21時45分、燻煙の向こうの密かな攻防

椰子草 奈那史

21時45分、燻煙の向こうの密かな攻防

 その店は薄暗い通りにあって、暖簾の隙間から漏れる明かりが一際目を引いていた。


 少しガタついたサッシ戸に手をかける。

 30センチほど開けたところで、店の中から威勢のいい「いらっしゃい!」の声がかかる。


「空いてる?」


 暖簾の間から顔を突っ込むと、中の客は六割ほどの入りでお目当てのカウンターは全席が空いていた。

 空いている時は必ず陣取る店奥の端のカウンターを指差すと、「どうぞどうぞ」とアルバイトのハナちゃんが席を引いて待ってくれている。

 カウンターの椅子に腰を落ち着けおしぼりを受け取り、ネクタイを緩めたところでカウンターの中から店長のタケさんがニヤリと笑いながら「今日は何にしましょう?」と声をかけてきた。

 そうだな、と一瞬は考える素振りをするが、答えは既に決まっていた。


「それじゃ、もやしとアカショウ、あと最初は生ビールで」


「カウンターのタキヤマ様、モヤシアカショウ、ナマ入りましたー」

 動き出したスタッフを横目に、私は何気なく腕の時計に視線を落とした。


 21時45分。


 至福の時間が始まろうとしていた。


 ※※※


 ホルモン焼屋「みち」が開店したのは五年ほど前になる。


 私の家の近くには数十年前には商店街であったであろう細い通りがある。

 今では年季の入った美容室や小さな飲み屋などがまばらにあるだけで、昔日の面影はほとんどない忘れられたような通りだ。

 その中で、以前は飲み屋か定食屋だったと思われる佇まいの空き家が、少しばかり改装されて開店したのが「みち」だった。

 開店した当初から興味はあったのだが、私は半年くらい「みち」を訪れなかった。

 表のサッシ戸が全開になっていた時にさり気なく見たのだが、「みち」の店内はあまり広くはなく、四人掛けのテーブルが5卓ほどの収容力しかない。さらに、カウンターはビールサーバー等が置かれて使えないようだった。

 このことは私に二の足を踏ませた。

 なぜなら「みち」はすぐに近所で人気になり、予約をしないと入りずらい状況になったのと、普段は飲み歩きに積極的な妻が「ホルモンは苦手」という理由で行きたがらなかったからだ。

「みち」は一つの卓に一台の七輪を置くスタイルとなっている。

 人気の店の四人掛けテーブルを一人で使い飲み食い出来るほどの度胸は私にはなかった。


 しかし、半年ほどして状況が変化した。

「みち」は簡単な店内の改修を行い、カウンター席が使えるようになったのだ。

 これならば一人で利用する難易度は下がるだろう。

 さらにほぼ通勤で毎日「みち」の前を通る私は、ある法則を見いだしていた。

 繁華街やオフィス街が近くにあるわけでもない立地にある「みち」は、平日であれば夜21時ごろを過ぎると満員とまではいかなくなることが多く、さらにその傾向は月、火に強まるのだった。

 そしてある月曜日、妻の帰りが遅くなりそうになり、食事を各自で済ますことになったのを見計らって私はついに「みち」の暖簾をくぐったのだった。


 ※※※


 私の目の前に、淡い赤色の火を湛えた炭が盛られた七輪が運ばれてきた。

 七輪の上には銀色に光る金網が乗せられている。

 続けて生ビールともやしがカウンターの上に置かれた。

「もやし」とは「もやしのナムル」のことだが、「もやし」と言えば通じるようになったのでいつの頃からかそう言うようになっている。

「みち」では注文を受けてから肉を調理するため、肉が出てくるまでには多少時間を有する。その間はもやしをあてにして飲むのが私の流儀だ。

「みち」のもやしはゴマ油と塩気がやや強めで私好みの味だった。

 ただ、ビールを口に運ぶ間にもまだやることはある。

「みち」には醤油ベースとレモンベースの二種類のタレが用意されており、これをそれぞれ小皿に注ぐ。そして醤油ベースのタレには別途用意されている唐味噌を少量追加するのだ。

 これを発見してからは絶対に欠かせない私の定番となっていた。

 さあ、これで儀式は全て済んだ。

 あとは肉を待つだけとなった。

 その時、タケさんがカウンター横の扉から出てきて、私の前にアカショウを置いた。


 アカショウ。

 メニューにある正式な名称は「ホルモンおまかせ盛り合わせ(小)」だ。

 ベースの味を塩ダレか赤味噌ダレから選べるようになっている。

 よりシンプルに楽しみたいなら塩ダレもいいが、私はコクのある赤味噌ダレが好みだから、いつも「赤味噌ダレのホルモンおまかせ盛り合わせ(小)=アカショウ」を頼むのだった。

