イヤホンと拍動

MukuRo

Earphone and pulsation

 朝霧を突っ切る電車の汽笛。

 ――うるさい。


 甲高い話し声。

 ――騒がしい。公共の場所だってわかってるのかよ。


 人とモノが混ざる廊下の喧騒。

 ――頼むから静かにしてくれ。もううんざりなんだ。


 どいつもこいつも過剰にくっ付き合って。やたら他人と関わり過ぎなんだよ、あれの何が楽しいんだ。それで自分が思ったのと違えば、ああだこうだと騒ぎ立てて自分の考えを押し付ける。


 誰かと関わらなくたっていい。

 自分の世界さえあればそれでいい。

 誰も信じない。誰にも心を貸さない。

 それでもういいだろ。

 間違ってないだろ……なあ。


 俺は今日も耳を塞ぐ。

 イヤホンの奥から響く自分だけの世界に。


 高校二年の冬、氷点下が当たり前の毎日。イヤホンを装着している耳たぶがどうにも冷え込む季節。いつもなら学校の隅で時間を潰すのだが、如何せんこの気温だから仕方なく教室に佇むことにしている。


 音楽は好きだ。

 音に溺れている時間は幸福だ。

 どんなストレスを抱えていたって、音の世界は現実から切り離してくれる。

 どこまでも自由な世界。


 俺は「朝聴く用」のプレイリストを開き、音楽に浸る。聞き慣れたシンセサイザーと人声の鼓動が、安らぎを与えてくれる。

 教室の騒音から解放されていく。


一条いちじょうじゃん、何聞いてるの?」


 聞き慣れない女子の声がした。

 いや、聞き慣れた声だ。授業中以外、教室にはいない俺でも幾度と聞いた声だ。やかましくて、元気に満ちあふれた声。


千日せんにちか。何か用」

「いいや。教室にいるの珍しいなって思って」


 千日、下の名前は愛菜、だった気がする。クラスじゃ一番目立つ存在。いつも誰かと話してる奴。人嫌いで誰とも話さない俺とは大違いな奴。


「で。何聴いてるの」

「音楽だけど」

「それはわかってるって。どんな曲?」

「なんでもいいだろ」

「もしかして、あんまり人に言えないような?」

「そういうのじゃないって。ほら」


 話すのが面倒だ。

 頼む、せめて授業中以外はイヤホンを付けさせてくれ。俺の時間にこれ以上干渉しないでくれ。俺は楽になるべく、アルバムの表紙を見せた。


「『lonley』……ごめん、知らない曲だね」

「まあネットでしか活動してないし、メディアにも出てないから」

「ところで、その歌ってる人ってどんな人?」

「これ」


 いちいち名前を出すのも口を開くのも面倒臭い。なんでこんなに話を続けようとしてくるんだ。俺は音楽を聴いていたいんだ。


「気が向いたら聞いてみようかな」

「ん」

「ごめ、呼ばれたから行くね」

「ん」


 それでいい。俺とは生きてる世界が違う。

 俺とお前じゃ周波数が違いすぎるんだ。

 教室の奥で手招きしている女子、いつもギャーギャー騒いでるような女子。俗に言う陽キャと呼ばれる連中と一緒にいればいい。

 人間関係とか、誰かの心情とか、考えるだけで気が重い。

 一人でいさせてくれ。

 もう誰も信じたくない。

 また俺は、イヤホンで耳を塞ぐ。




 昔から一人でいるのが好きだった。

 それでも少しは笑う方だった。賑やかなクラスも嫌いじゃ無かった。


 誰かの悪口が嫌いだった。

 誰かが傷付いているのが傍から見ていても辛かった。

 いつしか人が嫌いになった。


 社会に存在し続ける以上、何かしらの集団に属するのは避けられない。価値観の相違があるのも当然。

 だが、世間は「みんなちがってみんないい」なんて考えは持たない。

 明るさと社交的を好み、優れたものと認識する。

 暗くて社交性のない人間なんて世間の鼻つまみ者、腐った林檎でしかない。

 仕方なく集団の話を聞いていれば、口から出るのはカビの生えた話題。噂話という体で行われる人格否定と、無自覚な攻撃。そんな暗鬱な空気が漂う空間で、息をしなければならない。

