第15話 おやつ

 桂子けいこが夕飯を作ろうと思って冷蔵庫を開けると、大きなホールのパイが入っていた。驚いた。桂子が用意したものではない。誰かが買ってきたのだろうか。


 取り出してしげしげと眺める。


 見覚えのない皿の上に載っている。パイの網目も不揃いだ。誰か他人が自宅で焼いて自分の家の皿に載せたまま持ってきたように見える。貰い物の可能性が高い。


 いったい誰が誰から受け取ったのだろう。夫の広樹ひろきだろうか、娘の向日葵だろうか。妻馬鹿の親馬鹿かもしれないが、あの二人は能天気でひとに愛されるタイプだから他人さまからよく食べ物を恵んでもらっている。――と思ったが、今朝の段階ではこれはなかった。広樹は朝から伊豆の旅館への営業へ出向き、向日葵は市からの請負でやっている移住支援の広告会社に勤めていて、この時間ではまだ帰ってこれない。この間家に出入りできたのは自宅から徒歩五分の茶屋の店番をしている姑の花代はなよと娘婿の椿だけだ。


 つっかけのまま店のほうに行く。店先で花代と椿が小型犬を連れた年配の男性と談笑している。桂子が三人に歩み寄ると、男性がにっこり微笑んで桂子に挨拶をしてくれた。犬が嬉しそうに尻尾を振る。


「冷蔵庫におっきなパイが入ってたけど、誰か何か知ってる?」


 問いかけると、椿が手を上げて「僕が貰いました」と答えた。


「誰に?」

「田中雅子さんという方です。お義母さんのお友達やて言わはりました」


 確かに知り合いだ。フィットネスクラブでよく一緒になる女性である。年は桂子より一回り上だが、陽気でおしゃべりが好きな人で、桂子は何度か彼女とランチに行ったことがあった。


「えっ、雅子さんが来たの? 今日も?」

「はい」


 椿がにこにこしている。表面的にはおっとりした子である。


「今月二回目じゃない? 先週一回来てお茶買っていってくれたって聞いてるけど」

「そうです。先週の水曜日やったかな、青森の親戚にお茶を送るんやて言うてはって、僕が対応したんです。それで、その親戚から来たリンゴが余ってるからたくさんパイ焼いてるって。池谷さんちでも食べて、て言うてくれはったんでいただきました」

「あらららら、悪いわね、うちで買い物してくれた上にアップルパイも貰っちゃうなんて。今度会ったらお礼言わなきゃ」

「明後日くらいにお皿取りに来るて言うてはりましたよ。その時には洗ってお返ししますて言うときました」

「そう」


 そんなやり取りをしつつ、桂子はちょっと感動した。世間知らずで見た目によらず気難しいこの子が姑の友人とまともな会話をして百点満点の行動を取ったのか。嬉しい。冷静に考えたら彼も二十三歳でしかもちゃんとした家でちゃんとしたしつけを受けているのだから当然だ。しかし桂子は普段五歳児を引き取った気分で接している――さすがに失礼なので言えない。


