戦女神参戦
八月フィッシャーズの開催まで、残り一月となった。
七月前半、タキツにはルルの監督の元にドリルと祈りのトレーニングを支持し、アナタはその間にレース研究とレース準備を進めることにした。
スケジュールはかつかつだが、出場出来ないという最悪の事態は回避出来そうだ。
「休み返上すればもっと余裕作れるよな……」
『アホなこと言ってますと、私がトレーニングさぼりますよ。残業一時間につき、二時間でいいですか』
アナタがぼやくと、リンケージ越しに脅してきた。
アナタは事務作業をしているが、並行してリンケージも接続している。レース中も外部情報を確認しながら支持を出せるように、慣れさせているところだ。
「いや、あの、タキツじゃなくてぼくが働くだけなんだけど」
『社畜の相方なんて御免被ります。ストライキです』
タキツの聲は本気だった。自分に甘く、他人にも甘い。自分が見ている間は過剰労働など許さないという恐ろしいまでの意志を感じる。
これはアナタが折れるしかないと早々に悟る。
そもそも想定外の事態が起こらなければ、最低限の準備は間に合うのだ。
『ほら、ストレッチももう十分でしょ。お喋りはそこまで。始めるよ』
タキツはルルの聲に追い立てられて、ドリルトレーニングを開始した。
アナタも少しでも余裕を作るために作業に入る。
今日のタスクは、八月フィッシャーズの研究だ。既に大会運営は準備を始めており、その動向は関係者の話題に上っている。公にはされていなくとも、確度の高い予測を立てるのは現状でも出来る。
『ほら、コーナーでは背筋を使う! 背中から尾鰭までの筋肉を一枚にして!』
時折、ルルの怒号がタキツに叩き付けられるのを聞きながら、アナタは情報を探し、精査して、並び替えて推測を立てる。ルルの厳しい指導は天井がないらしい。
「これは……すごいな」
今期、イワシの外洋漁獲量はここ百年で一番の豊漁らしい。網を投げれば引き上げる時に千切れそうなくらいの量が取れるとニュースになっている。
そして大会運営でイワシをレース会場へ追い立てる人魚達がかなりやる気を出し、過去最高の魚群数を達成すると意気込んでいる。
例年で三百万、最大で七百五十万以上のイワシが集められた記録があるが、レース海上をこっそり見に行った野次馬が、既にイワシが鯨の群れのような魚群になっている写真をネットに投稿している。
今回の八月フィッシャーズはポイントのインフレが激しそうだ。少なくとも、目標個体だけを狙って獲得しただけでは勝利に結びつかないだろう。参加者が目標個体に見向きもしない可能性もある。
ちなみに、参加者が目標個体を敢えて避けてレース時間を伸ばしてポイント獲得を目指す状況も、過去のフィッシャーズでは見られた。だが、その場合は目標個体捕獲の妨害を行う運営側の参加人魚が、目標個体を確保してレースを終了させる。
運営側の人魚を他の人魚が妨害する場面も見られるが、上位の人魚を相手では伸ばせる時間も限られる。
今回もそんなレース展開になりそうだ。
そうすると、目標個体を狙うにしろ狙わないにしろ、タキツも多くのイワシを獲る必要がある。問題は、タキツが普通にイワシを追い立てても、他の人魚の捕獲数に迫れるか微妙なところか。正直、無策なら大きくポイントを引き離されるだろう。
『ラップタイムが〇・五秒も遅れてる!』
ルルの叱責がアナタの耳朶を打った。〇・五秒ならペースを維持出来ているように思えるが、恐ろしくて聲を挟むなんて出来ない。
タキツの息は荒く、水を掻く音も乱れている。もう二百メートルのコースを三十周は越えている。ペースが乱れるのも無理はない。
しかし、ルルは五十周回を一セットにして、途中で休ませることは決してない。
タキツはどんなに怒鳴られても五十周を泳ぎ切る。怠けるのが好きなのに、真面目で根性があり、言われたことはどんなに遅くなってもやり遂げるのが彼女だ。
彼女がレースに勝つために、アナタも意味のある情報を届けたいと気を引き締める。
大会に出場する人魚も名前が上がってきている。
その中で、途轍もなく有名な人魚の名前を見つけて、アナタは唖然とした。
「なんでオリヴィエ・パラスの名前が八月フィッシャーズなんかで出て来るんだ?」
確実に運営が用意した妨害のための参加だと分かるが、格が明らかに違う。
オリヴィエ・パラスは【戦女神】の二つ名を持つアプサラスであり、この星の九割を占める海に存在する海威を多く打ち取ってきた英雄だ。
海威とは、海のバケモノである。それは巨大な海竜であったり、クラーケンであったり、化物鯨であったりするが、海という環境で巨大化し戦艦か時には島一つの大きさを誇る。泳ぐだけで波を起こして近寄った船を沈没させ、気まぐれに陸地に近寄っては海岸線を壊滅させる。広い海で人類がそれと出遭うのはそう多くはないが、海威によって海の藻屑と消えた
そして元々アプサラスという人魚の戦士は、人間の国家を護るために海威を打ち破ってきたという原点がある。レースが勝ち取った無数の装備を纏い、恐ろしい怪物に向かう姿は雄々しくも美しい。
現在の世界で、そのアプサラスの頂点に立つのが、オリヴィエ・パラスだ。
そして、アナタにとってはもっと身近な情報で、彼女の脅威度を表すものがある。
オリヴィエ・パラスは、ルルと同じ年に登龍門を突破し、常に彼女とレースの栄冠を競り合ってきた人物だ。そこらの人魚がルルに負けて二位になるのとは違う。オリヴィエはレース中もルルに肉迫し、一度ならず先頭を奪った経験もあるのだ。
八月フィッシャーズでは、魔力を宿した装備やマギア、ミストレスが従えるファミリアは合計で三つまでと定められているが、オリヴィエが三つもライセンスから作成した装備を持って来れば、登龍門を突破していない人魚が敵うはずもない。
『なんか……恐ろしい名前が聞こえてきましたけど……うそですよね……?』
一セットのドリルを終わらせたタキツが息も絶え絶えに問いかけてきた。
「ごめん、嘘じゃない。大会の公式ホームページでエントリー情報出てる」
『……私、当日バックレてもいいですか?』
そんなことはさせられないのだけど、タキツの気持ちも大いに分かる。
アナタは咄嗟には返す言葉が見つからなかった。
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