 アカショウはおまかせとあるだけあって、何が入っているかは出てくるまでわからないが、通常は5~7種類程度のことが多い。


「今日は8種類入ってます。さあ、当ててみてください」

 タケさんが再びニヤリと笑う。

「へぇ、今日はまだ良心的だね」

「いえ、かなり難しいのが混ざってますよ」

 タケさんは自信あり気に厨房へと戻っていった。


 初めて「みち」を訪れてから、すっかり「みち」のホルモンが気に入った私は週に一度は通うようになっていた。

 最初の頃こそメニューを見ていろいろと頼んでいたが、もやしとアカショウのコンビに行き着いてからは、基本的に酒以外はもやしとアカショウしか頼まなくなった。

 タケさんは始めは何が入っているかを説明してくれていたが、たまたま忙しかった時に「当ててみてください!」と中身を教えられずに出されたことがあった。

 その頃の私はホルモンをよく食べるようにはなっていたが、特に細かいことを気にして食べてはいなかったので結果は惨敗だった。


「よし、じゃあ次は負けないよ」


 今思えば、その言葉がきっかけだったのかもしれない。

 その次からは店の忙しさに関係なく、タケさんは何が入っているかを説明してくれなくなった。そして、全てを食べ終わり会計を済ます時に答え合わせをするのが定番化していったのだった。

 ただ、これはあくまでお遊びのようなものだ。

 当たっても外れても特に特典やペナルティがあるわけではない。

 私は目の前に置かれたアカショウに視線を落とした。

 8種類あると言っていた盛り合わせは、ざっと見たところ7種類までは概ねすぐにわかった。怪しいのが一切れあるが、これはおいおい考えていくことにしよう。

 まずは、定番なものからスタートだ。


 私は「タンペキ」と「コリコリ」、「マルチョウ」をトングでつまんで網の上に乗せた。

 まずはファーストコンタクトという場面になる。

 ここで、今日の炭火の火力を確認するのだ。

 炭の炎のコンディションは日によって異なる。赤々と燃えているように見えてもあまり温度が高くないこともあれば、表面が白く燃焼が進んだように見えてもかなり熱量が高い場合もある。

 今日の火力は、やや強めというところだろうか。

 乗せた肉がジュッと音をたててすぐに煙を上げ始める。

 私は、マルチョウを網の縁の最も火力の弱そうなところに移動させると、真ん中に残したタンペキとコリコリに取りかかった。


 タンペキは豚のノドチンコであり、人の扁桃腺にも似たプツプツのある外見なので人によっては抵抗があるかもしれないが、私は歯応えのある食感が好きだった。

 コリコリは牛の大動脈で、一見ボイルしたイカの切り身のような見た目をしている。脂身はなく、タンペキと同様に歯応えのある部位だ。

 タンペキとコリコリをトングで転がしながら、端に寄せたマルチョウにもさりげなく意識を巡らす。マルチョウは牛の小腸で、名前の通り円柱を切り出したような形状をしている。

 表面を覆う薄皮の内側はほぼ脂肪だ。私がマルチョウを端に寄せたのはそこに理由がある。マルチョウは言わば固形燃料のようなものであり、火力の強い場所に配置すると、すぐに轟々と激しい炎を上げ始める。このため火力の弱い場所で、ジリジリとじっくり焼く必要があるのだった。

