生後の話
夏も近いとはいえ、ボロ布のような薄着では日も沈みかけた夕暮れ時は肌寒い。
しかし寒さだけではない理由で、身体を縮こませる男と少女がいた。
「お腹、空いたね……」
少女が呟いた。男の答えはない。
「誰か、いるよ?」
少女の再度の呟きに、男は視線を向ける。
場所は男と少女、そしてその家族が暮らす家。その門の前だ。
その誰かは二人いた。小さなバスケットに身を寄せ合って収まっていた。
この寒空の中、毛布とも呼べない薄手の布に包まれて、二人の赤ん坊が、門の前に捨てられていた。
「どう、するの……?」
少女が上目遣いに男を見上げ、呟いた。
男は悩んだ。この赤ん坊を引き取るだけの余裕は、家には無い。
男の年齢は三十四、働き盛りの年齢ではあるが、今は職とよべる程の仕事にはついていない。
元は生粋の戦士だった。高い戦技と魔法技術を持ち、多くの経験と実績を積んでいた。
名高い皇剣たちには名声の面でこそ幾らか劣るものの、数多の高名な戦士が集うこの守護都市においても最上位に位置する戦士だった。
二年前、竜を相手取った大きな戦いのおりに足を負傷し、引退した。
その傷は深く呪いもかかっていた。今は歩くことこそ出来るものの、本気で戦闘を行う事は無理だ。
男にとってそれまで戦うことが自らの全てであり、それ以外はただ一時の快楽にすぎなかった。
戦いというその全てを失った時、酒も女も男には何の慰めにもならなかった。
そうして荒んだ男が出会ったのが、少女だった。
身寄りのない子供はこの守護都市では珍しく無い。
戦うことを生業として稼ぐこの都市は、多くの戦士の憧れの地でもある。
そうして集い、命を散らしていく若い戦士は数しれない。
少女の父親は、そんなありふれた戦士の一人だった。
物心をつく前に父親とは死に別れたらしい。少女に父親を語って聞かせた母親は娼婦だった。
男が死んで働く術がなかった女は、しかし子供のためにと身体を売って生計を立てていた。
その母親も、少女を残して死んだ。
この守護都市では珍しくもない話だ。
いつもならば哀れな少女だとわずかな金銭を恵んで別れ、次の日には忘れているだろう。
だがその日の男は深く傷ついていて、少女もまた最愛の母と妹を亡くし、傷ついていた。
男は気まぐれに少女を拾い、そして紆余曲折を経て育てることになった。
そうして二年が立ち、その間に二人の子供を拾い、現実的な問題に直面した。
お金である。
最後の戦いの功績や大怪我への補償で、まとまったお金を手にはしていたが、それまで男は一線を引くのは死ぬ時だと貯金などは一切せずに遊び歩いていた。
蓄えはまだある。
男が購入していた家は大きく、広い庭と道場もある。
その道場で剣技や白兵戦における魔法等を教え、また並行して日中に子供を預かり、細々と収入としている。
だが明らかに出て行くお金の方が多く、蓄えはどんどん削れている。今この赤子を拾ってもとても面倒を見ることはできそうになかった。
この守護都市に孤児院は無い。時折、金持ちや権力者が気まぐれで孤児を拾って養うことがあるくらいだ。
それすらも純粋な善意ではなく、使いつぶせる奴隷まがいの手勢として育てるためだ。
男の家の門に赤子が捨てられているのも、そういった背景があった。
ここで男が赤子たちを拾わなければ、間違いなく見殺しになるだろう。
だが拾ったところで、まともに育てられないのなら同じことだ。
結局は飢えて死ぬ。
生きながらえた時間の分だけ、今いる三人の子達の食事が減る。それだけのことだ。
少女が上目遣いに男を見上げていた。
悲しそうに、瞳がうるんでいた。
少女は六歳になる。そろそろ分別を覚え初めてきた年頃だ。だが生き死にを割り切って考えられるような年ではなかった。
そんな少女の目に、男は弱いのだ。
「ご飯が、少なくなるぞ」
男が声に出して少女に問いかけた。少女はこくりと小さく頷いた。
二人がバスケットに近づくと、そのことに気がついたのか、赤子の片割れが大声で泣きはじめた。少女は慣れた手つきで赤子を抱き上げあやしはじめた。
男は残った赤子をバスケットごと持ち上げた。
眠っているのだろうと思っていたもう一人の赤子は、うっすらと目を開け、『めんう〜、う〜に』と、唸り声を上げた。
