八月フィッシャーズ当日
八月フィッシャーズ、その当日が来た。
ルルから、タキツは会場に直接向かうと言われている。
八月フィッシャーズはテイルフィン州から東の位置にある離れ小島で行われる。この離島はフィッシャーズコートと呼ばれるもので、その名の通りフィッシャーズを開催するための設備を基礎から追加されて建設されている。
アナタは前日から船で来島し、今は関係者だけが入れる準備スペースの入り口にエアピースを咥えて浮かんでいた。
何人かの人魚に訝しそうに流し目を送られるのを繰り返した後に、待っていた相手が泳いでくるのが見えて、アナタは片手を上げた。
『タキツ、おはよう』
しかし、アナタの挨拶の聲は無意味に水の中へと溶けて、タキツはしれっと目の前を通り過ぎた。
一瞥もせず、スピードも一切緩めないという、徹底的な無視だ。
『タ、タキツー!?』
アナタは慌てて水を手で掻き足で蹴って、タキツに追い縋る。
タキツは尾鰭で起こした波を上手にアナタに向けて、嫌がらせをしてきた。
『なんでしょうか。人身売買をするような人権侵害組織の関係者に知り合いはいませんので、人間違いでしょう。もう二度と拉致なんてされないように、私は付き合う相手はちゃんと選ぶと決意しました』
『そこまで言うか!?』
ルルに引き渡したのを根に持ったタキツは、氷のように冷たい態度にアナタをあしらう。
レース前にこんなに機嫌が悪くては、アナタの指示も聞き入れてくれないだろう。
一人で相手するには分が悪い、と思ったところで、アナタはルルの姿ないことに気付く。
『タキツ、ルルは一緒じゃないのか?』
聲を掛けられるのが不本意で堪らないのか、タキツは半眼に細めた拒否感漂う視線を向けてくる。
『あの他人の能力をガン無視して虐待をしてくる人の心のない悪の人魚は、八月フィッシャーズまでの約束でやれることは全部やったからと昨日の夜に私を沖に置き去りにして何処かへ行きましたよ』
アナタはルルの所業に流石に引いた。
タキツを沖に残していったとか、下手をしたら今日のレースに間に合わないかもしれなかった。恐らく、これで間に合わないなら、レースに出る資格もないと言いたいのだろう。
『タキツ、そんな目にあって可哀想に』
『元はと言えば、アナタがルルにレース直前まで全部任せるとか言ったのが原因なんですよ!』
遂にタキツの怒りが沸騰し、聲を荒げたが、アナタはぐうの音も出ない。ぷいっと全身を使って顔を背けるタキツが起こした波を一身に受け止めるのがせめてもの贖罪だ。
こんなにも怒っていながら、きちんとレース出場目指して来てくれたタキツには、最早感謝しかない。
今だってちゃんと、レース出場者の受付へと向かって迷いなく進んでくれている。
『あれー。タキツさんじゃないですかー。ほんとに今日のレース出るんすね』
もう口を開くなんて烏滸がましいことはせずに、ただタキツの後を泳いでいたアナタにもその聲は聞こえた。
ちょうどアナタ達二人が向かう方から、美しく鮮烈な赤い尾鰭をたゆらせて、一人の人魚が泳いでくる。
アナタはその姿を写真で見ていた。今日の参加者の一人、ニーシェ・レッナだ。
『と、おやや? こちらはニンゲンさん? あ、ども、ニーシェ・レッナでーす』
『こんにちは』
ニーシェは軽い調子でアナタに挨拶をしてくる。
アナタが挨拶を返すと、ニーシェは軽やかにアナタに泳ぎ寄って来て、前から後ろから品定めするように不躾な眼差しを向けてくる。
『ほほーん。あなたさまが軽く半世紀以上だらけてたタキツさんをレースに引っ張ってきたっていう噂のアノヒトですなぁ……なるほど、なるほど』
どうやらアナタは人魚達の間で噂になっているらしい。だがそれも、そもそもはタキツが誰もが知る引き籠りであったが故だ。
『タキツ、ニーシェ・レッナと知り合いだったの?』
『学園にいる人魚とは面識があると前にも言ったでしょう』
話しかけれたタキツは澄まし顔を崩さない。
シャルマの時と言い、面倒臭がりな性格の割に人付き合いはあるらしい。
『いやー、なにを隠そうニーシェさんはタキツさんとは怠け者仲間でして。お恥ずかしい』
口では怠け者と言っているけれど、戦績は兎も角、ニーシェのレース出場の回数も頻度も一般的な人魚と比べて遜色はない。
アナタが内心首を傾げている間に、ニーシェはタキツに近寄り、目前に立った。
『ところで、タキツさんはこのレースから本格始動なんでしょうけど、もしかして来年の登龍門を目指していたりするんですか?』