 それが普通というなら、最初からはぐれ者でいい。

 ずっと耳を塞いだままでいさせてくれ。



 翌日、今日も仕方なく教室でイヤホンを付ける。


「おはよ、一条」

「……おう」

「昨日教えてもらった曲聴いてみたよ」


 まじか。完全に流されたかと思った。


「あれいいね。歌声が綺麗でさ」

「わかるのか」


 俺が聞いていたアーティスト「夜の太陽」。

 ダークな歌詞と繊細な歌声が特徴のシンガー。あの人の歌は心の隙間を埋めてくれる。暗く淀んだ気持ち、過去の傷口にも寄り添ってくれる。闇を孕んでいるからこそ、暖かい心になれる。明るい歌ばかり流れる世間だけど、この人の歌で救われる人はもっといるはずだ。もっと流行ってくれ、というのが本音だ。

 まあ、そんなことは口には出さない。


「『lonley』以外に聞いたか」

「あとあれも良かったな。『さよならを』……何だっけ」

「それか。広告で出てるし聞いたことあるかもな」


 なんとなく、心が弾むような感覚に陥る。

 好きな曲の話をするのはこんなにも楽しいなんて知らなかった。俺も人間嫌いになってなかったら、日常的に音楽の話をしているのだろうか。


「ごめん。呼ばれたから行くね」

「ん……!」


 自分でも意外なほど明るい声が出た。趣味の話を誰かにするのはこんなにも楽しいものなのだろうか。

 その楽しさや愉快さは、なるべく理解したくなかった。


 冬の太陽が沈み、夜が一段と早く訪れる日。部屋のベッドの上で一人、インディーズミュージックの世界に落ちる。唯一無二の声、既存に囚われないコードに身を委ねて目を閉じる。時間がゆっくりと流れて、肉体から自分の意思を切り離して、音楽だけに集中する。

 意識が段々と沈んでいく中、突如としてスマホが震える。


 誰だよこんな時に。

 重たい瞼を開くと、一件の通知が画面に映っている。目をこすってロックを解除、LINEを確認する。送り主は千日だった。そもそも何故あいつからLINEが来るのか。

 疑問符が脳をよぎる。


「なんかおすすめの曲教えて!」


 不可解だ。

 おすすめの曲だとか新しい曲に出会いたいなら他の連中に聞けば良いのに。あるいは自分で調べればいいのに。わざわざ俺に問う必要はあるのか。このまま無視してしまおうか。

 けど、俺の指はyoutubeの共有ボタンをタップしていた。


「ちょっと待って」


 ファンの性とでも言うべきか。

 自分の好きなものを広めたい気持ちがふつふつと沸いてくる。やっぱり大好きなあの曲か。いや、一番再生回数の多いこの曲か。そうやって選りすぐる時間がなんだか楽しい。


「これ」


 既読マークはすぐに付けられる。そして曲の時間、4分37秒が過ぎた後。「イイね!」と犬だか豚だか不明な生物が笑顔になっているスタンプが返される。


「またよろしく!」

「ん」


 俺は変わらず淡泊な回答に留めた。いくら大好きなアーティストの話とはいえ、俺と千日は生きてる世界が違う。昨日今日聞き始めたくらいの一般人に価値観を押しつけるのは違う。シンプルな会話画面をぼうっと眺める。


 ちょっと待て。「また」よろしく?


