タキツは隙あらば怠けたい

 八月フィッシャーズに向けて、最後のトレーニングメニューをタキツに伝える日が来た。

「もうすぐ本番だね」

 アナタはそれはもう気合が入り。

「まぁ、時間なんていつでも勝手に過ぎ去るものですからね」

 タキツはそれはもうやる気がなかった。

 目の前で水に体を横たえ、チョコを摘まんでいるタキツに、アナタはがっくりと肩を落とす。

「タキツ……キミってヤツはこの期に及んで……」

「平常心ってやつですよ。いいですから、メニュー寄越しなさいな。やること言ってもらわないといくらでも怠けてやりますからね」

 タキツに脅しを受けて、アナタは今回のメニューを提示した。

 祈り、休息、ドリル、祈りと負荷は少なめにしてレースに向けて体調を整えることを重視している。

 アナタのタスクは、レース準備を終わらせることとレースの情報をさらに集めることを目標にして動く。

「軽い内容ですこぶるいいですね」

 タキツから有り難くない好評価を得て、アナタは溜め息を吐く。

 尤も、タキツはそれに目聡く細めた目で批難を投げかける。

「なんですか。どっかのルルがリハビリにはありえないくらいの酷い仕打ちを受けて、あちこち筋肉が痛いんですよ、こっちは。まぁ、それを慮ってトレーニング内容組んで貰っているのは分かってますし、感謝していますよ。だからありがたく怠けさせなさい」

「怠けないで」

 アナタの悲痛な願いを、タキツはふいっと顔を明後日に振って聞き流した。

 実際にトレーニングをサボることはないとアナタも分かっているが、どうにもこうした普段の態度が不安を煽る。

 本人も日頃から宣言しているが、レースに対する意欲が頗る低い。

 タキツはこういうところが人魚らしくない。

 人魚は、自分から人魚になる事を選ぶ。むしろ、自分が人魚になりたいと願っても、人魚から肝を与えられなければ、人間は人魚になれない。

 こうした背景から、人魚になった人物は、人魚となって人魚らしい生き方をするのに意欲的だ。人魚らしい生き方とは、マーメイドレースを泳ぎ、勝利して自分の歌を響かせることに他ならない。

 つまり、普通の人魚はレースに出たがるものだし、レースに勝ちたいと闘志を燃やすものだ。今までアナタが見て来た人魚も、例えどんなに穏やかで争いを避ける大人しい人魚であったとしても、レースになれば目付が変わり、ゴールに向かって恐ろしいまでの気迫を見せた。

「タキツ、キミもレースに勝つ人魚に憧れて人魚になったんじゃないのかい?」

 アナタの口から呆れがおもいて部屋に零れる。

 アナタから顔を背けたままのタキツは、一つ、二つと所在無さげに尾鰭で水を叩いた。

 しばらく、アナタ達の間に沈黙が行き交い、水の揺れる音だけが時間の経過を証明した。

 ぴちゃん、とタキツの尾鰭が水面に落ちる。

「……………………そんな昔のことは忘れました。こう見えてもお婆ちゃんなので、物忘れが激しいんです」

「どんなに年取ったとしても、物忘れする人魚なんて聞いたことないんだけど」

 人魚の不老不死は脳細胞もその範疇にある。千歳になろうが、万歳になろうが、人魚は詳細に過去の出来事を記憶しているものだ。歴史学者の間では、名を上げるのに必要なのは人魚との友好関係である、という半ば本気の冗談が常套句になっている。

 タキツの顔がアナタに向けて振り返り、嫌そうな表情を見せた。

「あんまりしつこいと、サボりますよ。レース前の大事なタイミングでそんなことになってもいいんですね」

「最近サボりで無理矢理話終わらせるの多いけど、本気で止めてくれないかな!」

 そして今回も、タキツ自身の労働を人質に取られて、強く出ることが出来ないアナタだった。

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