第9話 俺が笑っていられたのは、お前が居てくれたから


「うそ……? ヘッドロックで落ちても涙ひとつ流さない翔太が泣いてる! ま、ママ! 救急車呼んで!! 翔太が壊れちゃった!!!!」


 慌てる常夏を横に、俺はハンバーグに食らいついていた。


 出来たて熱々のハンバーグ。デミグラスソースがたっぷりと乗っていて、フォークで突くと肉汁が溢れ出す──。

 

 うめぇ。うめぇよ。なんだよ、これ……。


 ハンバーグを口へと運ぶ手が止まらない。それと同時に、あふれ出す涙も止まらなかった。


 美味しい──。

 そう思えば思うほどに、頭の中から母ちゃんが作ってくれたハンバーグが消えていくような気がしたんだ。


「ママ! 救急車! はやく!」

「こーら、花火! 食事中に騒がないの! 忙しない子なんだから。翔太くん、おかわりはいっぱいあるからね? 急がず遠慮せず、好きなだけ食べていってちょうだい!」


 おかわり……。その言葉を聞いて、頭の中から母ちゃんが作ってくれたハンバーグは完全に消滅する。

 世界一美味しいハンバーグの思い出は、書き換えられた──。


「……ありがとうございます。すごい、美味しいです……。世界一、美味しいです……!」


「あっ! なるほど〜。あまりの美味しさに感動して泣いてるってわけね! ママ! やっぱり救急車は呼ばなくて大丈夫! ほら、食いしん坊な翔太にわたしの分をあげましょー!」


 言いながら常夏は、俺のお皿に食べかけのハンバーグを乗せてくれた。


「……ありがとう。ありがとうな!」

「いーのいーの! おかわりはたくさんあるんだから!」


 そう言うと常夏はすぐに、お皿を常夏ママに向けた。


「ってことでママ、おかわりーッ!」


 あれ……。それはちょっと違うんじゃないか?

 食べかけを俺に寄こして、自分はすぐさまおかわりをするのか。


 本当にいい性格をしているよな! お前ってやつは!


「どうせおかわりするなら、自分の分は自分で食えよ! なんかいろいろ台無しなんだよ!!」

「な、なによ! せっかくあげたのに! バカ翔太!!」



 不思議と涙は、止まっていた──。

 






 ☆ ☆


 母ちゃんが鬼に取り憑かれる前の記憶はぼんやりとしていて、あまりよくは覚えていない。


 でも、ハンバーグを食べさせてくれたときのことだけは、なんとなく覚えていた。


 だから今は、鬼に取り憑かれているだけ。

 いつかまた、ハンバーグを作ってくれたときの優しい母ちゃんに戻る。それだけを信じて、鬼からの攻撃に耐えてきた。


 そんな微かな望みも、希望も──。

 この日、すべてが消えてなくなった。ハンバーグの思い出とともに、記憶の中の優しい母ちゃんは消えてしまったんだ。


 そうなればもう、家に居る酒臭い女は母ちゃんではなく、ただの鬼でしかなかった。母ちゃんはとっくの昔に死んだ。こいつは母ちゃんの皮を被った、鬼──。


 怒り狂って攻撃をされても、怖くもなんともなくなった。


 もとより俺は鬼に怯えていたわけじゃない。

 優しかったはずの母ちゃんが狂ったように怒るから、泣きもしたし怯えもした。……ただ、悲しかっただけなんだ。


 でも、母ちゃんじゃなくて鬼だとわかれば、それもおしまい。



 俺は瞬足の翔太だ。光輝く一等星、カシオペア──。


 鬼にビビるほど、ヤワな男じゃないんだぜ!

 俺が本気をだしたらお前なんかワンパンだ! 常夏のヘッドロックのほうが100倍脅威だっつーの!!

 

 それでもやっぱり──。

 母ちゃんの皮を被っているからなのか、やり返すことはできなかった。


 鬼ってやつは、弱いくせに卑怯な奴だ。


 ──居なくなっちまえばいいのに。


 母ちゃんでないのであれば、こう思ってしまうのもまた、当たり前のことだった。



  ☆ ☆



 そこから先はあっという間だった。

 鬼に怯えることがなくなれば、残るのは楽しい毎日だけ。時間は不思議なくらいに早く過ぎていった。



  ☆ ☆


 ハンバーグをご馳走してくれた一件以来、常夏は俺を食いしん坊と言っておちょくるようになった。


「ねえねえ食いしん坊! うちのママがね、翔太も来るならクリスマスケーキ大きめの作るって言ってるんだけど!」


「え、お前ん家の母ちゃんってケーキも作れるのか?」

「当たり前でしょ! クリスマスケーキのひとつやふたつ召喚するのなんて簡単なんだから! ちなみに、うちのママが作るクリスマスケーキは世界一だよ〜!」


「フッ。だったら、その世界一ってやつを確かめに行ってやろうじゃねえか! 半端なもん出しやがったら末代まで鼻で笑ってやるからな!」

「望むところ! バカ翔太をまた泣かしてやるんだから!」


 クリスマスケーキを食べた記憶なんて、ただの一度もなかった。食べられるだけで、俺にとっては唯一無二の世界一だ。

 それなのにこうして強がってしまうのは、常夏の前では格好良い男でありたかったのかもしれない。


 それからもこんなやりとりは続いた。


 大晦日──。

 年越しそばに屋台のたこやきに、常夏花火。


 正月──。

 お雑煮におせち料理に、常夏花火。


 バイレンタインデー。節分。ホワイトデー。


 隣ではいつも常夏が笑っていた。


 学校では相も変わらずに決闘に明け暮れたけど、放課後の俺たちの関係は少しずつ、本当に少しずつだけど変わっていった。


 毎日がとにかく楽しかった。

 学校に行けば友達に会えるし、常夏だって居る。

 遠足気分で学校に行き、帰って来れば明日が来るのを楽しみに眠った。

 

 だからずっと、こんな日が続けばいいなと思っていたんだ。


 でも、そんな最高の毎日は──。ある日突然、終わりを迎える。


 何の前触れもなく忽然と、鬼が姿を消してしまったんだ。



 居なくなればいいと思っていたのに──。それは間違いだったと、すぐに思い知ることになる。

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