来店編

【A視点】母が来た

・SideA


 気力との闘いだった集中講義が終わり、私はようやく訪れた休暇を持て余していた。


「…………」


 さんざん寝たあとだというのに、広げたノートの上にだらしなく突っ伏す。

 率直に言えば、身が入らないのだ。


 ここのところ勉強漬けで稼働限界を超えてしまったのか、資格勉強に当てる余力は残されていなかった。

 頭が疲弊しきっていては、当然体を動かすエネルギー元も調達できない。


 グループワークを通じて仲良くなった人がいたり、

 間延びせず叩き込めるので通常の講義よりも内容が定着しやすかったり、

 教授の工夫による凝った授業は新鮮でなかなか楽しめたりと、良い一面もあったのだが……


 やはり、1限からみっちりというのは相当に堪えるものがある。

 2回生は絶対に無謀な時間割を作るのはやめよう。私は固く誓った。



 枕元に置いていたスマートフォンを手に取って、LINEを起動する。


 おつ。心ゆくまでおやすみなさい。


 彼女とのやりとりはこの文章で途絶えていた。

 最近、友人から少し特別な関係へと変わったからなのか。

 相変わらず端的な文面であったが、今はどこか温かみを感じてしまうのはのぼせすぎであろうか。


 ともあれ。

 一種の燃え尽き症候群である今は、とにかく自身を労ることが賢明だろう。

 今日は何もかもを休ませることを決意して、私は再び寝転がった。


 だが、他人は己の都合など知ったことではない。

 滅多に鳴らない着信音が耳朶を打って、私は電源を切らなかったことを後悔しつつ耳を当てた。



『もうすぐ着くからね』

 母親からだった。もちろん、呼んだ覚えなどない。


「今日は無理」

『無理ってなによ。どうせ家にいるんでしょ』

「……まず要件を」

『お米。あと実家から野菜届いたからそれもね。配送だとお金かかるでしょ?』

「せめて事前に連絡いただけませんか」

『そしたらあーた、別にいいって遠慮するじゃない』

 まるごと持ってくるので野菜室には入らず、置き場に困るのである。

『だからお母さんがいるんでしょう。ちゃんと下処理して冷凍保存してあげるから』


 これ以上の問答は無駄だと分かり、観念することにした。

 親なりの善意なのは感じているので、どうにも無碍にはできない。

 加えて、生活費を負担して頂いている身分では余計に。


 米はどれだけあっても困らないし。

 野菜は……品質自体は店頭のものに引けを取らぬほどには良い。

 傷んでいる部分や泥や虫本体は事前に取り除いてくれているのだ。

 量が多いだけで。

 余ればおすそ分けかどこかの団体に寄付する選択肢もあるだろう。



 外に出て数分ほど立ち尽くしていると、やがて一台の軽自動車が到着した。


「箱入れるから玄関開けといて」

 凄まじい青臭さ、いや農家の匂いをまとって母親が降りてきた。

 後ろを見ると、トランクはおろか後部座席にまで箱が積み上がり窓を塞いでいる。


「元気してた?」

 果たして元気そうに見えるだろうか。


「せっかくの夏休みなのに辛気臭いわねぇ。どこも行かなかったの?」

 昨日まで講義三昧だったもので。


「じゃあ、景気づけにこれあげるわ」

 いきなり手を握られる。紙らしきものを渡された。


「元気だしてね」

 現金を出された。


「なによその顔。お金で大抵のことは解決できるって言うじゃない。

マッサージ屋でも行ってらっしゃいな」

 精神的より、具体的な解決方法に寄り添う親はなかなかいないと思う。


「いや、この歳にもなってお小遣いを施されるわけには」

「いいのよ、その分仕送りで返してくれれば。って言うとプレッシャーあるから就活も引き締まらない?」

 一言余計である。

 が、一つの正論でもあるので口を挟めなかった。


「眠いの? じゃあ寝てていいわよ。その間やっとくから」

 という母親の言葉に甘えて私は惰眠を貪った。

 我ながら親不孝な娘である。


 しかし手伝う余裕もないほど、今の私は早急に休息が必要な状態にあった。

 枕に頭を預けるが早いか、私の意識は急速にまどろみの中へと飲み込まれていった。



 目が覚めたときには、すでに正午を大きく回っていた。

「あ、もういいの?」

 隣には、ソファーに腰掛けてのんびりと再放送のドラマを鑑賞する母親の姿があった。


「ええと……」

 なぜ実家にいるはずの親が居座っているのかを理解するのに、数十秒の時間を要した。

 寝起きの回らない頭では、処理速度は数世代前のPCにすら劣る。


「突っ立ってないで座ったら? あと、野菜の処理終わったわよ」

「あ、うん、ありがとう。助かった」

 今後の参考のため、主な保存方法を聞いておくことにする。


「まず、大根は葉を切り落として身を新聞紙に包む。冷蔵庫は水分抜けるからダメ。

あと葉っぱは炒めるとふりかけになるから。作って小瓶に入れておいたわ。

白菜は洗ってビニールで包んで。スペース取るから何等分かに分けたわ。

ネギは刻んでジップロックに入れといたから。ほうれん草は湯がいて冷凍。

迷ったら、冷凍室の野菜は立てるものと覚えておけばいいわよ。

常温で置いておけるものはベジタブルストッカーで壁に下げておいたから」


「……なるほど」

