【A視点】おつかれさま

続々・SideA 


 翌朝。

 肩にくすぶる不快な疼痛に起こされた私は、とある失態に気づいた。

 LINEのトーク画面一覧を開いたところ、未読の会話が30件以上も届いていたことに。


 発信元はすべて我が柔道部。しかし通知音は一切鳴らなかった。

 だから昨日も友人たちからは来ているのにおかしいなと思いつつも、よく画面を確認せず寝入ってしまった。


 何故。そうして名前欄をよく見ると、”通知オフ”のアイコンが付加されていた。

 であれば、音が鳴ることもない。

 おそらくは通知が流れてきたときに、画面を開こうとタップしたところ間違えてミュート設定に指が当たってしまったのだろう。そうとしか考えられなかった。


 おそるおそる、トークルームに入る。


 直後。だだだだだ、と銃乱射のような通知音がスマートフォンを撃ち鳴らした。

 一度に何十件もの通知を吐き出したものだから、とんでもない勢いで画面がスクロールされていく。


 まずい。非常にまずい。

 皆が一向に連絡のない主将に焦りと不安を募らせているとしたら。その結果、本日の試合に響いてしまったとしたら。


 時刻は午前7時に差し掛かる前。なればまだ間に合うだろう。

 電話か。いや、ミーティング中であったら邪魔をしてしまう。

 少し考えて、文面で送ることにした。


 ”返信が遅れてしまい、大変ご心配をおかけしました。

 昨日は己の負傷で敗北を喫するという結果を招いてしまい、誠に申し訳ございません。幸い怪我の度合いは軽微で手術には至らず、現在は自宅で安静にしております。本日は中継の映像を通して各々の試合を観戦いたしますので、どうぞ宜しくお願いいたします。”と。


 数分後に返信が届いた。顧問からであった。

 ”了解です。伝えておきましたのでご安心ください。

 一同、一刻も早いご回復を心からお祈りしております。”

 そう書いてあった。


 普段の豪放磊落な態度からは、想像もつかない律儀な文面に口元が緩みそうになる。

 報告したいことは山ほどあったが、これ以上謝罪を重ねても意味がない。今日は部員たちの戦いを見届けることとしよう。



 朝食後、今更だが身体を拭きたいと親に申し出た。


 今は夏場。しかもこれから来客が訪れる状況でこの様はいけない。

 いくら怪我人といえど女、いや人間的に終わっている。相手が彼女となれば余計に汗臭いままではいられなかった。


 手を貸そうとする親に遠慮しつつ、時間をかけてなんとか蒸しタオルで汗ばんだ身体を拭いた。負傷箇所が利き手でなくて本当に良かった。

 数日はこの方法でしか清められないから、今から一人でできるように慣れなくては。


 髪の毛は……仕方ない。念入りにタオルで拭って、ヘアコロンを吹きかける。

 櫛で寝癖を梳いて、最低限ではあるが準備は整った。


 それから。9時ぴったりに、我が家のインターホンが鳴った。


「や。お邪魔するよ」


 彼女とは久しぶりに顔を合わせた気がする。学校以外で眼鏡を掛けているのが一層新鮮に映った。

 夏休み中というのもあるが、最近は学校でも挨拶か世間話くらいでプライベートで会うことはなかったから。


「(ねえ誰? あの超かわいい子誰?)」

 母親が小声で顔を寄せてくる。芸能人を見かけて浮かれている人の反応だ。


 無理もない。ファッション雑誌の表紙からそのまま出てきたような人が突然自宅に来訪されたら、誰だって同じリアクションを取るだろう。

 私の感覚が麻痺しているだけで。


 それにしても、あの肩に担がれたジャージはどういう意図で服装に組み込んだのであろうか。

 涼やかなロング丈のワンピースには不釣り合いすぎて、妙に視線がいってしまう。冷房か日焼け防止で持ってきたわけではなさそうだし。


「うちの娘をお友達に引き取ってくださってありがとうございます。本当にありがとうございます」

「……母さん」


 綺麗な人に気圧されているのだろうが、ひれ伏すといった行為を本当にやられても困る。ノリの一環なのかもしれないが。


 あとは若いおふたりさんで~、などと最後まで演技めいた態度を見せながら、母親は階下へ向かっていった。


「面白いお母さんだね」

「初対面だけだ。饒舌なのは」


 間が持たないのが大の苦手な母親は、最初は妙に茶目っ気のある人格で通したがる。

 己の人生において二度と会わないような人にほど、その傾向が強い。


 職場では入社時はお喋りだったのが一転、ひと月後は挨拶と業務連絡以外は一切口を開かない変貌っぷりに上司から鬱を疑われたと前に聞いた。

 人との繋がりは欲しい、しかし本質的には人付き合いが苦手。

 という点では、ベクトルが違えど私に受け継がれている節はある。


「さて」

 母親が置いていった麦茶のグラスを煽ると、彼女はハンドバッグから制汗剤のようなものを取り出した。


「お見舞い品。どうぞ使って」

「……これは?」

「ドライシャンプー。洗わないで使えるやつね」


 ちょうど髪の処理に悩んでいたところなので、思わぬサプライズだった。

 よく相手の求めているものをぴたりと当てられるほど、頭が回るものだ。


 しかし、こういった特殊な日用品は値が張るのではないか。思わずいくらだったかと問いただすと。


「千円もいかんから安心して。ありがたくもらっときなさい」

 頼まれたわけでもないしねーと言いつつ手は開封の動作に入っており、そのまま私はドライシャンプーの手順を実践形式で教えてもらうことになった。


 このシャンプーは泡が出るタイプということで、本来のシャンプーの感覚で使いやすいということ。

 十分に梳かして髪の絡まりを解したら泡を出して、髪と頭皮にしっかり馴染ませていく。

 適度に力をこめて、地肌をマッサージしてくれる指の腹が心地よい。


「おかゆいところはございませんかー」

「……無いです」


 あっても皮脂の溜まってる箇所を重点的に揉んでくれなど。言えるわけがない。

 相手の善意からとはいえ、己の頭を洗わせて頂いている現状が恐れ多すぎるというのに。


「鏡見ながら拭き取るといいよ。生え際とかにけっこう残りやすいからね。あと、こういう緊急時はしゃーないけど、毎日の使用はやっぱおすすめしないかな。

そこはやっぱ、洗い流さないと汚れは完全には取れないからね」


「そう……だよな。明日からは通常通りの洗髪に戻るよ」

「片手じゃしんどいだろうし、洗髪用のブラシ使うのがいいかも。普通の櫛みたいに溶かしながら洗うやつね。柄が長いとなおいい」


 そこで唐突に会話を断ち切ると。彼女は意味深にふふふ、と含み笑って。

「というわけで、これも買ってきちゃいましたー」


 某猫型ロボットの声真似で商品名を読み上げつつ、彼女はバッグから買ったものを取り出した。

 だんだんあのバッグが手品師のシルクハットに見えてきた。