「でも明日カーブスで一緒になると思うからその時に渡しちゃう。わざわざうちまで来るの大変でしょ」

「荷物にならへんかったらええのやけど」

「向こうも車だから大した荷物じゃないでしょ」




 予定どおり翌日のフィットネスクラブで噂の雅子に会えたので、皿の入った紙袋を手に声をかけたら、彼女は「ええ」とおもしろくなさそうな顔をした。


「取りに行くって言ったのに、どうしてわざわざ持ってきちゃったの?」


 ちょっとむっとしながら答える。


「わざわざうちに来るのも大変じゃない? いただきものしてご足労かけるのはどうかと思ったんだけど……今日会えるのわかってたし」

「持って帰ってくれないかな、明日お店に行くから」

「どうして?」


 雅子がほうと溜息をつき、自分の頬に手を当てた。


「椿くんに会うための口実に決まってるじゃないの……!」


 桂子は絶句した。


「お皿受け取りながら私の手料理の感想を聞こうと思ってたわ」


 周りにわらわらとフィットネス仲間が集まってくる。


「なになに? ひまちゃんのお婿さんの話?」

「わあ聞きたい、私も交ぜてよ」

「会ったの? どうだった? いいこだった?」


 雅子が夢見心地の顔で言う。


「本当に美しい子。顔も可愛いけど顔だけじゃないのよ、振る舞いが優雅で上品なの、存在が風流なのよ」

「へえ! 確か京都の子なんだっけ?」

「ちゃんとレディとして扱われたのなんて何十年ぶりかしら。二十歳くらい若返ったし、なんなら五十年ぶりに恋しちゃったかも」

「恋!? あんた旦那まだ生きてるでしょ!」


 桂子は心の中で、あちゃあ、と呟いた。刺激のない田舎の主婦はこれだからいけない。


 池谷一家は全員顔が広く、沼津じゅうに友人がいる。そしてそういった人々が途切れることなく店を訪ねてくる。それを椿が片っ端から魅了していくところを想像する。ありえない話ではない。家の中では五歳児でも、幽玄の古都で育った御曹司の彼は良くも悪くも沼津では異質だ。


「椿ってば、なんてことを……」


 魔性の美青年、というフレーズが頭に浮かんだ。


「あの子が丁寧なの上っ面だけだから……ああ見えてかなりひねくれたこと言ったりしたりする子だから……」


 雅子はすっかり恋は盲目の様子だ。


「ちょっとぐらい素直じゃないところがあるほうが可愛げがある」

「待て待て待て」

「そんな彼を受け入れてあげられる私」

「うちの娘婿だって言ってるでしょ」


 仲間たちがきゃあきゃあと色めき立つ。いくつになっても乙女心は乙女心だ。


「ひまちゃんって今いくつだっけ」

「二十四」

「四十個下か……私不利かな? 年上の魅力ってことでだめかな、熟女熟女」

「ちょっと熟しすぎよぉ」

「あははははは」

「ていうかそもそもひまちゃんがいいこなんだよ、元気でたくましい子だし、あんたじゃ相手になんねえだよ」


 女性陣がひとしきり笑った。桂子は笑えなかった。

 笑い終わったあと、ある友人がこんなことを言い出した。


「えーっでも雅子さんが惚れた男というの私も見てみたい! 私も香爽園さん行こうかな、いつも店頭にいんの?」


 なぜか桂子でも雅子でもない女性が答えた。


「いるいる、特に午前中の十時から十一時くらいが狙い目よ」

「なんでそんなことをあんたが知って……!?」

「私も見に行っちゃった。和服を着た顔の可愛い男の子だと聞いて、どうしても見たくて。手ぶらで行くのも何かなーと思って田子たごの月のもなか持ってさ、何気なくを装って」

「何してんの!?」


 みんなが「私も行きたい!」「私も私も」と騒ぎだす。桂子は「あーっもう!」と叫んだ。


「だめ、だめだめ! すごい繊細な子なんだから! 知らないおばちゃんに囲まれてびびっちゃったら可哀想でしょ!」

「さては桂子ちゃん独り占めしようって魂胆だな?」

「娘婿だって何回言ったらわかるの!」


 そう答えつつも桂子はちょっと反省した。確かに自分も椿をアクセサリーにして買い物に行くこともあるかもしれない。自分はこんな可愛い子と暮らしているのだアピールだ。もうやめよう、もうあの子ひとりをおつかいに行かせよう、という気持ち半分、見ていないとその辺で誘拐されたらどうしよう、という気持ち半分。店なら花代がいるので安心だ、たぶん。


「とにかくだめだからね。どうしても見たいならひまと決闘なり何なりして!」

「ちぇー」




 帰宅したら店先ににこにこした椿が出てきたので、桂子は彼の両肩をつかんで揺すった。


「おっ、お義母さん?」

「あんたひとから食べ物貰ったら絶対私に報告しなさいよ。まんじゅう一個でもアイス一個でもだめ。いい? ちゃんと全部私に報告するんだからね」

「は……はい……? え、何かあったんですか? 僕また何かやらかしたんやろか……」

「も、もおーっ!」




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