【B視点】私はママになりたかった

・SideB


 目の前の女性から妻がいたという発言に、あたしたちはえっ、と声を上げる。

 その態度が好奇の目に映ってしまったのか。

 女性は急に、しまったと慌て始めた。


「あ、あの。妻というのは、ええと」

 あー、赤の他人である女子大生にうっかり漏らしちゃったと焦ってるね。こりゃ。

 同性愛者です、って普通は公言する機会ないもんね。


 誰かに聞いてほしくて口がすべっちゃったのかもしれないけど、まずは好奇心で聞いたんじゃないってことからの説明かな。

 ”相手も同じ立場だから話しやすい”って認識させないと。


 相方のほうを振り向いて、あたしは目配せをする。

 小さくあいつは頷くと、何気ない軽めの声調で言った。


「偶然ですね。私達もですよ」

「ええ、実は」

 お互い肩を組んで、こめかみを寄せる。

 フリじゃないですよ、って伝わるように。


「えっ」

 女性は交互にあたしたちを見回して、『バー以外で出くわすなんて』と上ずった声を漏らした。


「驚かせてすみません。私も他の方の存在を知ったのは初めてなもので」


 触れられたくない話題でしたら、深入りはいたしませんとあいつが一歩下がったところ。

 軽くなりたいので聞いていただいてもいいですかと、女性は声を上げた。


 同じ同性愛者が相手だから、ちょっと警戒を解いてくれたのかな。

 少し間を置いて、女性は語り始めた。



「私は女性のみを愛する同性愛者ではありますが、かつての肉体は男性でした。MTF(Male to Female)と区分される人間です」


 そりゃまた、珍しいお方だ。

 声でちょっと引っかかったくらいで、見た目は普通の女の人と全然変わらない。

 性別適合手術を受けているため、戸籍も正式に認められたとのこと。



 物心ついたときから、女性は肉体とは異なる性自認があった。

 それと同時に、同じ女性しか愛せないことを知った。


 普通の男女として生きるなら同性のパートナーを見つけるのは容易だと思ったけど、求められている『男らしいふるまい』は女性にはできなかった。


 こんなにもちぐはぐな自分は、異性愛者にも同性愛者にも相手にされるわけがない。

 長らく心を殺して異性として生きていたところ、ついに運命の女性と出会う。


「それが、かつての妻です。ひと目見たときから心を鷲掴みにされて、初対面から話も盛り上がって……絶対にこの人を手放したくないと心に決めました」


 隠し続けるのは不誠実だと思い、意を決してカミングアウトしたところ。

 相手はいびつな自分を受け入れてくれた。自分の前では女性同士として愛し合いましょうと歩み寄ってくれた。


 やがて、二人は籍を入れることになる。

 でも、ここからが葛藤との始まりだった。


「世間の目もありますし、妻以外の前では男性として振る舞うことは耐えられました。ですが、手術を受けたいという思いはどんどん強くなっていきました」


 原因は、他でもない自分にある。

 こころとからだに、剥離を感じるようになってきたのだ。


「どんなに妻といる間は本当の自分をさらけ出せると言っても、どこまでも私の肉体は異性です。それが耐えられなくなってきたのです」


 異性の声で、妻に愛をささやく。

 異性の指が、妻に触れる。

 異性の身体で、妻と愛し合う。


 鏡に映るのは、自分でない誰かが妻のすべてをものにしている姿。

 そのことに、激しい嫌悪感を覚えるようになってきたのだ。


「望む姿で一緒になりたい。そう伝えたところ、子供が出来てからならいいよ、と言われたため授かる道を選びました」