生後一ヶ月くらいだろうか、大人しそうな子だと、男は思った。
バスケットの中には赤子たちの他に丁寧に包まれた手紙、子供の小遣いぐらいのお金と、何故か造りの美しいナイフが入っていた。
夕暮れから陽が落ちきるのは早く、もうすっかり辺りは暗く、そして肌寒くなっていた。それはこれから訪れる日々の厳しさを予感させた。
◆◆◆◆◆◆
時間はいくらか遡る。
女が通りを歩いていた。
見るからにやつれている女だった。
頬はこけて目はうつろ、青白い肌に生気はなく、足どりもおぼつかない有様だった。
女の手には赤子が抱えられている。産まれてようやく一ヶ月が経とうとしていた。
女にはその子が何よりも大事で、それこそ己の命よりも大切だと、そう思っていた。
女はこの都市にありふれた女だった。
生まれ育った都市で恋仲となった男は将来有望な戦士で、同年代の中では十指に入るほどだった。そうしておだてられた男は己の力と才能を過信して、ろくに経験も積まずにこの守護都市に女と共にやって来た。
初めの内は慎重に立ち回り、上手くやっていた。
それこそこの守護都市においても、期待のルーキーと呼ばれるぐらいには。
だが上手くいったことで増長し、仲間との間に諍いを生んでしまい、距離をとってしまった。
ギルドに仲裁を頼むか新しい仲間を募るのが普通だが、男はしかし生まれてきた子供のためにと、単身で戦場に出るようになった。
分け前を気にしない分、多くの収入が手に入ると思ったからだ。だが実際にはそう上手くはいかなかった。
男が単独で狩れる魔物は下級上位までで、効率の悪い戦いは武具の消耗を早め、また傷の治療にも多くのお金をつぎ込む羽目になった。
男は知らなかったが、男の仲間たちはギルドの依頼を受けて、初心者を鍛える役目を請け負った者たちだった。
守護都市での戦闘の厳しさは他の都市の比ではない。前途ある若者が簡単に死んでしまわないよう、他の都市からやって来た新人には余程の実力があると見込まれない限り、こうしてベテランのフォローが入る。
ベテランからすれば最初に恩を売っておけば、後々大きく返ってくることもある先行投資のようなものだ。
もちろんギルドからの新人教育料や、足手まといがいるがゆえの比較的安全な狩場の優先権も、魅力のあるものだった。
だがそう言った事情に関心を払えなかった男は下級の魔物とばかり戦おうとする仲間たちに苛立ちを募らせ、喧嘩別れすることとなった。
仲間だったベテランも、自分の実力をわきまえずに中級以上の魔物と戦いを望み、たいした貢献もないのに自分は危険な前衛だからと、多くの分け前を要求する男に愛想が尽きていた。
男のようにより強い相手と戦いたいという熱も、ベテランたちからはとうの昔に失われていた。
そんな戦闘狂のまま生き延びられるのは、皇剣のような一握りの天才か、あるいは竜と戦えるような怪物だけだ。
そうでないベテランたちは、いかに少ないリスクで一日の狩を終えられるかに力を尽くしていた。彼らが力を鍛えるのも、仲間との連携を深めるのも、ひとえに安全のためだった。
ギルドとしても若者の死は避けたいが、恩を恩として感じられず、向こう見ずで身勝手な男が痛い目に遭うのは当然だと思っていた。
それで死んだとしても、それは男の自己責任だと、義務以上の助言はしなかった。
男は単独での戦いを繰り返すうちに、自分がどれだけその仲間たちに支えられていたか、自分がどれだけ役立たずだったかを自覚し始めていた。
しかしそれを素直に認めて頭を下げるには年若く、プライドが邪魔をしていた。
そしてまだやれると挑んだ戦いで、呆気なく死んだ。
ボロボロの装備で満足な治療も休息もとらず、今日の稼ぎのためにと、無理をしてのぞんだ戦場でのことだった。
男を殺した魔物は、いつか仲間たちに眠っても狩れると、自慢していた下級下位の魔物だった。
男はありふれた男で、それを知っている他の戦士たちはとっくに見限り、助けの手はなかった。
後日、男の死を知ったかつての仲間たちの感想は、ギルドの依頼が失敗になってしまったなという事ぐらいだった。
ありふれた男は死んで、そしてありふれた女と赤子が残された。
男と女は恋仲だったが、籍は入れていなかった。