 その間、鼻をくすぐる燻煙をあげながら程よい焼き色がついてきたタンペキをトングで取り上げて、辛味噌を溶いた醤油ベースのタレにつける。

 厳密な基準はないが、脂身の多いものはレモンベースのタレ、そうでないものは醤油ベースが私の好みだ。

 タレに絡ませたタンペキを口に含む。

 ゴリゴリとした食感を堪能し、飲み下した後を追うようにビールを流し込む。

 今ので丁度ジョッキが空になった。

 私はアルバイトのハナちゃんに合図して、ハイボールを注文する。

 私は酒に好き嫌いはないが、「みち」ではビールは最初のセレモニーのみで、後はハイボール一択だ。

 続けてコリコリをトングで取り上げ、再び醤油のタレにつける。

 先ほど見た目をボイルしたイカの切り身に例えたが、歯応えもそれに近い。

 丁度飲み込もうとしたところで、私の前にハイボールが置かれた。

 強めの炭酸の刺激が口の脂と塩気をリセットしたところで、私は次に思いを巡らせる。

 始まりの二品が比較的淡白だったから、第二陣は少しコッテリも加えてみようか。

 七輪の端のマルチョウはジリジリと油を滴らせているが、まだ熟しきってはいない。


 私は「シマチョウ」、「コブクロ」、「オッパイ」をトングでつまんで網に並べる。

 脂肪が多いシマチョウの位置はマルチョウと同様に網の端だ。

 網の上で煙を上げ始めるコブクロとオッパイを見ながら、ハイボールを口に運ぶ。

 だが休んでいる暇はない。

 火力の上がった七輪では、焦がしすぎないようにもう片方の手に握ったトングでこまめに肉を転がさなければならないからだ。

 コブクロは管状の形をした豚の子宮で、コリコリほどではないが歯応えのある食感が面白い。

 オッパイは豚の乳腺、つまり文字通りオッパイだ。

 正肉とも内臓とも違う独特な弾力のある歯応えは例えにくい。

 もちろんお勧めはしないが、もし女性の乳房を噛んだらこんな感じなのかもしれない。


 網の端に目を向けると、シマチョウの脂肪が熱で小さな炎を上げていた。

 私はシマチョウをひっくり返して最後にひと焼き入れるとレモンのタレにつける。

 シマチョウは牛の大腸で、表面の細かい皺が名前の通り縞模様に見えることからそう呼ばれるらしい。

 私はほどよく燃焼して残った脂肪の甘みを味わいながら、シマチョウを飲みこむと次のハイボールをハナちゃんに頼んだ。


 その間に私は次の品を皿の中から物色する。

 今日まだ手をつけてないのはあと二品だ。

 私はそのうちギアラを選んで、タンペキ、オッパイと一緒に網に並べた。

 アカショウには一品につき二~三切れほど盛られていることが多いが、単価の関係で一切れだけのものもある。

 今日の皿の真ん中に一切れだけ載っている、まだ手をつけていない赤い塊がタケさんが「かなり難しい」と言った一品なのだろう。

 トングでつまんでみてもよく分からない。色合いからは、腸や胃袋ではないだろうということだけは予測できる。

 試せるのは一度だけだから、その一品は最後にする事にした。

 ホルモンには、焼くと分かりにくくなるものと、分かりやすくなるものがある。

 例えば先ほどのシマチョウは、焼く前は特徴的な縞模様があるから明確だが、焼くと縮んでしまうので他の腸部位との差が分かりづらい。

 逆に、今焼いている牛の第四胃であるギアラは、生で切られた状態だと腸と見分けがつきにくいが、焼くと食感で胃だと実感できる。

 この残った一品がどちらかは分からないが、後者であることを祈ろう。


 そんな事を考えている間に、網の端でじっくりと炙り続けてきたマルチョウが仕上がりつつあった。

 白かった脂肪は飴色に変わり、燃焼あるいは溶けて滴り落ちてその太さは半分くらいになっている。

 マルチョウの最適な焼き方を会得するまでには結構な回数を要した。

 火力を見誤ると、表面だけは焦げて焼けたように見えても口に入れた瞬間生っぽい脂肪が広がり「うえっ」となる事態に陥る。

 かといって、あまり執拗に焼きすぎると脂肪が抜けすぎてカスカスとした食感になってしまうのだ。

 飴色でトロトロ、熱々の瞬間を口に頬張る、これこそがマルチョウの醍醐味だ。

 そして、その背徳感(基本、脂肪の塊なのでカロリーは高い)を浄化するように流し込むハイボールは格別だ。


「ハイボールおかわりで」


 自然と私は次の一杯を頼んでいた。


 その後もローテーションで焼きながらホルモンを胃に収めていく。

 そして、最後に残ったのはあの赤い一切れだった。

 よし、そろそろいこう。

 私はそれをトングでつまむと、網の真ん中に据える。

 すぐに燻煙を上げ始めた肉片をじっくりと見つめ、観察する。


 脂肪は少ないように見える。

 ハツ(牛の心臓)の可能性もあるが、正肉だろうか。

 色合いからみておそらくは牛だろう。


 しかし、すぐに焼き色が入り食べ頃が来てしまった。

 あとは味で決めるしかないだろう。

 私はレモンのタレを選んで焼き上がったものを口に含んだ。

 味は間違いなく牛だ。

 柔らかさからみて、ハツの線は低いだろう。

 ……結局、私は決めきれないまま飲み込み、半ば当てずっぽうで答えをスマホのメモに打ちこんだ。


 ※※※


「ごちそうさん」


 アカショウを完食した後、締めにと頼んだタンスジの最後の一切れも食べ終えると、私は勘定を頼んだ。

 タケさんが私の元にやってきて「答え合わせをしましょうか」とニヤつく。

 私はスマホのメモを見ながら読み上げた。


「えーと、タンペキ、コリコリ、マルチョウ、シマチョウ、コブクロ、オッパイ、ギアラ……あの赤い一切れだけのが分からなかったけど、ももの辺りのどっかかなぁ」


 タケさんが自分の手の中に握ったメモを見ながら「あー、惜しい!」と小躍りする。


「ギアラまでは正解です。最後の一つはカルビでした。あ、でも端の端のほうで普通は店では出さないものです」

「わかるか、そんなの」


 タケさんは私の正解率が上がってきてから、こういう小技を挟んでくるようになった。

 ただし、「みち」の名誉のために言っておくと、これはあくまで通常のアカショウを踏まえた上でのサービスとしての要素が強い。時には「そんなの普通盛り合わせに入れないだろ」という高級部位を混ぜてくることもあるからだ。


「じゃあ、また次の勝負で」


 そんな言葉に見送られ、「みち」を後にする。

 秋も深まった夜気が頬に心地よい。

 世知辛い日常は明日からも続いていく。

 だからこそ、この至福の時間を求めてまた私はあの暖簾をくぐるのだろう。


 了


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21時45分、燻煙の向こうの密かな攻防 椰子草 奈那史 @yashikusa

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