 やがて妻は妊娠し、女性は手術に踏み切った。

 世間的にはなかなか受け入れがたい関係性のため、引っ越しも決めた。


 人間関係も1からリセットして、新しい土地で、一緒にやり直す。

 ようやく一致した心と体で、堂々と愛し合える。

 それが叶うと信じていた。


 結果は、妻側からの拒否。


 あれだけ手術を後押ししてくれたのに、いざ女性の肉体を手に入れて帰ってきた自分と共に生きることはできなかった。


 妻は歩み寄る努力はしていた。つもりだった。

 それまで心は同性だと知っていたくせに愛することができたのは、結局のところ。 

 肉体が異性であったからだ。

 肉体が心と一致しないゆえに苦しんだ女性とは、皮肉にも真逆で。


 ”わたしは同性愛者にはなれない”と突きつけて、妻は離婚を申し立てた。


「今考えれば、手術を受けてもいいと言った時点から別れることを決めていたのでしょうね。日本での性別変更は、婚姻関係があるとできないと後に知りましたので」


 あれだけ欲しかった女性としての生。

 代償は、妻と授かった子供。それまで築いてきた人間関係。

 ようやく望む肉体を手に入れて自由になれたはずなのに、すべてを失ってしまった。


「もし、私の肉体が最初から女性であったなら。あるいは、心も男性であったなら」

 もっと、平凡に生きられたのでしょうねと。

 女性は虚ろにあたしたちへと笑いかけた。


 この話はここで終わりじゃなかった。

 心機一転して、女性として生きようと新たな生活を始めた矢先。

 突如元妻から、親権を渡したいと連絡が来たのだ。


 このあたりであいつが『勝手だな』と言いたげに眉をひそめた。

 たぶんあたしも同じ顔をしていたと思う。


 その奥さんも重度の育児ノイローゼで限界だったんだろうけど、そんなときにだけ頼るのもなあ。

 子供は父親の顔を知らないから、押し付けやすかったこともあるんだろうけど。


「それでも、私は内心嬉しさがあったのは否定できません。母親として生きることで、ようやく女性だと世間に認められる気がしたのです。そもそも、離婚の発端は私がエゴを出したことによるものです。正直、子供と妻への贖罪もありました」


 幸い、女性には頼れる両親がいた。

 もともと在宅ワークだったこともあり、なんとか二足のわらじを履くことができた。


 慣れない育児は助けを借りながら乗り切っていけたものの。

 やがて父親が他界し、母親は体力が衰えて手伝うことは困難になってしまった。


 在宅の仕事ゆえに適度に母子分離が保たれていなかったことも、拍車をかけた。


「施設に預ける道を選ぶ気はありません。両親を自分のせいで追い詰めたと、子供に思わせることだけは避けたいので」


 お話を聞いてくださりありがとうございましたと、女性は頭を下げた。


「……差し出がましいかもしれませんが、まずはお母さんのケアが最優先です。精神科に通って、シッター制度や一時預かりを利用して、とにかく自分の時間を作るのが一番だと思います」


 解決には行ってなかったため、お話が終わったタイミングであいつが具体的な対応策を提示する。


 もうひとつあたしたちにできることは、ひたすら愚痴を聞いてあげること。


 女性は隣の部屋に響かない範囲で、子供の偏食がつらい、何を作っても満足に食べてくれないのがつらい、泣き声が責められてるようでつらい、声でバレるのが怖くてママ友に馴染めないのがつらい、ママと一日に100回以上呼び止められるのがつらい、何より元妻と同じ轍を踏んで、まっとうな母親をこなせないのがつらい。