 それから、俺が音楽の世界に入る時間は、ことごとくあいつに邪魔されるようになった。ご丁寧と言うべきか、毎回同じ時間にLINEを飛ばしてくる。送られるメッセージはいつも決まって「何かおすすめある?」だ。

 こうも何度も聞かれると、面倒だという意識も段々と薄れてくる。学校を出るときに歯を磨いたり顔を洗うように、あいつから来るメッセージを返す、それがルーティーンと化しているのだ。

 その反動なのか、学校で話しかけられる回数は少なくなった。たまにグループワークで話を振られる程度で、俺は教室で一人音楽を聴くだけの人間。

 これまでと大差はない。直接話す機会が1度や2度減ったくらいで何も変わりやしない。一方、千日はいつもお喋りをする固定のメンバーとたわむれ、雑談に花を咲かせる。やはり大差の無い毎日が続くだけ。

 そして、夜の八時にLINEが届く。


 俺はいつものようにyoutubeのリンクを張り、送信ボタンを押す。同時に、くだらない疑問符が脳裏に浮かぶ。


「いつもこうやってLINEしてるけどさ」

「リアルじゃ全然話さないよな」


 そんな想いが文字列になり、送信することなく抹消する。

 これじゃまるで面倒臭い奴みたいじゃないか。散々会話をおろそかにしてきた俺が、人間関係を希薄にしてきた俺が、今更何に執着しているんだ。

 だいたいあいつはただのクラスメイトだ。話すときもあれば話さないときもある、それが普通。

 それなのに、あいつの行動にもやもやしている。リアルとSNSの対応の乖離。こんなしょうもないことを考えて、一体何になるんだ。


 俺は天井を眺めて思案する。

 なあ、この感情の正体は何なんだ?


 それから何かが変わったわけではない。

 音楽を聴いて、授業を聞いて、1日のサイクルを滞りなく回す。

 何かアクションを起こしたわけでもない。

 俺みたいな人間が何かしたところで、何も変わるものか。最低限、他人の邪魔はしないようにその空間に佇む。

 かの宮沢賢治の詩のように、褒められもせず苦にもされない存在であるのが理想だ。わざわざ他人に興味を示す必要なんてない。

 それでいいだろ、千日――。


 4時限目は体育の授業で、男女に分かれて陸上競技をさせられる。

 カースト上位の奴らが意味不明な奇声を上げているが、どうでもいい。ああしろと言われたことをただこなしていれば。


 準備運動と称して何周か走らされ、柔軟運動をさせられる。

 寒い。面倒臭い。早く帰りたい。せめてイヤホンを付けさせてくれ。うるさくてしょうがない。

 誰々の足が遅いだの、あの女子がどうだの、耳を塞ぎたい話題ばかりだ。時折、話に千日の名前が挙がる。

 俺があいつを気にしているのは事実。こうして今聞き耳を立てているのだから。

 けれど、外見がああだのこうだの言ったところで何になる。

 目から入る情報だけで何を判断できる。

 あいつの何を知っている。何も知らないくせに。

 まあ、それは俺も同じことであって――。


 たった一瞬、千日を目に捉える。

 あいつは相も変わらず、楽しそうにお喋りをしていて。

 そしてすぐに、視線を自分自身へと向けた。


 授業後半は持久走で、殺風景なグラウンドを何周もさせられると聞き、頭が痛くなる。とはいえ全員で同時に走るわけではなく、三つのグループに分かれ交代で走らされるそう。なんとなく流れに乗り、最初のグループに入ることとなる。

 案の定、長距離への愚痴だの普段通りの下世話に溢れるクラスメイト。

 ここから消えたい衝動を抑えつつスタートラインに立ち、鈍足で走り出す。


「なんか一人だけ遅くね」

「面白っ」


 運動が苦手そうな太った男子に向け、低く心ない言葉が掛けられる。耳を澄ませばギリギリ聞こえるような声。


「なんかあいつ気に入らないんだよね」

「モテたいアピール隠せてないし」


 高い声で突き刺さる陰口。

 いつも一緒に話しているはずの女子に、薄汚い言葉が掛けられる。形のない確かな攻撃。


 そうだよな。

 あいつとのやりとりで忘れていたが、クラスなんてうるさくて面倒な連中ばかりだった。人が人を見下すなんて当たり前。

 しょうもない与太話の中に毒が混じって、何度も何度も肺を往復し、汚れていく。

 ほんと、何を期待しているんだか。


 頭が重い。

 あいつとのやりとりが少し楽しく感じる自分がいて、他人にちょっとだけ期待が持てると思ったのに。

 身体全体が鉛みたいに重い。

 どうしてこんなにも他人が気になるんだ。自分には関係ないことだろう。

 誰かを傷付ける言葉なんていくらでもあっただろう。

 何を求めてる。何も求めちゃいない。

 そうだった。集団が嫌いだったのは、誰かが傷つくのを見るのが何よりも――


 息が、呼吸の一つ一つが、重い。苦しい。

 拍動が脳全体に響き渡る。

 耳が、この心臓が、今にも張り裂けてしまいそうだ。


 疲労で鈍っていた足がさらにスピードを下げていく。

 走れない、立つことすらできない。

 散々塞ぎたがっていたこの耳が、砂の上に肉体ごと落下した。


「ごめん」

「ああ大丈夫大丈夫。気にすんなって」


 あれからの出来事はよく覚えていない。

 とりあえず、クラスの保健委員に運ばれて保健室まで来たのはわかる。ベッドに横たわり、いくらか倦怠感が和らいでいく気がする。周囲を確かめたくて頭を動かすが、痛みに屈して枕に伏せる。

 授業中に倒れるなんて。運んでもらった人には後でお礼を言いに行かないと。まさか他人の悪口が気になって、ナーバスになって体調不良になって倒れましたなんて口が裂けても言えない。

 とにかく頭が痛い。ヒーリング音楽でも聞いていたい。教室にスマホを取りに行きたい。


 やっぱりそうだ。

 俺の人嫌いが治ることはないんだろう。そのくせやたら声に敏感になって、さらに耳を塞ごうとするなんて。ダサすぎて合わせる顔がない。

 結局、身体の怠さが取れずその日は早退した。


 いち早く家路につき、落ち着いた音楽でベッドに沈む。

 時計の針はまだ授業中で、もうすぐ6時限目の後半へと差し掛かろうとする時間。別に俺がいなくとも授業は進むし、居る意味なんてない。


 聞き慣れたスマホのバイブレーション。

 送り主は千日だ。今は授業中のはずじゃ。


「だいじょぶ?」

「大丈夫」


 わざわざこの時間に送らなくてもいいのに、バレたら後が面倒だろ。


「ならよかった」

「わざわざありがとな」


 心配されている以上、無下にするわけにもいかず感謝のメッセージを送る。

 それ以降の返信は無かった。即座に付いた既読マーク、途切れた返信、今まで気にもしていなかったこと。こんなにも寂しいなんて知らなかった。


 空が藍色に変わる。好きな夜の色。閉じられたカーテンから光が差さない幸福。いつもの夜八時。やはりその日も通知が届く。


「おすすめ教えて」

「ちょっといいか」


 反射的にそう返していた。いつも通り好きな歌を共有するだけ、そのつもりだったのに。


「何?」


 今からでも訂正すればいい。ただの気の迷いだと弁明すれば良い。そんな判断すら出来ない程、センチメンタルになっていたのかもしれない。


「お前って周りの声が気になったりする?」

「どったの急に笑」

「どうよ」


 返信が来るまで僅かな空白があった。


「ならないわけじゃないかな」

「やっぱそうか」

「てかほんとにどったの?なんか変じゃない?」


 それもそうか。いつも一問一答の会話しかしていないのに、いきなりシリアスな話題を振られたら不審に思うだろう。せめてワンクッション置いてから話題に移る。


「変なこといっていいか」

「いいよ」

「今日俺倒れたじゃん」

「うん」

「それの理由なんだけど」


 俺はその日の経緯を話した。まるで穴の開いたバケツのように、本心がボロボロと溢れ出ていった。周囲の陰口に耐えられなくなったこと、それが理由で他者との交流を避けていたこと、騒がしいのが苦手で耳を塞いでいたこと。