問いかけられたタキツは、アナタに向かって大袈裟に顎をしゃくって見せた。
それを決めるのは自分ではなく、アナタだという意思表示を受けて、アナタは頷く。
『そうだね。来年は登龍門を突破して、海のレースへ進出するつもりだ』
アナタがそう告げた瞬間、肩越しに見たニーシェの眼差しは……それまでと打って変わって冷たく、軽蔑の色を含んでいた。
けれど、そんなのは見間違えだったかのように、ニーシェは即座にふにゃりと笑う。
『マジっすか。タキツさんも知ってるでしょう? 来年の登龍門は満を持してアイツが出るんですよ? 三賞もロイヤルもかっさらわれて、チャンスないですって』
三賞もロイヤルも、登龍門を突破した人魚がその直後に開催された一回しか出場出来ないと定められている大きなレースだ。永遠を生きる人魚をして、人生で一度だけのその舞台は憧れと称賛で目指されている。
それらを一個人が制覇するというのは、まず有り得ない業績だ。
しかし、ニーシェにはそれを成し遂げて当然だと思える相手がいるらしい。
『あたしゃ、向こう四年は登龍門見送りますよ。タキツさんだって、百年ずっと逃してきてんですから、あと四年くらい待ったって同じじゃないですか?』
へらへらと語るニーシェの気持ちは、アナタには分からない。
けれど、タキツがどう答えるのかには興味があった。
『いつ登龍門に出るかと決めるのは、私じゃありませんね』
タキツの返事は他人任せというか、アナタ任せだった。いつもながら、自意識が低い。
ニーシェがアナタに振り返り、挑むように睨んでくる。どうやら、意見を求められているらしい。
『確かに、タキツにとって四年先でも十年先でも同じだとは思うよ』
アナタがどうこうというのを考えなれば、人魚であるタキツには文字通り無限の時間がある。スタートラインに立つに当たって、時間が幾ら経過してもそれはなんの影響もタキツに及ぼさない。身体的には。
『でも、タキツには誰が相手になろうと、来年の登龍門に出てもらう』
アナタは毅然とニーシェ、そして彼女の背後にいるタキツに言い切った。
ニーシェが牙を剥き、聲で噛み付いてくるその瞬間よりも早く、アナタは言葉を繫ぐ。
『何回後回しにしてって、関係ないんだろうさ。だけど、自分にとって都合のいいタイミングを待ってったって、そんな時は来ない。幾らでも自分に不利な状況は並んでる。それは今年でも来店でも百年後でも千年後でも同じだ。人魚は、自分以外の人魚と競争するためにレースに出るのだから』
百年鍛えれば、他の人魚はみんな自分より弱い、なんてことにはまずならない。
今のタキツでも、レースに勝てるとアナタは断言する。
登龍門突破の同世代には優位であろうとも、いずれは永遠の時間をレースに費やしてきた先人達にも挑まなければならない。
そんな当たり前のことから目を背けても、現実はキレイに消え去ったりはしてくれない。
『ぼくはどんな相手だって、それこそルルにだって、タキツは勝てる可能性があると信じているからね』
『そんな顕微鏡使っても見えなさそうな小さな可能性に期待しないでもらえます?』
アナタの意見を聞いても、タキツはつれない言葉しかくれなかった。
ニーシェの顔からは、全ての感情が抜け落ちていて恐ろしささえ感じたが、なんの反応もないので逆にどうすることも出来ない。
『だそうなので、私は来年の登龍門に出ます』
タキツは怖気付かず、かといって誇らしそうでもなく、淡々と事実として受け入れた予定を告げた。
ニーシェの目は、これが海上であったら涙を落としていたかもしれない。
『でも、あなたはいつ登龍門に挑むのか自分で決めるといいわ。彼女が機を待って登龍門を一度見送ったように、あなたも自分が一番相応しいと思う時に登龍門に挑む権利があるのだもの』
ニーシェに向けてそんな台詞を送ったタキツは、彼女の返事も聞かずに、アナタの手を引いて泳ぎ出した。
アナタは戸惑い、後ろへと置き去りにされるニーシェに振り返る。
『タキツ、いいのか、あの子』
『いいですよ。ニーシェは賢いですから、なんの問題もありません。むしろ、私達の方が、エントリーの締め切りまでぎりぎりなんですから、さっさと済ませますよ』
そんな言い訳をしてアナタをその場から連れ去ったタキツだけど、エントリー時間まではまだまだ余裕を持って手続きが済んだ。
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