょー余裕」

「ばればれの嘘をつくんじゃありません。恥ずかしいのは分かるが、悪化しないためにも少しの間我慢してくれますか」

「お、重いぜあたし? 荷物込みだよ? あんた若くしてぎっくり腰になっちゃうよ?」

「あなたより重い人はほぼ毎日背負っている。日頃の鍛錬を必要なときに生かさないなど、主将が聞いて呆れる」


 きっぱりと言い切る姿勢に、跳ねなくてもいい心臓がちょろく反応する。

 押し切られて、どのみちあたしは折れるしかなかった。


 なんか、もう……もうさあ。

 なにこの子、あたしをテンアゲする才能でもあんの? これがなんとかの弱みってやつ?

 ひとつひとつの思いやりが沁みて、温かいものが胸の内にどぱーんと満ちて。目からあふれていきそうになる。


 顔を見られない体勢でよかったという安堵が、背負われる恥ずかしさを上回った。


「じゃ、じゃあ。お言葉に甘えて失礼いたします」

「ああ、変に隙間とか作らず遠慮なく預けて。でないと滑り落ちる」

「実はかつての騎馬戦でそれ味わってまーす……いやだっておぶるよりも危険な抱え方を子供にやらせるって怖くね? よく無事だったと思うよ」

「あれも組体操みたいに、今の学校からは廃止傾向にあるのだろうか……」


 しゃがんだあいつの背中にひっつき、背後から抱きしめるように両腕を両肩に乗せる。

 冷静に俯瞰するとうわーって頭が煮える。

 モール内の効きすぎなくらいの暖房と厚着が合わさり、肌はすでに汗ばんでいた。


 ずり落ちないように密着する必要があるとはいえ、意識してないときでもやらなかったことしてるなあたし。


「立つよ」

 ゆっくりと身体を起こし、前傾体勢になったあいつの腕が膝の下に入る。

 ぐっと、太もも部分が抱えられた。両足が床から離れてふわりと浮く。


「怖くない?」

「あ……うん。なんか、さすが柔道家って感じ。重心安定してるねやっぱ」

「なら良かった。傾いてきたらすぐに言ってほしい」

「あいあい」


 例えると、うんと小さいときにうとうとしながら親におぶられてた時みたいな……それに近い安心感がある。

 同級生に親の広い背中を見出すっておかしいんだろうけど、鍛えてて肩幅が広いからそう感じるんだろうか。


 人通りがそれなりにある場所を歩いているから、どうしてもすれ違う人の目線がうちらを追っているのはわかってしまう。


 でも、恥ずかしさに勝る感情が棲まわっている今は、誰にどう見られようが思われようがわりとどうでもよくなっていた。

 気にすれば、二人きりの時間が無為に過ぎ去ってしまうから。


「なにを、返せばいいっすかね」

 店の外に出たところで。ふいに、つなぎ止めていたい想いがこぼれ落ちる。


「感謝してもしきれないくらい、優しくしてもらったからさ。些細なものでもいいから、お礼させてよ」


 今さら、そう言ったところで何が残るんだろう。何を残そうとしているんだろう。

 聞こえのいい言葉を用いて、性懲りもなくあいつとの接点にしがみつこうとしているだけなのに。


「……ええと、」


 けれど、気にしなくていいと流される予想はあっけなく外れて。


「ひとつ。わがまま、聞いてもらってもいい、ですか」

「なになに?」

「怪我が治ったあとで。今日の続きをしたい……というのはどうかな」


 そう返ってくるとは思わなかったので、妄想の中の言葉でないかと己の聴覚を疑った。

 聞きこぼすまいと傾けた耳に、ゆっくりと、ためらいがちに絞った声が届く。


「こうして出かけることが久しぶりだからか……ここ最近、距離が空いてしまったなと、勝手に思い込んでいた」

「…………」

「だから、ホワイトデーのついでに遊ぼうと言ってくれたときにとても嬉しくて……同じく、今日を楽しみにしていたよ」

「そ……か、」


 一瞬、世界から音が消えた。

 もっと言うべきことがあるだろうに、うまく声になってくれない。

 喉の震えにせき止められて、崩れて、吐息にかすれていく。


 距離を置いたのはあいつの思い込みではなく、あたしのせいだ。

 この感情は自覚してしまうと、どんどん欲張りになっていくから。


 あいつの広がっていく人間関係にいちいち情緒を乱されて、友人の座を盾に縛り付け心を保とうとする。