 あらゆる本音がぐちゃぐちゃにこぼれ落ちていく。


「そうだったんだ」


 そのメッセージの途端、千日から通話が掛かってきた。


「やっ」

「おう。なんで通話?」

「こういうのは口で言った方がいいと思うし……んんと、まず何から話そうかな」


 んんん、とうなり声に近しい声を上げ、呼吸を整えてから話し始める。


「まず、君って結構ナイーブなんだね」

「最初に言うことがそれかよ。否定しないけど」

「そうだよ。案外可愛いとこあんだね」

「ほっとけ」


 表立った指摘に耳が痛くなる。仕方ないことではあるが。


「でもさ、そう思うことは全然悪いことじゃないと思うよ。そんだけ優しいってことだし」

「そんなんじゃないって。俺が傷つきたくないだけ」

「そう思うところとか優男だよね」


 世間の認識はそんなものなのだろうか。反論する意欲が無くなる。


「周りのこと気にしちゃうのはまあわかる、かな。それで逃げたくなるのもね。話してて楽しいこともあるけどさ、たまに疲れることもあるし。案外一人の方が楽に感じることもあるよ」

「そうなのか?」

「うん。誰かの悪口とかザラにあるしね。それで言い返したりしたらまた面倒になるじゃん。正直、もう全部嫌になったり」

「そうだったのか」


「いろんな人と話してるとわかるんだよ。考えてることも、許せないことも、皆違う。だから言い争いにもなる」

「そうだよな。波長合わせるの大変だもんな。特に俺みたいな奴は」

「え、私今は普通に話してるよ」

「そうなのか……」

「ま、そういう違いが色々と面倒になったりさ。でも、そのおかげで成長できたし、嬉しいことも沢山あった」


 見ている景色の違いにめまいがしそうだ。それでもあいつの声はどこか暖かくて、優しかった。


「曲聞いてるのも楽しいし、話してるのも楽しい。それが今の私かな……ってなんで私の話してんだろ、恥ずかし!」

「いや、いいよ。いろいろ聞けて楽しかったから」

「ま、最終的にどうするかはわかんないけどね。音楽にどっぷりはまるのもいいし、少しだけイヤホン外してみるのも、悪くないと思う。お前の人生お前のものだろっ!」

「それ、あの曲のフレーズだな?」

「おお、正解!」


 暫しの間、しょうもない笑い声をあげた。こんなに笑うのは久しぶりだった。

 俺の人生は俺が決める。

 結局はそれに行き着くのだろう。他人が人生の道案内をしてくれるわけじゃない。俺自身が決めることだ。


「ふー、久々に本音で話してすっきりした!」

「俺もすうっとした。ありがとな」


 心が軽い。

 誰かに話をすると気が楽になる。そんなことは散々物語にされてきた事象だが、いざ体験するとその重みがわかる。


「で、今思い出した話なんだけど。今度の週末――」




 週の土曜日。午前9時の空気はどこまでも澄んでいて、都会の雑踏なんて気にならないくらい気持ちが吹き抜けている。

 俺と千日は「夜の太陽」のNEWシングルを購入すべく、近場のタワーレコードへと行くべく、駅の案内看板の近くで待ち合わせをする。本来なら一人で行くはずだった日、隣には髪型を変えた千日が立っている。


「髪型変えたんだな」

「学校じゃないしちょっとくらいね。それよりさ、イヤホンは付けないの?」

「一応あるにはあるけどな。今日くらいは付けずにいるよ」

「おお、珍しい!」

「あれから、ちょっと考えたんだ」


 俺の言葉に千日が目を丸くする。


「確かに音楽の世界に浸ってるのは楽でいいけどさ、それだけじゃ何も変わらないって気付いたよ。お前に色々話してから、自分の視界の狭さを知ったよ。傷付きたくなくて、誰かを見ようとも聞こうともしなかった。