 どうしてこの人はこんなにも頭の回転が早いのか。一つの情報から取捨選択する洞察力に優れているというか。


 私にはどうすればそのエスパーみたいな能力は会得できるのか。

 もっと他人と関わったり、本を読んで視野を広げる他ないのか。


「これ百均のやつ。まじで。お代はいらんからね」

 最後に髪を美容師のごとき手際で丁寧に拭き取ると、あとはお好みで調整を~と明るい調子で櫛を渡された。


「本当に……ありがとう。このお礼は」

 何を返せば釣り合いが取れるだろうか。

 言ってみたところで、彼女が求めているものに私などが応えられるかは分からなかった。

「いーよ。あたしがお節介焼きたいから焼いてるだけ」

 ああでも、と彼女は少しだけ考えるそぶりを見せると。


「じゃ、もうちょっとだけいてもいい? あたしもこれ見たいから」

 言うが早いか、彼女はリモコンに手を伸ばした。

 チャンネルを回して、始まったばかりのインターハイの中継に切り替える。


「ぜ、全然構わないが」

「そ? ありがと。怪我人だから長居しちゃ迷惑かなと。髪終わったらお暇しようかなと思ったんだけど」

「そ、そんなことはない。別に、何時でも」


 久々に会ったからだろうか。

 疎遠になりかけていた不安もあって、私は繋ぎ止めるように切羽詰まった口ぶりで発してしまった。


 距離感のあやふやな私にも彼女は特に反応することなく。辛くなったらちゃんと言えよーと付け加えて、視線はテレビへと向けられた。


 少し、感情が先走りすぎていたと思った。

 今は主将として、冷静に試合を眺めつつ落ち着きを取り戻していこう。



 本日のインターハイは最終日ということで、女子の個人試合(中量~重量級)のみ。

 私の部からの出場は、63kg・70kg・78kgの3名。うち1名は私であった。


「ふーん。後輩と同級生が1名ずつね。63級は昨日戦った主将がいるんだ?」

「そうなるな」


 お互い母親が差し入れたスイカバーを齧る中、試合が始まった。

 棒アイスにしたのは片手しか使えない私に合わせてくれたのか。


 63kg級で出場した後輩は、昨日の団体戦でも先鋒で大いに暴れてくれた子だ。


 秒殺の異名をもつ後輩の快進撃はとどまることなく、決勝戦までオール一本勝ち、経過時間もすべて1分以内と何者も寄せ付けない圧巻の戦いぶりを魅せてくれた。


「あ、昨日のアイドルだ」

 一方、同階級である昨日の女子生徒も負けちゃいない。

 後輩と比べると驚くような勝ち筋こそ無いものの、長い手足を存分に使って確実に勝利を収めている。


 あとは容姿の良さも相まって、注目度はこちらのほうが高い。畳に上がる度に黄色い歓声の濃度もどんどん高まっていった。


 これを才能がないときっぱりNは言い切ったが、いくら優勝候補のあの人でも節穴なのではないかと疑うほどの好調っぷりである。


「よっしゃいったれー」


 勝負の行方は、後輩の勝利に終わった。

 両者一歩も譲らず、試合はゴールデンスコアまで延長。

 およそ15分にもわたって凄まじい戦いぶりが繰り広げられた。


 体力が切れかかってきた頃に女子生徒の寝技が炸裂し、あわや万事休すかと目を覆った矢先。

 力を振り絞って、後輩は絡め取る足から逃れた。

 最後は巴投げで華麗に勝利を納め、会場に大歓声をもたらしたのであった。


「わ、マジか。全国制覇か。うちらの学校から。すごい日だわ、今日」

 彼女は夢中でテレビにかじり付いている。今やすっかり柔道知識もついたので、それなりの深さで語れるのが嬉しい。


 決着後、私は後輩の意外な一面を見ることになる。

 後輩は優勝を飾っても、一切畳の上で喜びを見せなかった。

 乱れた道着はしっかりと直して、相手に深々と頭を下げ、固い握手を交わしていた。


 畳を降りる瞬間まで、礼を尽くす。

 対戦相手が居てこその勝利だと分かっているから。美しい去り際であった。


「これ、さ。あんたと同じ光景だったよ」

「そう、なのか」


 喜びを表すこと自体が悪い態度ではない。ルールに組み込まれている剣道ならまだしも。

 なので特別情緒の面での礼儀は指導していなかったのだが。


 その後も泣き崩れる対戦相手に駆け寄って、慰めるように優しく抱き寄せている姿が映し出されていた。

 あの女子生徒は、確か大学でも続けると言っていたか。

 1年後、二人はどこまで強くなっているのか。今から成長が楽しみであった。


 少しこみ上げてきた感動は、試合後のインタビューで見事に引っ込むこととなった。


『優勝後のお気持ちをお聞かせ願えますか?』

『今は無き主将のために仇を取りました』


「勝手に殺すな」

 横で彼女が笑いを噛み殺す声が聞こえた。


 さらにカメラは部員が待機する応援席へと回り、リポーターがこの方がその主将さんなんですねーと堂々とその光景を映し出す。


 顧問の隣、ぽつんと不自然に空いた席に私の写真が立てかけられていた。

 ご丁寧に額縁まで付いて。


 今度こそ彼女が耐えきれず吹き出した。