二人は駆け落ち同然にこの都市にやって来て、不法に忍び込んでいた。
男はギルドにこそ登録してあるが、女には事情があったから正直に役所に届け出をする事は出来ず、そのため二人には戸籍の登録が無い。赤子もまたそのせいで出生の届け出がされていない。
二人はこの都市にはいないはずの人間だった。
男が死んで、本来ならば女と赤子には遺族補償としてまとまったお金が渡されるはずだった。
男の都市への貢献は低かったが、働く術を持たない女と産まれたばかりの赤子がいれば、多少の色がついた。
だが前述の通り女と赤子には戸籍が無く、結婚も事実婚でしかなかった。
詳しい調査があればあるいは申請通りに補償が下りたかもしれないが、担当した役人は女をそこらの赤子を拾ってきた詐欺師と判断し追い返した。
これもまた珍しい話ではない。
命の価値が軽い守護都市では社会保障の制度は厳しく、生活保護という制度もない。
落ちぶれていた男には蓄えなどなく、遺品として受け取った武具も痛みが酷すぎて、お金に変えるだけの価値はなかった。
男が死んで数日後、女の元に柄の悪い男性たちが訪れた。女に身体を売らないかと、持ちかけてきたのだ。
女はその場で男性の頬を叩き、追い返した。今ではそのことを悔やんですらいる。
お金が無いのだ。家財を売って得たお金は、この一ヶ月の泥をすするような生活で消えていった。世慣れしていない女は、足元を見られ買い叩かれたことにも気付かなかった。
そして今朝方には、住んでいたアパートも追い出された。女と赤子が餓死をするのは時間の問題で、大家としても部屋から死人が出るのは避けたかったのだ。
これも、珍しい話では無かった。
今、女は赤子を抱いて歩いている。
わずかな当ては、売春を持ちかけた男性たちだった。
連絡先のメモは渡されたが、その場で破り捨てたし、内容は記憶の片隅にも残っていない。
当てなど、あってないようなものだった。
女の頬から涙がこぼれ、赤子に落ちた。赤子はわずかにむずがって、まだ開ききらない目で女を見上げ、『す〜、な〜』と、まるで女を労わるように声をあげて、手を伸ばした。
本当は、女には一つだけ手がある。
女の生家は商業都市にあり、その中でも指折りの豪商で、都市政府にも強い発言力を持つ名家だった。
その商業都市に、数日後、この守護都市は訪れる。一週間から十日程は繋がるはずだ。
商業都市に繋がる年に一度か二度の機会がこのようなタイミングである事に、女は神の温情か悪魔の企みのようなものさえ感じていた。
恋人の男は庶民で、才能と努力でその力を認められてきたため、言動が粗野で自信に満ち溢れていた。
女にとっては何よりの魅力に映ったそれは、女の父には到底許せないものだったらしい。
男と女の仲が深まるにつれて、父だけでなく他の家族全員が男を嫌い、縁を切るように言っていた。
男は何度となく嫌がらせを受け、ついには暗殺まがいの襲撃を受けた。そして同じ時に、女には会った事もない良家の子息との結婚が決められていた。
駆け落ちしたのは、命からがら逃げ延びた男に手を取られたその日のうちに、馬車に乗ってのことだ。
それだけは、女は後悔していなかった。
女が生家に頼れば、きっと手を差し伸べてくれるだろう。
だが女が抱いている、男との子は――。
父は男のことを心の底から嫌っていた。
男との不慣れな生活で、父や家族が褒め称えていた美貌は見る影もなく女から失われている。
そんなことの責任すら、父が赤子にぶつけそうで恐ろしかった。
それでもこの赤子が生きてゆけるのならば、まだいい。だが女の目の届かないところで、父が男にそうしたように、赤子を殺そうとしたら。
そう思うと、生家に頼る決心はつかなかった。
生家に頼り赤子を奪われて殺されるか、いっそこのまま二人で楽になるか。疲れ切った女の頭にはそんな選択肢しか浮かんでいなかった。
歩き疲れた女が倒れそうになった時、目にバスケットが映った
誰とも知らない家の門の前に、バスケットが置いてあった。周囲に人目はなく、女は飢餓感に突き動かされ、バスケットに近寄った。
そして、また涙がこぼれた。涙は赤子に落ちたが、その赤子は自分の赤子ではない。バスケットの中には、自分の赤子と同じくらいの赤子が入っていた。
