第17話 そうしてパンドラの箱は開かれた
考えたくもない。そんな、あまりにも苦しくて辛い。
胡蝶は達観した表情で、無限に等しい絶望を飲み干したのだ。その彼女になにかを望む? まさか。あり得ない。
知ってなおそれをするのは暴力に等しい。
カラン、と。
ふと、音がした。乾いた軽やかな音に嗣音は顔を上げる。
「…………え?」
床板の上にひとつの鉱石が落ちていた。ブレスレットの金属に嵌められていたはずのそれは、持ち主の手元を離れて尚、澄んだ空のような薄水色の光を瞬かせている。
「ま、まっ、て……なに、これ、なんでこれが僕の手元に」
混乱しながら、嗣音は手を伸ばす。
それは――マリア・レオニアンのヴァルハライドのコアだった。
現場から持ち去られたはずの、彼女を殺したであろう誰かが持ち去ったはずの、それ。
魂を複写し鉱石へと姿を変えたそれは、ありとあらゆる記憶を正しい形で記憶する特別なもの。
魂は時間の経過の影響を受けない。精神は腐り、肉体は壊死するが、魂は傷付き痛んだとしても破損することはない。ありとあらゆる時間の影響の外にあるもの。
事件の日を、ただただ正しく記憶し続けている、それ。
「どう、して」
願いを諦めた胡蝶ですらヴァルハライドのコア自体は壊れていないのだ。肉体が壊死した後だというのにそれは憎らしいほどに澄んで煌めいていた。
「どう、して、どうして、どうし……て……?」
馬鹿の一つ覚えのようにその言葉を繰り返す。伸ばした手がマリアの遺物に触れるよりも前に、嗣音の身体がバランスを崩した。
「……?」
支えていたはずの手の感覚が消え失せた。代わりに床に水が散乱する。静かに嗣音のヴァルハライドのコアが内側からひびいった。
「…………あ、ぅ、なに、これ、一体なんで、どうして」
身体が熱い。魔力が体内で奔流しているのを感じる。嗣音の魂に、ヒビが入っていく。耐えかねたように。耐えられなかったとでも言いたげに。
肉体が暴走した魔力によって水に変換されていく。身体が溶け落ちていく。『いやだ』も、『怖い』も、水のなかでもがいて叫んでいるみたいに外に声は響かなくて。
「どうして、なんで!! 僕は、僕はただ、ただ……君に、笑っていてほしかっただけなのに」
黒い液体がポタポタと嗣音の額にこぼれ落ちる。それは机の上においてある彼のヴァルハライドのコアからこぼれ落ちていた。
痛い。痛くて苦しい。泣かないで。
マリア。
マリア。
金髪はいつも朝焼けのなかに溶けそうなほど美しくて、どんな悩みごとも笑わないで聞いてくれて、辛くて苦しいことは君が笑い飛ばす。
青い瞳はまさに午前の空。君みたいな瞳は他にない。
君が笑うから僕は生きていることができる。
君が泣くなら、僕はこの世界を許さない。
彼女は、いつも泣いていた。
苦しくて辛くて、そしてそれを呑み込むように、同じくらい泣いていた。他人の感情を押し付けられて、彼女は苦しんでいた。
「……平気だよ、しーくん。私はね、それでもこれが私の役目で良かったって思ってるの。だってそうでしょ? こんな私だから、泣いてるしーくんのこと、全部見つけられるんだもの」
彼女の頬を伝う涙の全てを拭ってあげたかった。彼女を泣かせる全てを、彼女がしてくれたように笑い飛ばせば良かった。どうしようもないと。彼女を傷付けるなんて、センスがないと。
彼女の代わりに全てを背負いたかった。重荷が増えるだけでも良い。それでも君をまだ思えるのなら。
「しーくん、ありがとう」
今際に呟く、掠れた彼女の声。
「愛してくれて、ありがとう。なにもあげられなくてごめんなさい。それでも、それでも愛してるよ」
マリア。
お願いだ、マリア。
……なんて。
黒いバラの花びらを前に、嗣音は自嘲した。実に純粋な答え。憶測はない。妄想はない。ただ眠り続ける彼女の横顔に、嗣音は嗤った。
真実は重みを持つ。
彼女の言葉は相変わらず、どこまでも正しかった。もっとも、それを理解するにはあまりに遅すぎたが。
「……ああ、マリア。ようやく分かったよ」
消え入りそうな声で愛しい彼女に語りかける。月明かりに照らされた棚の上に、彼女はいつもの表情で座っていた。全部幻だ。嘘だ。虚構で虚像だ。
だけど目を背けてなかったことにしてきた真実を告解するのに、こんなに都合のいいものが他にあるだろうか。
「君を……君を、殺したのは」
悲しんでほしくなかった。それは本当だ。
笑っていてほしかった。それも本当だ。
病める時も健やかなる時も、必ず傍にいると誓おう。
例え死が二人を別つとも、その後さえも。
「……君を殺したのは、僕だったんだ」
独白にはなにも応えない。月明かりだけが、懺悔の余韻に耳を澄ましていた。
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