第22回 誰がために争うのか

 戦争はいけないことにゃん。

 それは誰もがわかっていることにゃん。

 でも、たとえば一生の間に人と一度も争ったことがない人がいたとしたら、それは間違いなく何かが欠けている人だと思うにゃんよ。

 人は弱い生き物にゃん。

 その弱さが敵を作り、争いを起こすという側面もあるにゃん。

 何をされても怒らない人がいたとするにゃんよ。

 世界中、そういう人で埋め尽くされていたら、争いは起きないにゃんね。

 でも、逆に何をされても怒る人や恨む人もいるにゃん。

 そういう攻撃性がある人が、絶対的な守勢を固持する人に襲いかかったらどうなるにゃん。

 お金持ちだったらお金を取られるにゃん。

 かわいい女の子だったら襲われるにゃん。

 何もしなくても命を奪われることだってあるにゃん。

 犯罪はする方が悪いのはもちろんにゃんよ。

 でも、たとえば盗んでくださいとばかりに札束を人に見せびらかすのはいいことにゃんか?

 本来、防げるはずの犯罪を誘発する状況は罪ではないにしても悪であることは間違いないにゃん。

 最初に戻って一生の間に人と一度も争ったことがない人は、争いを常に受け身にとらえることで争いを誘発する状況を作り出しているとも言えるにゃんよ。

 はっきり言って、イエスキリストみたいなやり方は現実的とは言いがたいし、現実では善とも言いがたいとボクは考えるにゃん。

 平和は武器を捨てることで成立するという考えが非常に危険なのは争いの本質を見誤っているからにゃん。

 争いとは彼我の力関係が歴然とした時に生じるものにゃん。

 つまり、右の方をぶたれたら相手も左の方を殴られる場合は争いは起こらないにゃん。

 でも、プチキリストみたいなのがヤラれっぱなしになったら、リンチや虐めの始まりになってしまうにゃん。

 国家の場合は単純に軍事力だけをみても、もっと複雑にゃん。

 打って出るべきかの判断は難しいにゃん。

 だから、ほんのわずかでも反撃の余地があるなら普通は戦争なんて起きないにゃん。

 でも、今回のウクライナに関して言えば早々とバイデン大統領が関与を否定してしまったにゃん。

 いじめられっ子の後ろに喧嘩の強い兄貴がいると思ったら人違いでしたみたいな感じになったら、いじめっ子は気兼ねなくいじめができてしまうってことにゃん。

 武器や軍人はそうさせない為の抑止的効果が最大の意味だと思って欲しいにゃん。

 平和は一度崩れればそこに勝者はいないにゃん。

 そうさせない為に、つまり、いじめたらやり返すと信じ込ませる為に、戦力は絶対に必要にゃんよ。

 もう一度言うにゃん。

 争いとは彼我の力関係が歴然とした時に生じるものにゃん。

 いじめ、パワハラ、嫁いびり。

 一方的にやられるのは反撃可能性が低いことが原因にゃん。

 まあ、だからといって八方に敵を作るのもどうかと思うにゃんけど、言うべきことは主張しないと相手に攻めさせてしまうことになっちゃうにゃん。

 いかに相手に思いとどまらせるか。

 その為には何をすべきか。

 良い機会なので考えてみて欲しいと元軍人は思うにゃん。

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