ヴィアレット家メイド シルヴィア=アレンスカヤ
時刻はすでに2時を過ぎていた。
9月の涼しく静かな大きな月の照らす深夜のなか、同僚の庭師によって均整的に整えられた庭から、リーンリーンと鳴く鈴虫の声が軽やかに奏でられている
シルヴィアは=アレンスカヤは、部屋の窓から差し込む9月の丸く美しい青色の月の光を灯りを消した部屋の椅子に腰掛けてじっと眺めていた。
医者の不養生とはよく言ったものだ。
すでに医術の世界に入り、長い年月が経った。それなのにも関わらず、未だに自らの睡眠障害とPTSDにも似たトラウマの克服はできていない。満月の晩には相変わらず悪い夢を見る気がして、些かの眠気を覚えても寝床まで行こうという気にすらなれない。
シルヴィアは部屋の棚に備え付けられたデジタル時計に目をやった。
時刻は2時を5分過ぎた頃だった。
シルヴィア=アレンスカヤの記憶はすでに物心がついた少女の頃から始まった。場所はアメリカ大都会の中心地から外れたビルの隙間。塵芥とゴミの散乱する汚い裏路地に座り込んでいる所からだった。両親はもうすでにどこに行ったかも分からず、自分がどうやってそれなりの年齢まで大きくなったのかは検討もつかない。自分の身に残されたのはロシア系の名前と、蜘蛛の糸のように銀色に輝く髪、樹海に分け入ったような暗く深い青い瞳、そして大人でも舌を巻くような卓越した記憶力だった。同年代の家庭に恵まれた輩が、学校で年相応の勉強にひぃひぃと苦しんでいる頃、正式な学問の手解きを受けたことは無いにも関わらず、すでにシルヴィアは十二にも満たないその身空で高等数学や第二外国語、そして科学への知見を獲得していた。彼女は別段これと言って学問に対する情熱があったわけではなかった。それはやむにやまれぬ事情と自衛の産物で、夜の人気の無い場所で眠る無防備さと子どもの力で大人を出し抜かなくてはならない理由から、月明かりを頼りに本を読んで暇を潰し、食料と寝床を確保しているうちにいつの間にか蓄えられていた財産だった。
「ずっと探してた天才がこんな小さな少女だったとは」
そんな少女の前に一人の若き青年が立った。
若く情熱に燃えていた頃のグスタフ=イリインスキーは、全米の10代から受けられる模試試験の結果表を手に言った。
「目を見張るのは数学、科学、ドイツ語。そのほかの科目別試験は少し弱いけどその歳でこの点数は素晴らしい結果だね」
「でも試験での年齢・性別・国籍全て違う人のモノだ。どうしてか理由を聞いてもいいかな」
詰問するでもない咎めるでもない、何て事ない世間話をするような態度でその青年は問いかけた。
幼い少女は青年の顔をじっと見つめると、顔を伏せた。能力さえあれば、いくらでもお金を稼ぐには困らなかった。アルバイトの一環で、どこぞの名も知らない道楽者の代わりに試験を受けてやったに過ぎない。今時は試験会場にいなくともあれこれと理由を付けてしまえばなんとでもごまかせる。押し黙ったシルヴィアの様子を見てグスタフはすぐに理解した。
「君の代わりに試験に受かった子達は残念だけど落第して貰ったよ。どの子の試験の答えにも同じような癖があってね。他の大人は気づかなかったけど、僕はその答えの癖が分かったよ」
グスタフは紙袋いっぱいに詰められたパンや飲み物を少女の前に置き、一枚の名刺と共に差し出した。
「君の能力はもっと色々な人を助けるために使うべきだ。僕の研究室に来るといい」
少女は差し伸べられた手を取り、その日を境に研究者への道を歩み始めた。
グスタフに拾われて2年も経つと、大学で彼女を知らない者は誰一人いなかった。
栄養状態も衛生環境もそこまで良くなかった生活を抜け出すと、少女は蛹が羽化するようにあっという間に変身して見せた。薄汚れた銀色の髪はショートカットに切り揃え、声や歩き方には知性と美貌が兼ね備わっていた。当時都市郊外に一軒家を借り上げていたグスタフの空き部屋に仮住まいし、グスタフは空いた時間には彼女に正式な学問の思考法を惜しみなく伝授していった。シルヴィアはこの時間がいつまでも続くと夢想していた。
しかし、その幸せの時間はグスタフの突然の失踪と共に終わった。
待てど暮らせど、その日を境にグスタフは家に帰ってこなかった。聞けばある軍事作戦に加担してしまった自責の念から誰にも何も言わず実家へと帰ってしまったと風の噂に聞いた。
シルヴィアは果てしない絶望と喪失感に襲われた。
再び自分は一人になってしまった。
この時すでに成績優秀者に送られる奨学金を得ていたシルヴィアは医学の道へと進むことにした。16を超える頃には博士号を取得し、幸いにして研究室から働き口を世話してくれていたために、高層ビルの一室に部屋を借りることさえ出来るようになっていた。
他のエリート層に倣って職場を転々とし、今のヴィアレット家の傘下にある医療機関へと務めた時、偶然にもグスタフとの再会を得たときは何とも驚いたのを覚えている。再会した時こそ強い怒りを覚えたが、その時の縁でお嬢様の専属医になれたのも事実だったから、なんとも人生とは皮肉にできているものだと思った。
ヴィアレット家のお嬢様はまるで人形のような美貌を持つ少女で、優しく思いやりに溢れていた。しかし身体が弱く、人形のようなという比喩的な表現を体現しているかのように家からほとんど出ない生活をしていた。それでも執事やメイド達に愛され、シルヴィアも張り詰めた生活が一変して緩やかな包まれるような幸せな生活を送ることができるようになった。
満月の美しい夜だった。少女はまるで月下美人の花が枯れ落ちるように静かに息を引き取った。文字通り天へと帰ってしまったように思った。むしろ騒がしかったのは自分を含めた周囲の同僚達だった。自分を責めるような言葉も態度も誰もとらず、ただ滂沱の涙に泣きはらしていた。
シルヴィアはその日から月の出る夜に眠ることは出来なくなってしまった。
だが幸いにして少女は双子の姿になって帰ってきた。身体は人形で、あの頃の優しく明るい性格は何一つ変わっていなかった。
嬉しかった。本当に嬉しかった。
だけどすでに変貌してしまった自分の心はもう戻らないことを悟った。
シルヴィアは長い長い夜を一人過ごしていた。
あの日見た月の灯りを眺めていた。
もう二度と自分の大事なものを奪いに来ないようにずっとずっと見張っていた。
時刻はまだ2時を10分過ぎた頃だった。
「また夜更かし?」
ゆなはシルヴィアのこさえた目の下の隈を見て尋ねた。
「いえ、お嬢様とお坊ちゃまのことを考えたらどうにも眠れず・・」
シルヴィアは欠伸をかみ殺しながら、どんよりと寝不足な顔を化粧で隠しながら双子の傍に仕えていた。
「昨日は月が綺麗だったものね、分かるわ」
「瑠璃も月の出ている日は楽しいって言ってたね」
ゆなとゆずるは紅茶を飲みながら楽しく話していた。
シルヴィアは目を伏せて小さく笑うだけだった。
ヴィアレット家豆知識
シルヴィア=役職上はSPではあるが、寝不足から体力がないため戦闘にはほとんど出ない。戦闘訓練はメイドになった時、玄武から手解きを受けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます