第21話 ただ十六年、手を。

「…………人のかたちをした、ヴァルハライド」

 半ば苦い思いと共に繰り返す。

「そうです。彼は神のヴァルハライドです。最も持ち主は既に堕ち、あの子自身も神から分離した存在ですが」

「…………十文字老。ひとつ、よろしいですか?」

「はい、なんですかな」

 人のかたちをしたヴァルハライド。彼は人ではない。おおよその話は理解した。だけど。

「…………何故、そのお話を、私に?」

 十文字老は笑みを浮かべたままだ。


「私達はあの子がなにもできないのを知っていました」

 ヴァルハライドということはできることはひとつだ。応用するには使用者が必要。だがその使用者はどういうわけか彼を手離した。

 けれども久は嗣音に真実を教えなかった。

「愛、です。そんな一言で片付く感情ですよ。分かりますか? 私はあの子に当たり前の暮らしを、たったそれだけの物を与えたかったのです。没落した十文字家に残されたあげられるものなんてそれくらいしかないのですから」

 彼はそう言った。長い沈黙だった。

 嗣音は我が子のように可愛がった。長い年月をかけて、十六年の歳月が彼を十文字 嗣音にした。


 彼に神だと教えるのは簡単だった。だがそうすれば彼は本当に人間からあぶれてしまう。誰が手を離しても構わない。久だけは、自分だけは、神から捨てられた神の子の手を握り続けなければならない。


 組織とは、種族とは、家族とはそういうものだ。

 お前は違うというのは簡単だ。追い出すのも排他するのも簡単だ。手を離してしまえば良い。相手にすがる気持ちがあったとしても、半ば落ちかけてるのなら重力にならって奈落に消えていくだろう。


 だけどもし、なんの繋がりもない相手を仲間に、友に、種に、家族に迎え入れようとするのならば、決して手を離すべきではない。


 必死に掴み、相手が握り返してこなかったとしても、ただ根気強く手を握り続けるしかないのだ。久はそうだと信じて、そうしてきた。

 彼があぶれないように。どこかにいかないように。その手を離して、迷子にならないように。


「……胡蝶さん。今、この土地で異界を発生させているのは間違いなくあの子です。それに関する調査書類を立葵様から預かってきました」

 叩き付けられたファイル、その背表紙に綴られている『極秘』の二文字はあの祖父らしくない、躊躇いと戸惑いに満ち溢れていた。

「笑われましたよ。こうするのはまるで、刑に課されると分かっていながら自ら絞首台へ赴く囚人のようだと」

「……十文字老」

「ですが私はこうしなければなりません。十文字家の悲願を授かったあの日、あの子の祖父になると決めたあの日から、私の決意は少したりとも鈍ってはいないのです」

 一度祖父でいると決めたならば、最後までそうあるべきだ。十文字家の当主として彼を切り捨てるのではなく、十文字家を切り捨てて彼は現れた。


 重く苦しい覚悟を前に一度、息を吸う。

「……ファイル、確かに受けとりました」

「ありがたき幸せ。最後に〈久遠の金剛〉による幻想、その裾に触れることを平にお許しください」

 彼は臣下のようにそう言った。当然だ。

 長らく忘れてはいたが、自分の本分は結局獄幻家に属する者。その役目は罪人の断罪。バランサーとしての役目。境界線の守護者。


「……いえ、おとがめなしです」

「なにを」

「だめです、だめ。貴方から魔法を取り上げるのは簡単ですが、そんなことをするわけにはいきません。貴方が十文字嗣音の祖父としてここに馳せ参じたのならば、私はその行いを咎めることはできませんから」

 確かに異界の原因は十文字家だ。

 本来であればアゲハとしても処分を行うし、そうなる前に胡蝶相手に獄幻家が処分を頼むのも当然と言えば当然だ。先に獄幻家のメッセンジャーにより殺害されれば匣は身内で処分したとして責任追及を免れる。


 だが彼は今、十文字 嗣音の祖父としてこの場にいるのだ。

「……貴方を処分すれば、嗣音は必ず哀しみます」

「…………胡蝶様」

「それに貴方にはまだくそジジイの相手をしてもらわなきゃ。あんなバケモノを野に放つなんてそれこそ十文字家の正気を疑うよ」

 胡蝶の祖父は本当に食えないのだ。

 今でこそ大人しく〈時空回廊〉と呼ばれる結界の中に引きこもっていてくれているが、それとて気紛れ。その気になればあの複雑で繊細な芸術品けっかいを破けるのが獄幻 立葵だ。


「あのバケモノと対等に渡り合えるのは貴方くらいです。ですから貴方は待っていればいい」

 覚悟は決まった。決意も大丈夫。

 獄幻 胡蝶はいつだって、常に戦う覚悟ができてる。

「無事に嗣音が帰ってくるのをね」

「……本当に……ありがとうございます」

「泣くのはまだ早いですよ、十文字老」

「いや。非常に残念だが」


 二人の会話が何者かにより遮られる。虚空に浮かんだのは空間の切れ目、だった。闇を煮詰めたようなそれは平面的で、妙な違和感を抱かせる。


「その時間はない。お前達ニンゲンは全く以て、どうしてこうも非効率的なやり方しかできないんだ」


 虚空の中から、一人の男が現れる。

 艶やかな深緑の髪が靡くとまるで深緑の艶やかな蛇の鱗を思わせる。呆れたような瞳は血を思わせるほどに赤く瑞々しい。きなりの質素なマントを纏った、ギリシャ彫刻のような端正で美しい――女とも男とも得体のしれない、ヒトガタの存在が、そこに降り立った。

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