 ツボに入ってしまったのかずっと笑い止まないので、私も釣られて笑いながら手刀を頭に落とした。


 私が出場する予定であった70kg級は有言実行通り、Nが初優勝を飾った。

 インタビューは奴らしく、『ライバルがいなかったので張り合いがなかったです』などと真顔で言ってのけてリポーターを凍りつかせていた。


 78kg級の副主将は昨日のリベンジとばかりに、多彩な技を駆使して勝ち進んでいった。技のデパートの本領発揮といったところか。


 だが、壁は準々決勝でついに立ちはだかる。

 相手は先ほどこちらの後輩に負けた学校の選手であった。

 こっちの階級では負けないと挑んだ熱意に押し負けて、あえなく副主将はここで敗退となってしまった。


「もうちょっとで抜けたのになー。惜しかったね」

 彼女が残念そうに拍手を贈る。

 そうなのだ。仮にあと数秒あればほどけていたのかもしれないが、時間が間に合わなかった。

 それでも、副主将は最後まで戦い抜き、後輩同様畳を降りるまでは一切動じなかった。立派な姿であった。


 試合後のインタビューでは、笑顔で相手を褒め称えている様に胸が熱くなった。

 悔しさでいっぱいの気持ちを押し殺して、素直に対戦相手の強さを讃えられる。

 私ですらなかなかできないことだ。思わず拍手を贈る。


「はー。おつかれー」

 そうしてすべての試合が終わり、緊張がほどけていく。意味もなく横の彼女と握手を交わした。


 会場で見れなかったことを心から残念に思ったが、隣に友人がいてくれたからだろうか。

 一人だけ取り残されている孤独感は自然と覚えなかった。誰かがいてくれるというのは、心強いことだ。


「ん? なにしてんの」

「総括」


 私は個別LINEにメッセージを打っていた。

 あの会場に行けない以上、せめてここから主将としての最後の務めを果たしたかったのだ。


「セルフ寄せ書き? マメだねー。あとタイピングめっちゃ早くなったね」

「だいぶ使うようになったから」


 今は長文を打つのも苦にならなくなっていた。

 英語同様、こういったものは必要だと思って積極的に活用しないとなかなか定着しないものだと思う。


「終わったん?」

「ああ」

 部員全員に自分なりの言葉を送り届けて、だいぶ電池残量が減ったスマートフォンを充電器に繋ぐ。


「……?」

 振り返ると、何故か彼女がジャージを上に羽織っていた。冷房が強かったのかとリモコンに手を伸ばそうとすると。


「ちゃうちゃう。まだ終わってない人がいるでしょ」

 それとジャージを着始める因果関係が見出だせない。まさかNや昨日対戦した女子生徒を指しているわけじゃあるまいし。


「ほれ」

 突如視界が暗くなって、顔が柔らかい感触に包まれた。抱きすくめられたのだ。

 何の真似だろう、と口に出そうとすると。



「3年間、本当におつかれさまでした。主将」



 慈愛に満ちた、柔らかい声が頭上から掛けられる。

 背中に添えられた手は、穏やかなリズムを刻んで掌が当たる。子供を労る親のように。


「……恥ずかしい」

 出した声が、自分のものとは思えないほどか細くなっていた。

 同時に、心の奥底を覆っていた氷が溶け出していくのを感じていた。

 剥き出しになった感情に、未練が浮き彫りになっていく。


 自分のミスで部員たちを決勝まで導けなかったこと。

 対戦相手の女子生徒に気まずい思いをさせてしまったこと。

 最後の個人戦に出場できなかったこと。

 Nとの最後の対決が叶わなかったこと。

 会場で部員たちの戦う様を見届けられなかったこと。

 自分を応援しに来てくれた全ての人達に、満足の行く結果を残せなかったこと。


 今更、どうしようもないことばかりだ。これで引退なのだから新人戦のような悔しさは覚えない。

 ただ、不甲斐ない気持ちばかりが心を埋め尽くして、膨れ上がっていく。

 胸へ、喉へ、そして。


「駄目だ……汚してしまうから」

 私は首を振った。譲れない一線があったのだ。


「そのためのジャージだよ。我慢しないの」

 至近距離で彼女と目が合う。化粧に隠れているが、目元をよく見ると泣き腫らした痕がうっすら残っていた。


 あの日。新人戦で慰める前に泣いてしまったから。

 きっと昨日は思い切り溜まっていた涙を流しきって。珍しく眼鏡を掛けて。

 笑顔で受け止められるように、来てくれたのか。


「武道館に。みんなを、あたしを、連れてってくれて、ありがとう」


 頭がそっと撫でられる。

 規則正しい掌の感触に、かつて親に縋り付いて頭を埋めた記憶が呼び起こされていく。

 包み込む優しさに触れてしまってからは止まらなかった。

 あっという間に感情の洪水が溢れ出て、食いしばった歯からは勝手に嗚咽が漏れていく。



 しばらく、私は幼児のように泣きじゃくっていた。

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