 けど、現状維持だけじゃ何も変わらない。狭い世界で文句を言い続けたくない。もっと自分の価値観を広げて、そこから見えるものを見たい。そう思ったんだ」

「おお、なんかかっこいい!」

「それに気付かせてくれたのはお前だったよな。ありがとう」

「え、えへへへ。なんか照れるなあ」


 首を後ろに当てて下手くそに笑う千日。今の俺はうまく笑えているだろうか。


「それを言うなら、私も感謝だよ。こんなに音楽にハマるなんて思ってなかった」

「俺も意外だったな。完全にオタクだ」

「君に言われたくないなあ」


 不機嫌そうな目付きで俺を睨む。表情一つ一つが明瞭で、話してるとなんだか楽しくなる。


「まあ、私も色々苦労があるからさ。そこに癒やしをくれたんだよ。音楽聴いてると、心が楽になってくるんだ。だからさ、ありがとね、一条!」

「感謝なら俺じゃなくてあの人に言えよな。俺は勧めただけだ」

「そういうとこがオタクじゃん!」

「ほら、早くしないと早期特典なくなっちまうぞ」

「あ、ちょっと!」


 わざと千日を置いて一歩先に歩く。あいつに向けて伸ばした手が握られることはない。けれど確かに、指先に視線が集まっていく。

 それから俺たちはタワーレコードに直行して、初回特典付きのNEWシングルを二人で購入した。いつもならすぐに帰るであろう時間。俺たちは店を出てから食べ歩きが始まった。チーズハットグを3本買って、抹茶シェイクを買って、服の荷物持ちをさせられる。

 想像以上に金も時間も使ってしまったが、ここまで充実した休日は初めてだった。誰かと一緒にいる時間が価値のあるものに思える。

 ただの気まぐれか、お前と一緒だからか。その理由を断定するには、まだ俺は知らなさすぎる。

 だからこそ、知りたいとも思う。


「電車空いてる、ラッキー」


 夕暮れが電車の頭上から差し込み、眩しさで思わず腕をかざす。気付けば一日が終わろうとしている。

 ふう、と小さく息を吐き、千日は電車の座席に腰を落とす。その隣に居られる幸福。ずっと続いてほしいな、なんてラブソングみたいなフレーズが頭に浮かぶ。


「今日、ありがとな」

「いえいえ。私も楽しかったし」


「そうだ。今日新曲プレミア公開だったよね」

「もうすぐだな。聴くか?」

「聴きたい……けど今月もう容量が」

「道理で今日スマホ触ってなかったのか」


 つらい、と呟いて項垂れる千日。俺だけが聴くわけにもいかず、徐にワイヤレスイヤホンを取り出してイヤーピースを向けてみる。


「俺のでよければ聴くか?」

「おおおお!」


 顔が一気に晴れる。

 コードが短いからか、千日の身体が一気に近付く。何気ない仕草に思わず鼓動が早くなる。けれど、それはすぐに安心に変わる。

 わからないけれど、なんだか落ち着く。簡単に言語化なんで出来やしないか。


「今日の新曲、なんかいつもと違うよね。『Earphone and pulsation』だって」

「曲名に英語使うのは初めてだな。でも、こういうのもいんじゃないか」

「それもそっか」


 定型的な在り方を変えること。怖くて面倒で、足がすくみそうになる。

 けれど、同時に輝いて見える。

 震える心のどこかが、リズミカルに弾んでいるんだ。


「一条、もう始まるよ!」

「ああ!」


 俺はこの気持ちの正体を知らない。この気持ちにはまだ名前がない。いつか名前が付けられる時が来たら。


「5……4……3……」


 ちゃんとお前に伝えるよ。

 イヤホンから広がる世界を、一緒に楽しんでくれたお前に。

 この暖かい拍動を、外の世界を教えてくれたお前に。


「2……1……0!」


 この高鳴りは、まだ始まったばかりだ。

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イヤホンと拍動 MukuRo @kenzaki_shimon

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