【A視点】カミングアウト(前編)
・SideA
洗って、乾かして、梳く。
洗髪の一連の流れといえば、私はこれくらいしか知らなかった。
彼女が教えてくれた工程は最初は複雑に思えたが、そのうち慣れた。
反復練習と同じで、続けていれば日常の一部に組み込まれていく。
温風と冷風を使い分けて水分を飛ばした毛髪に数年の付き合いになる柘植櫛を当てて、締めの手入れを施していく。
今ではもう、以前の杜撰な状態で一日を終えるなど考えられなかった。
石の上にも三年。
継続は力なり。
要するに『努力は必ず報われる』系統の慣用句は数え切れないほど存在するが、やはり個人の力では限度のある壁も存在する。
その一つが、生まれ持った容姿だ。
「…………」
洗面鏡に映る己を見つめる。
正直に言うと、自分の顔は嫌いだ。
いくら髪質が改善されようと、化粧で肌荒れを覆い隠そうと、目鼻立ちは変わらない。
他の要素で欠点を埋めたところで、小綺麗な不器量以上の印象には上がらないのだ。
なれば美容整形も選択の一つではあるが、あれは元から配置が整っていても、形が惜しい人への後押しになるのであって。
骨格の段階で致命的な人間が大工事に踏み切ったところで、多額の金が飛んでいくだけだ。
なぜ、今になってこんなにも劣等感を覚えるようになったのか。
その答えは、胸の内が教えてくれた。
彼女は、相変わらず美しかった。
配置から形まで隙がなく、静止画で見る彼女は精緻を極めた人形を思わせる。
残酷なまでの遺伝子の差に、嫉妬を通り越し畏怖すら覚えていた。
きっと、あれだけ美しければ毎日鏡を見るのも楽しいだろう。
高校時代は同性からのやっかみ防止らしく、あえて垢抜けない変装でいつも通っていたからか。落ち着いた印象を保っていた。
だが、私服に着替えると雰囲気は一変する。
本気で余所行きの格好に固めれば、芸能人の如き輝きを放つと言っても過言ではない。
男性陣がこぞって鼻の下を伸ばし見栄を張る気持ちも分かる気がした。
それだけ、綺麗なものは人を惹き付けて止まない魅力を持つのだ。
美しい人は、見るだけで目の保養となって心に幸福感をもたらしてくれる。
ともかく、そんな美人が街中を闊歩していれば周囲は放っておかない。
何度、見てきただろうか。
すれ違う人が振り返り彼女を呼び止める光景を。
何度、見てきただろうか。
その横の私には目もくれず一方的に話しかける様式を。
多分、彼らに悪意は一切ないのだ。ただ眼中にないだけで。
美しさは罪とはよく言ったものである。
今更、異性から好意を寄せられたいと惨めな欲を持ったわけではない。
同性でも見惚れる圧倒的な美貌の前では、側で鑑賞できる己が誇らしいとさえ思えた。
だけど扱いの差を繰り返し目の当たりにすれば、嫌でも醜い感情が這い出てきてしまう。
彼女は、私のような者とつるむべき存在ではないのだと。
本来は、遥か高みに君臨する人間なのだと。
裕福な人の周りには裕福な人しか残らない。
人の輪は共感で最も強く結びつくのだから、自分と同じような位置の人間が付き合うには一番相応しいのだと思う。
合わせて背伸びをしていても、いずれは息苦しさが募っていく。
広がる格差からの価値観の相違を許容できず、関係が壊れるといった話は少なくない。
なぜ、私に構う。
あなたほどの人間なら、いくらでも話相手はいるのではないか。
現実に打ちのめされるたびに、見当違いな八つ当たりで心を焦がす時もあった。
鏡を見ろ、己ごときが友人面をするなと勝手に卑屈になっているだけなのに。
単純にも、渦巻いた負の念は彼女が声を掛けてくれるだけでたちまち霧散してしまうのに。
思っているほど、人は自分を客観視できていない。
私は、今の自分の心が分からない。
一生異性への縁は無いと随分前に割り切ったはずなのに。
元が悪いから無意味な努力だと理解しているはずなのに。
なぜ、未だ美に執着し続けているのか。
なぜ、美人と並べば己が無駄に苦しむことを分かっていながら、自分から距離を置こうという発想には至らないのか。
先程だって、あんな見せつけるようにブラッシングを始めて……
お世辞程度に浮かれて、調子に乗って道具をしたり顔で語りだして……
あれではまるで、褒めてもらいたくて披露する子供のようではないか。
一体、自分は何がしたいのだろうか。
御しきれない感情から広がり始めた自問を胸に、私は洋間へと戻った。
彼女は、未だ座り込んで動画をぼんやりと眺めていた。
「まだいいのか?」
もう少ししたら就寝の準備に入るので、せめてシャワーだけでも浴びて欲しいが……
「ごめん、飲みすぎたっぽい……」
答える声には覇気がない。
ふやけた皮のごとく、抑揚も緩んで視点も定まってないように感じる。
仕方ない。酔いが回った状態で入浴を勧めるのは危険だろう。
「そうか、では毛布だけでも出しておくよ」
言って、ソファーを指差す。
「ほんと、ごめんねぇ、ご飯食べたら入ろうか思ってたんだけど」
見れば、サンドイッチの袋は未開封のままだ。
空腹の状態で飲酒をしたから、アルコールの吸収も早かったのであろうか?