 私の口からは感嘆の言葉しか出てこなかった。

 凄いとは思うのだが、物凄く早口でまくし立てられたので半分も頭に入っていない。


「っていちいちメモらなくても、ここのHPに概要全部載ってるから」

 引用文だったらしい。とりあえず勧められたURLをお気に入りページに登録する。


「で、ついでだから何食か作ってタッパー詰めといたわ。おかずか弁当にでも活用しちゃって」

「その……何から何までありがとう」

「いいのよお礼なんて。働きで返してくれれば」


 ね? と微笑む母親の影には、やはり就活に対する威圧感を覚えた。

 年齢から逆算すると、母親は過酷な就職戦線を生き抜いてきた人だ。


 失われた世代。時代の生き証人。今年度の新卒採用はありません、でも第二新卒枠なんて言葉当時はないので中小なり非正規なりしがみついてね。

 そんなお祈りと言う名の厄介払いを何十社からもあしらわれ続けてきて。


『年齢や経歴で弾かれるから適当に仕事を選ぶな』

 と言いたげな”大人の目線”が、今の母親からはひしひしと感じられた。


「ところでこんな時間だけど、お腹は」

「空いてる。だからそろそろ帰ろうと思ってたんだけどね。寝てるとこを去るのも悪いかなーと」

「じゃあ、私が何かご馳走しようか」

 相手は親であれど、それくらいの孝行はさせてほしい。


「いーよ。あーた疲れてそうだもん。こき使ってるようで悪いわ」

 寝たから大丈夫だと主張しようとしたが、一度決めたことは母親は譲らない性分であることを思い出し、押し黙る。


「あー、じゃあねぇ」

 母親は良いアイデアが浮かんだかのように、突然手を叩いて言った。

「近くのスーパー。あれ外に飲食店何軒かあるでしょ? あそこいいなー」

「え」

 家の近くのスーパー、加えて飲食店が複数設けられてる施設となれば一つしかない。


「……ちなみに、どこで食べたい?」

「そおねぇ、」

 この年代にしては珍しく、母親は鮮やかな手付きでスマートフォンを操作する。

 検索結果はやがて、その施設の公式ホームページへとたどり着いた。


「あ、ここいいじゃない。ここ。おしゃれだし」

 そう言いながら見せてきた画面は、案の定の店名だった。

 思わず額に手を当てそうになる。


 彼女の職場だったからだ。


「”珈琲の隠れ家”だって。いっちょまえにシャレオツな名前しちゃってまあ。

でもホットケーキが売りかあ。最近食べてなかったのよね。美味しそうだわ」


 凝った調度品で飾り立てた、ちょっとした秘密基地感を醸し出すその店はやはりというか女性人気が高い。

 そして、店員からの人気も例外ではなく。主な従業員の大半は若い女性であった。


 ちなみに、私は一度も訪れたことがない。全部彼女から聞いた情報だ。

 顔見知りがいるお店に顔を気軽に出せるほど、私は肝が据わっていなかった。

 美味しいから食べにくればいいのにーと軽く誘われたこともあったが、今はどうなのだろうか。


「うーん……」

 頭を悩ませる私に、母親は気がかりそうに話しかけてきた。

「あら、カフェ嫌だった? 高いしいっぱい食べるとこじゃないし」

 問題は別にあったが、ここで母親の希望を却下するのも良心が傷んだ。


「何でもない。入りづらいなと思ってただけ」

「なーに言っちゃってんのよ華の女子大生様がさ」

 問題は別なのである。


「じゃ、本当にそこでいいんだね?」

「いいよ。食べに行こう」

 最終確認を取って、母親がトイレに消えていったのを横目に私はLINEを立ち上げた。

 相手は、当然ながら一人しかいない。


 母親と今から食べに行くけど驚かすつもりはない、ただの客として見てくれ、と。

「(来ない……)」

 彼女のレスポンスの速さには定評がある。この時間帯で既読も付かないということは。

 外出している可能性も考えたが、数分経っても来ない辺り、多分。


「何してるのー? 行くわよー?」

 玄関先で立ったまま動かない私に呼びかける母親に続いて、急いで靴を履いた。

 戸締まりを確認し、母の待つ車へと振り返る。


「はい」

 とっくに乗り込んでいるものだと思っていた母親は、私の目の前に鍵をぶら下げた。


「せっかくだから運転してみる? 免許取ってからあんまり乗ってないでしょ」

「それ、今言おうと思ってた」


 ただ向かうだけなら徒歩でも5分とかからない。

 が、車に乗れるのは今しかない。

 受け取って、久方ぶりの運転席へと座る。

 もしかしたら、車で来たのは私に練習の機会を設けてくれたのかもしれない。


「信号はギリギリでも他の車みたいに突っ切ろうとしなくていいからね。

バックは時間かかってもいいから焦っちゃダメよ」

「分かってる」

 キーを回す感触に緊張しながら、私は車を発進させた。


 彼女のバイト先に行くことを決めたのは、何も母親に気を遣ったからだけではない。

 女性受けが高く、従業員の大半は若い女性。


 これが何を意味しているのかと言えば、店の雰囲気、時給の高さ、制服の華やかさ。いずれかに該当する。

 これから向かうお店は、わりと全部の条件を満たしていた。


 単純に、私は可愛いとされるそこの制服に身を包んだ彼女を見たかったのだ。

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