緒戦を終えて

 八月フィッシャーズを終えて、二日が経った。

 アナタは事務所にタキツを呼んで、顔を突き合わせている。

「ごめん、ぼくが余計な口を挟んだせいで上位入賞のチャンスを潰してしまった」

「あ、そういうのいいんで」

 真っ先にアナタが頭を下げると、タキツからよく冷えた眼差しをいただけた。

 アナタはそんな風に言われるとは思ってもみなかったので、頭を上げることも忘れてそのままの姿勢で止まってしまった。

「元々、勝てもしないレースで順当に負けただけでしょう。謝る必要全くありませんよね。何を私なんかに期待してたんですか、このおろかもの」

 レースに負けて気を落とすこともなく、タキツの毒舌は今日も滑らかだ。

 アナタも罵倒を受けながら、心安らぐような笑いが込み上げるような気分になってくる。

「そんなことより、一つレースが終わった訳ですけど、次はどのレースに出るんですか? 登龍門まであと二つってことは、三、四ヶ月くらいは間を開けてくれるんでしょうか」

「……あ」

 タキツに次の予定を訊かれて、アナタの背中に冷や汗が垂れる。

 頭を下げたままで良かったかもしれない。タキツから侮蔑に凍り付いた視線を向けられている気配がはっきりと分かる。直視していたら、凍結していたかもしれない。

「まさかと思いますけど、まだ次が決まってないとか言いませんよね?」

 タキツからの追い打ちに、アナタの額からも冷たい汗が噴き出して頬を伝う。

 言うまでもないが、次のレースなんて決まってない。レースの情報も調べられてない。八月フィッシャーズへの対応で手一杯だった。

 アナタは自分の手際の悪さに只管に悔いる。

 まぁ、どれだけ悔もうとも、それでレースが思い付く訳でもないし、タキツからの評価が下がっていくのを止める事も出来ないのだけれど。

「ナヴィゲーターさん、私の顔を見て下さる?」

 穏やかなタキツの声音が頗る怖いが、アナタに従わないという選択肢はなかった。

 錆び付いた歯車のようにぎこちなく、アナタが顔を上げると。

 にっこりと、目まで細めて笑うタキツの顔が視界に入り。

 その額には青筋がくっきりと浮いていた。

「一ヶ月以内にレースの出泳予定が決まらないなら、私はトレーニングを止めますからそのつもりでいてくださりますか?」

「必ず一ヶ月以内に決めます! 申し訳ありません、マム!」

「アナタみたいな不出来な子供を生んだ覚えも育てた覚えもありません、このおばか」

 余計な一言がタキツの堪忍袋の緒を切ったらしく、アナタは首が沈む程の強さで頭を叩かれた。

 正当な罰だと思って抗議はしないが、かなり痛かった。タキツもだんだんと人魚らしい筋力が付いてきているのかもしれない。

「何を叩かれて嬉しそうにしているんですか、気色悪い」

 自分でも知らないままに、にやついていたようでタキツから追加で悪口と虫を見るような眼差しをもらってしまった。

「全く、本当に要領が悪いんですから。よくそれで人魚の世話を焼くのが夢だなんて言えましたね」

「いや、もう、返す言葉もない」

「言葉を返してきたら耳が焼け爛れるまで罵倒したところです。私の喉が擦り切れないようにしてもらってありがとうございます」

 これ以上、タキツの喉に負担を掛けないように、アナタは苦笑いでお茶を濁した。

 それでもタキツは眉を顰めたけれど、批難が途切れたので良しとしよう。

「でも、残念な事に世間ではちょこちょこ話題になっているみたいじゃないですか」

 そう、タキツの言う通り、先日の八月フィッシャーズは例年とは比べ物にならない程にメディアや人の噂で取り上げられている。

 そもそもオリヴィエが妨害役で参加すると知られていて注目度が上がっていたようで、そこにあの大接戦だ。当日と昨日のレースでもオープン戦であるのにニュースで時間を取ってまで報道されていた。

 オリヴィエの生み出した泡を掻い潜って目標個体をゴールさせたニーシェがピックアップされている情報が多いのだが、一部で最初にオリヴィエの泡を突破したのはタキツであると伝えているものもある。

「いくつか取材依頼も来てるよ」

「……私は同席しませんからね」

「はいはい。相手も選別して対応するつもりだから」

 タキツは本人でありがならも、アナタに取材を丸投げしてくるが、想定の範囲だ。

 勝たせる事も出来なかった結果について話さなければならないとあってはアナタも乗り気にはなれない。信頼出来そうな会社に一件か二件も対応すれば十分だろうと考えている。

「それと理事長経由なんだけど……タキツに会いたいっていう音大生がいるらしんだけど、どうする?」

「音大生?」

 タキツはなんでそんな人物がと疑問で声を跳ねさせた。

 アナタも理事長から来たメールを最後まで読み切るまでは首を傾げていたから、気持ちは良く分かった。

「なんでも、タキツの持ち歌について話をしたいんだとか。オシェアニア・リーフェ音大の生徒らしいよ」

「あー」

 アナタの説明で納得がいったようで、タキツが間延びした未声みこえを上げた。

 アカシックレースでは、勝利した人魚は星から『歌』をダウンロードして披露し、それが奇跡を起こす。

 レプリレースでもそれにならって、勝者がコンサートを開くが、そこで歌う楽曲はレースによって決まっていたりいなかったりする。なので人魚は、自分の歌を用意して、そこで歌えるようにしている。

 ちなみに、アイドルや歌手のような活動をメインにして幾つも楽曲を保持している人魚も少なくない。人魚の歌は不思議と心に響くので、そうやってレース以外でも歌ってくれる人魚は人気も高い。

「そもそもタキツは持ち歌あるの?」

「まぁ、レースに出るようになった時に学園で用意してもらったものが一応。みんな最初の曲はオリ音大の関係者に用意してもらうんですよ」

 オシェアニア・リーフェ音大は、オシェアニア・リーフェの所属人魚がマーメイドレースで稼いだ褒賞で運営しているお抱えのような音大だから、そのような仕組みがあるのだろう。

 ところで、タキツがレースに出た頃に作ってもらった曲と言うことは――。

「私のは九十年以上前に作られた歌なんですけどね」

 もう立派にクラシックと言える曲だ。

「タキツ、ちゃんと覚えてるの?」

「失礼な。人魚は記憶力がいいんですよ」

 確かに、とアナタは得心した。良く歴史学者が研究に研究を重ねて歴史的事実だと発表した内容に対して、通りすがりの人魚からさらに詳細な情報が付け加える、なんて冗談のような本当の話も良くあるのだから。

「私が万が一レースに勝てたら、ナヴィゲーターにも聴かせてあげますよ」

「うん、がんばるよ」

 タキツがあからさまに嫌味で言った言葉にアナタが間も置かずに返事をしたら、目を据えられた。

 レースに勝ったら当然歌うんだから、特別扱いしてないんだと言いたいのだろうけど、アナタはアナタで成果も出せないので特別扱いして欲しいとも思っていない。

 レースを一戦終えて、それでもまだまだちぐはぐと噛み合わないでいるアナタ達二人だった。

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