酒の缶も複数開いてるならまだしも、一つのみ。
持ってみると中身も残っている。
発泡酒自体は度数が低いほうだとは聞いているので、元々あまり強くないのか?
「別に気に病む必要はない。潰れたら介抱する約束だったし」
どのみち、べろべろに酔った娘に帰宅を促すのは最悪の選択だろう。
狼の群れに子羊を放すようなものだ。綺麗な子なら尚更。
運転免許は取得していても、肝心の車を持っていない自分を情けなく思った。
「今度から、持ち込むのはソフトドリンクだけにしておきなさい」
「はぁい、もうしません」
「お酒は私が二十歳になってからです」
「君はその歳になっても飲まないと思う」
「やかましい」
「あたー」
まるで子供を相手にするようなやりとりを交わして、水を汲んできたコップを置いた。
「…………」
保留にしていた、疑問の一つを掘り起こす。
やはり、今の自宅からバイト先までの距離は遠いのではなかろうか。
慣れない酒に頼るほど、体がしんどいと悲鳴を上げているのではなかろうか。
「なあ」
私は切り出した。
「その……今やっているバイト……は大変なのか」
「……?」
聞いているかも怪しい状態の彼女に、あえて。
彼女は言葉の意味を理解するように短く唸ると、ゆるゆると口を開いた。
「ま、接客業ですしなあ……土日はずっとシフト入ってるし……」
飲食店勤務だとは聞いているが、稼ぎ時に長時間入っていればハードワークになるのも已む無しか。
「前から気になっていたのだが……家と逆方向の場所に勤務先があると、色々と不便ではないか」
大学との区間内で探すのであればまだしも、わざわざ被らない場所である。
定期もその分買わなければならないし。
正直、私にはメリットが見出だせない。
「ああ、いや、社風や人間関係が肌に合っているとかの理由であれば申し訳ない」
己の価値観で”不便”だと決めつけてしまった失言を慌てて訂正する。
まずい。仮に上記の理由に該当するのであれば傷つけてしまったか……
「…………」
彼女は『いきなり何を言い出すんだ』と不思議そうに私を見つめていたが。
「ああ」
やがて、どこか悟ったように静かに息を吐いた。
「迷惑だったよね、あたし」
「は?」
虚を突かれた。
まさか、そこに着地するとは予想していなかった。
「いっつもバイト帰りにお邪魔してたら、そりゃそー思うよね……いつでも相手してくれる友達の感覚で来られちゃ、困るよね……
今日なんか特に、潰れてこんなザマでさぁ」
「……何を勘違いしているかは知らないが、そう思ったわけでは」
「違うの?」
違う。
とは即座に断言できない気持ちが、言われて初めて引っかかっていることに気づいた。
「アポイントも無しに訪問してくることは無かっただろう。
都合が悪ければメールの段階で連絡する」
なぜ。
今日何度目かになる疑問が、私の思考に鎖を巻きつける。
「じゃー、なぜに今、バイトの話題出したー?」
もっともな話である。
彼女は、これまでただの一度も勤務先の不満をこぼさなかったではないか。
「……すまない。勝手な思い込みだ。
勤務後に直帰せず、誰かに会って酒を飲むということは辛いことでもあったのか、と」
大学との両立を考えると些か疑問が残るが、相手が納得しているならいいではないか。
そう、これからも思っていれば良かったのに。なぜ。
「なる、心配かけちゃったっぽいねぇ。
それには及ばないよ。めっちゃってほどでもないけど、人間関係はいいから」
深入りはせず、これまで通り彼女が定期的に構ってくれる現状に甘えていればいい。
それで十分ではないか。
だが。
「それが……理由なのか」
「ん? なにが」
この時は、踏み込むことを止めなかった。
縛める鎖が軋みを上げて、再度己が内に問う。
なぜ。これまでの生温い関係性にヒビを私は入れようとしたのか。
「今のバイト先を続けている理由。遠いし、きついし、よく頑張っているなと思う。そのモチベーションはどこから来るのか、気になっただけだ」
「あー」
しつこく問う私を窘めることなく、彼女は合点がいったように手を叩いた。
「『なんで家や大学の周りじゃなくてこっちで探したの?』で、ビンゴ?」
頷く。
「うんうん。そっかー。そこ来ちゃったかー」
「……?」
なぜ、答えを出し渋る?
彼女はバツが悪そうに苦笑いを浮かべている。少し探りが過ぎたのか。
「き、強要はしない。ただの興味本位だ、言いづらいのであれば」
「いーのいーの。機会が今やってきたってことだから。お酒さまさま。昨日までの弱いあたしにさよなら」
さっきからどうしたと言うのだろう。彼女は明らかに動揺している。
平静を装っているものの、声は軽い調子が外れて上ずっていて。
そこまで、重要な前振りで告げるべき理由なのか?
「いい。一度しか言わないよ」
そして彼女は、まっすぐ私を見据えながら唇を開いた。
「あんたに、会いたいから」
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