とある噂が、女の脳裏によぎった。
引退した高名な戦士が、私財でもって身寄りのない子供を引き取って育てていると。
その家の名前はブレイドホーム。剣の帰る家。
門の中の家を覗き込む。家の表札は、ブレイドホーム。窓には小さな子供らしき影が、楽しそうに遊んでいる姿が写っていた。
あり得ない偶然に、女の背に冷や汗が伝った。
「……あぅ」
女は呻いた。
自分の頭に浮かんだ閃きに吐き気を覚えたのだ。
だがそれを止めようとは思わなかった。
女はバスケットの中の赤子を横にずらした。そこになけなしのお金を全て置いた。
それは都市を渡る際に必要となる税金であり、商業都市に着くまでの数日を耐え忍ぶためのお金だった。
女は自分の赤子をその上に置き、赤子が纏うぼろきれに名前を書いた。女が男と考えた名だ。
名を書くペンなど無くて、持っていた護身用のナイフで指先を切り、そこから滴る血で書いた。
ナイフは男が女に与えたもので、手放すことの無かった最後の一つだ。
それもバスケットの中に入れた。赤子たちを傷つけないように、しっかりと鞘にいれて。
「ごめんね……、ごめんね」
女は与えられるだけのものを赤子に残して、涙ながらに別れを告げてその場を去った。
そのままそこにいては、赤子を引き取ってもらえないかもしれないと思ったからだ。
女はふらつく足取りで道を歩く。途中で足を引きずって歩く男とその男によく懐いた少女にすれ違ったが、お互いを気に留めることは無かった。
女は歩き、そして力尽きて倒れた。
女の不規則な呼吸は明日の朝には消えて、昼には役所の人間が回収し、一週間もすれば身元不明の死体として処理されるだろう。
守護都市では珍しくないことだ。
だが、時には珍しいことも起きる。
「こんな所で寝られると困るんだけどねえ、お嬢さん」
四十ぐらいの女性が女に声をかけた。女が倒れた場所はその女性の家の前だった。
女の返事がないのを見て、女性は手に持っていた軽食を与えた。
うつろな瞳に光が戻り、奪うようにその軽食を手にとって無心で食べ始めた女を見て、家の中から水を持ってきて、手渡した。
ふとした気まぐれで、女性は女が落ち着くのを待ってから、話を聞いた。
女はうわ言のように、帰りたいと呟いた。帰りたい、商業都市に、ディーエンセルに帰りたいと。
偶然な事に、女性も商業都市の出身だった。
旦那と共にこの守護都市にやってきて、一応の成功を収め、ちょうど今回の商業都市への接続で故郷に帰ろうかというところだった。
守護都市で十数年経験を積んだ旦那は商業都市では重宝されるし、女性は女性で溜め込んだ財産でこじんまりとした喫茶店でも営もうかと思っていた。
新しい門出の前に女性は良い事がしたくなって、女を家に上げ介抱した。
女性の息子が少々うるさかったが、彼女の食費も都市間通行の税金も女性にとってはたいした額ではないし、息子が毎日のようにせがむ小遣いの方がよほど高額だったのだから。
女性が女を商業都市に連れていくと、女の家の人間がすぐさま迎えにきた。
有無を言わさず女と共に連れていかれた先は、この都市に住むものなら誰もが知っている名家だった。
妙な疑いをかけられることも無く、女性たちは家の主人から娘を救った恩人としてもてなされ、その後の商売や旦那の勤め先の斡旋、果てはバカ息子に教育の支援までしてくれるほどだった。
そして懐かしの我が家に戻った女は、最初のうちこそ塞ぎ込んでいたものの、長い時間をかけてようやく昔の明るさを取り戻しつつあった。
ずっと飢えていた優しさとぬくもりが、死にかけていた女の心を蘇らせた。
赤子を産んだころから続いていた不運の連続が、利息を付けて返ってきたような、女には奇跡のような幸運の連続だった。
だが女は家族に、自分が子を産んだことを、その赤子を残してきたことを、言えなかった。
家族たちは屈託無く笑っていたのだ。
戻ってきて嬉しいと。
そして同じ様に、男が死んで良かったと屈託なく笑ったのだ。
女が家族に捨てた赤子のことを話すのは、十年以上先のことだった。
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