 そんな権利はあたしにあるわけがない。

 拗らせてキモいストーカーと化す前に、気の迷いだとブレーキをかけなければならないのだ。


 だけど、遠回しに寂しかったなんて言われたら、もう歯止めが利かなかった。

 それが求める想いの温度とはずれていても、十分すぎた。

 簡単に、感情が理屈を押しのけてしまう。あっさりと、ルールを破ってしまう。


「うん、約束する。またそのうち遊ぼう」

「ありがとう。それと今日のこと、全く気にしてはいないから。むしろ、今みたいに役に立ててよかった」

「あー、頼もしいダチがいて助かったわー」


 ちょっと声がかすれかけたけど、友人らしいやりとりを絞り出せてよかった。

 あたしは顔を伏せる。落ち着く香りと温かさを感じる、あいつの背中へと。

 今だけ、どうせ密着してるんだしと言い訳をして。


「……ほんと、かっこいいんだから」


 心に留めておけなかったつぶやきが、決壊の一押しとなった。

 ずっと膨らんでいた熱いものがはじけて、胸から喉へせり上がってくる。


「……?」

 拾えるかギリギリの声量だったから、あいつからは何か言ったかと返ってくる。

 なにがーととぼけて、あたしはひくつきそうな喉に必死に力をこめた。


 あいつのコートを汚さないように、淡い水色の空を見上げる。どこぞの名曲みたいに、涙がこぼれ落ちないように。



 ああ。

 好きだ。

 このひとのことが、どうしようもなく、好きだ。



 必死に剥がそうとしていた欲が、洪水みたいになだれ込んでくる。

 もっとお話したい、もっと頼りにされたい、もっといろんなところで遊びたい、優しくされたい、ずっと仲良しでいたい……


 何度も何度も諦めろと言い聞かせたのに。

 友人として過ごしてきたからこそ、叶わないと答えは出ていたのに。

 想いの矢印を変えられない。

 瞳はずっと、あいつしか見えていない。

 足はとっくに、深い沼に沈んで動けなくなっていた。


 あいつが向けてくれるものすべてに、あたしは生かされている。

 ……そう、だからそれでいいのだ。

 今日一日でじゅーぶん身に沁みた通り、あたしは離れることなんてできやしなかった。


 認めよう。都合よく受け取っちゃう恋愛脳はしゃーないと。

 受け入れた上で、一度は諦めかけた道を進む。


 あたしは拒絶されて、あいつの側にいられなくなることを恐れている。

 そしてあいつがあたしに求めているのは、良き友人であることだ。

 あたしがすべきことは、今の関係を守り通すこと。それが、互いの幸せを両立させる最善の方法だと信じて。


 抱いた想いを決して後悔はしていない。

 出会ってからのこれまでは間違いなく幸せだったと言えるし、あいつがくれたものはあたしの中で永遠に残り続けるから。


 いずれこの子の中で、あたしの順番はどんどん後になっていくだろう。

 でも、あたしの1番はずっと変わらないから。

 どれだけ頻度が少なくなっても、連絡を断つなんてことは絶対にしない。

 君からはときどきふっと思い出して一言でもくれたら、それでいい。


「風、強いな」


 あいつの声と気候が、抗えない時間の流れに引きずり戻していく。

 力強く、ぬくもりを運んでくる南風が吹き付けていった。氷河期のさなかにいるあたしを挑発するかのように。


「春だねぇ」


 ようやく涙が引っ込んできたので、頬をまたあいつの背中に寄せた。

 それだけで、陽が射したかのように心の煤が取り払われていく。

 いくつもいくつも、柔らかな歓喜が芽吹き始める。


 あたしの望む春は前兆すら見えなくて、途方もなく遠い。

 けれど、あいつといるだけで何度でも、どんなときでも心は色づくのだと気付いた。


 だから、生きていける。

 季節が何度巡っても、咲いた想いは永遠に枯れないのだから。


 さて、答えが出たんで行動しますか。

 青春は待ってくれないんだから、今日も想い人との思い出をいっぱいつくっていこう。


「ところでさー」


 息を吸って、膨らみ始めた春の爽やかな空気を取り込んで。あたしは新たな話題を振った。

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