 たくさんの涙とともに、抱えていた苦しみを吐き出した。

 がんばるお母さんへと、あたしは精一杯の言葉を贈る。


「育児はどこまで行っても正解がありませんし、ワンオペならなおさら過酷です。どんなに辛くても必死にがんばっている親御さんを、誰も責めたりはしませんよ」


 だから、その時点でこの人は立派な母親なのだ。

 少なくとも、あたしには到底務まらない。


 やがて全部口にしたことで、涙も枯れ果てたのか。

 女性は目元をぬぐって、あたしたちへと深々と頭を下げた。


「本当に、なんとお礼を言っていいかわかりません……ただ、ありがとうございます。感謝の言葉しかありません」


 掃除と子供の面倒見と話を聞いてくれたお詫びとしてお金を出そうとしてきたけど、さすがに受け取れないので丁重に断った。


 それから猫を任せていたボランティアの方々から連絡があったため、あたしたちはそろそろ家を出ることにした。



 外は真っ暗になっていた。

 時刻は普段であれば夕食を済ませている頃だ。けっこう長くいたんだね。


 女性は最後に、育児とは別のお礼の言葉を述べた。

「嬉しかったんです。MTFビアンと区別せず、同じ同性愛者だと扱ってくれたのは、あなたたちが初めてでした」


 パートナーを求めて、そういった方々の集まりに参加しても。

 カミングアウトした時点で、それは女ではない、自分たちと違うと区別されて女性は孤立してきた。


 マイノリティ同士であっても、分かり合うことができない。

 いったいどれだけ、女性を孤独に苛ませたのであろうか。

 母親という役割に固執するのもわかる。


 女性はいつの間にか起きてきた子供と、玄関先に並んであたしたちへと頭を下げる。


「同じ志向を持つ者として」


 子供を抱えて手を振りながら、女性はエールを送ってくれた。


「どうかあなた方の未来に、末永く幸多からんことを」



 さて茶トラの診断結果は、慢性腎不全。

 腎臓病の末期だった。

 今は入院していて、食事と水は摂ってくれているのが救い。食べなかったら本当に危ないからね。


 茶トラはボランティアさんの家に、退院後保護してもらうことになった。

 腎不全の場合、多飲多尿ということで一日一回は輸液が必要になるから。

 そして茶トラ自身、もう永くないから。


 そうなると、いつも一緒にいたお嫁さんがひとりぼっちになっちゃうわけだけど。

 手分けして捕まえて、茶トラと同じ家で保護してもらえることになったみたい。

 この厳しい寒さの中、置き去りにするのは可哀想だからって。


 猫とか、あの親子とか。

 あらかた気になっていた問題が片付いて、あたしたちは無言で暗い夜道を歩いていた。

 気まずいとかじゃなくて、なんとなくする会話もなかったので。


「寒いな」

 ふと、首に巻き付く毛糸の感触があった。

 あいつがかけていたマフラーをほどいて、片方を引っ掛けてくれたのだ。


「降るっぽいね、今夜あたり」

 降ってもせいぜい、粉雪あたりだろうけど。

 つかそれで済んでくれないと路面凍結するから困る。


「なんで気づいてあげられなかったんだろう」

 寒空へと、あたしはつぶやいた。今更のことを。


「腎臓病、だったか。あの猫も」

「うん。よく覚えてるね」


 かつて飼っていた猫を亡くしたのは、高3の春だったかな。


 あたしはバカだった。餌もおやつも欲しいだけ与えて、ぶくぶく太らせて。

 もちもちで抱き心地最高ーって、健康にまるで気を遣っていなかった。

 いつまでも、ふくよかな姿でいてくれると思っていた。


 飼い猫の食欲はだんだんと落ちていった。

 カリカリを食べなくなって、背中の骨が浮き出るようになって、ちゅーるとかのウェットフードばかり舐めるようになって。


 やたら水を飲んで、粗相も増えた。

 風呂板に一晩中うずくまっているようになった。

 それらの異変を、あたしは年だからと流していた。


 あれは全部、腎臓病の兆候だったのに。


「人間の介護はあんなもんじゃないんだろうけどね。最後のひと月はまさに介護だったな」


 水も食事もやがて受け付けなくなって、強制給餌が始まった。

 学校にいる間も惜しくて、帰ったらすぐにフードを溶かして暗い場所で横たわる飼い猫にあげていた。


 休日はずっと付き添って、何回にも分けて流し込んだ。

 それでも、普通の猫が一日に摂る栄養量には届かなかった。


 そうやって無理やり生かすことが正解だったのかは、今でも分からない。

 苦しそうに舌をぺっぺと動かして、恨めしそうに唸る顔が今でも忘れられない。


 あれだけつやつやだった毛並みも、自力排泄が困難になって毛はべたべたに汚れてしまった。蒸しタオルで毎晩拭いてあげたっけ。


 まるで体中の水分が抜けてしまったように、いつもぽちゃぽちゃだったお腹もぺったんこにしぼんでしまって。

 まぶたも閉じる力がないのか開きっぱなしになって。


 それでも最後の日まで身体を引きずって、必死にトイレに行こうとしていた。

 強い子だった。


「未だに夢に出てくれないんだよね。怒ってるだろうな。会いたいんだけどなあ」

「…………」


 それまで黙っていたあいつが、背後から腕を回す。

 密着するように、ぐっと引き寄せられた。


「みんな、そうやって学んでいくんだよ」

 だからあたしのせいではないと言うように、ぽふっと頭に手袋の感触が伝わる。

 冷え切っているはずなのに、温みを感じる。


「あの子たちに会いたければアポイントを取って、来てもいいと聞いている。生きているうちに精一杯可愛がってあげればいい」

「……そうだね」


 胸から熱く湧き上がってくるものをこらえて、あたしは空を見上げる。こぼれ落ちないように。


「あ」


 ちょうど、暗い夜空から舞い降りてくるものがあった。

 冷たく、透き通った粒。これを見るのは何年ぶりだろ。


「とうとう来ちゃったかー」

「正月中であったことが幸いだが……」

 休みが終わるまでに、溶けてくれるといいんだけどね。


 茶トラとそのお嫁さんが、この寒さの中震えることがなくてよかった。

 今はそれを幸いに思おう。


 粉みたいに雪のかけらがきらめく夜道を、あたしたちは白い息を吐きながら突っ切っていく。

 お互いをつなぐマフラーをしっかり握りしめて、離れないように。


 元旦の夜はこうして更けていった。

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