引っ越し
タキツの遠泳は、ルルの協力もありアナタが出したノルマ以上の成果を出して終わった。
しかし、その分タキツの疲労も溜まっているようで、一日休みを挟んだ今日も、タキツはぐったりとしている。
「こないだまでニートを満喫していた人魚に対して、ルルの鬼……」
体に陰を背負っているタキツを見ていると、アナタは今日も休みにしてあげたい気持ちに苛まれるが、そうもいかない予定があった。
「タキツ、今日の引っ越しはぼくの方でやるよ」
タキツは虚ろな瞳をアナタに向けて、ほんの束の間唸った。
「正直、乗り気にはなれませんけど、背に腹は代えられないですかね……」
「そこは素直に頼ってほしいんだけど」
アナタが苦言を漏らすと、タキツはふいっとそっぽを向いた。
そんないつものやり取りはあったものの、タキツはアナタを連れて学園の自室へと潜っていく。
通りすがりの人魚の中には、エアピースを咥えてタキツの後を付いていくアナタに首を傾げる者もいた。学園に訪問する客は多くても、人間で海中まで来るのは珍しいからだろう。
『あ! タキツさん!』
タキツの部屋に辿り着く前に、後ろから聲で呼び止められる。
タキツは速度を緩めずにくるりとターンして体を後ろに向かわせて、アナタの横をするりと過ぎ去った。
流麗な人魚らしい動きに、アナタは内心で感動を覚える。
『シャルマ、こんにち――』
『タキツさん、学園を出て行くってほんとうなんですか!?』
アナタが振り返る前に、タキツが相手へ投げかけた挨拶は、元気な聲に遮られた。
聲の調子にまだ幼さがある。どうやら人魚でも年少らしい。
『ええ、そうだけれど――』
『なんでですか! 大人ってば、ひどい! いつもいつもお金のことばっかりで、弱いものいじめばっかり!』
アナタがやっと体の向きを変えて相手の姿を視界に納めたのは、タキツがまた言葉を遮られた後だった。
聲の通り、ちんまりとした子供だった。最低年齢でも十二歳なのだが、見た目で言えばもう二、三歳は幼く見える。
けれどその下半身は、毛皮に覆われた尾鰭になっている。怪獣の素質を持った人魚だ。
『まぁ、人間が利益ばっかり考えているバカばっかりなのは否定しませんけど、私の場合はあまりにもここに居すぎただけだから』
『しれっと主語大きくしてディスらないでくれないかな。ぼくも人間なんだけど』
アナタが聲を挟んで抗議すると、タキツは冷たく細めた流し目をくれた。
『アナタは金銭欲はありませんけど、デリカシーがないので人間の評価上げられてませんから。ナンセンスなこと言うだけなら黙って待っててくれますか』
タキツにぴしゃりと窘めなれて、アナタは口を噤んだ。
獣の尾鰭を持つ人魚の少女は、アナタにやっと意識に入れて、それから目を真ん丸と大きくした。
『わ、わ、人間! 人間です! あ、さっきのは、その、大人の! 大人のことを言っただけで、あ、でも、あなたも大人ですね! や、その、怒らないでください!』
エアピースを咥えているし、足はちゃんと二本あるし、彼女もすぐにアナタが人魚じゃないと理解して盛大に慌て出した。
学園の水中には人魚しかいないから、人間への愚痴も口が緩んでしまうのが常なんだろうか。
『落ち着いて。ぼくだって、タキツが出ていかなきゃいけないって言っても、住む場所を斡旋しないとか、思うところたくさんあるから』
アナタは努めてにこやかに、彼女に聲をかける。
アナタの前に浮かぶタキツが、呆れたように肩を竦めて、ひらりと長い袖が躍った。
『シャルマ、一応紹介しておくね。これが私をレースに出そうなんて気の迷いを起こした人間よ。自分では私のナヴィゲーターだって言ってるわ』
酷く雑で言葉の端々に棘のある紹介もあったものだ。
苦笑いを浮かべるアナタに、タキツが振り返り、鋭い視線を刺して窘めてくる。
『この子は、シャルマ。後輩って言えばいいですかね』
『この学園でタキツの後輩じゃない人魚って教師陣以外にいる?』
『うるさいですよ』
アナタが軽口を叩くと、タキツは不機嫌を聲にしてぶつけてくる。
百年間、学園に居座っているタキツは間違いなく学生の中では長老だ。
とは言え、このシャルマという子は特別に親しい相手なのは、態度を見れば分かる。
『あなたが! タキツさんをレースに勝たせてくれるんですね! シャルマからもお願いします! タキツさんは、シャルマにご飯が大事だとか、いろいろ教えてくれた恩人なので! どうかタキツさんに勝利を授けてください!』
シャルマが勢いよく頭を下げて、波を立てた。
アナタは水にお腹の辺りを押されるのを感じながら、面白い子だなと思う。
『ご飯の大切さ、ね』
『なんですか。人魚になったばかりの頃は体が作り替わるのに栄養が必要ですし、それがシャルマみたいに年少なら人間としての成長期も重なるので、いっぱい食べないといけないんですよ』
アナタは、タキツに関わる食事という言葉がつい気になってしまう。
タキツの説明は、アナタも知っているし、調べればすぐに分かることでもあるし、なにもおかしなことはない。自分はだらけていたのに、人の世話はしていたんだなとは思うけども。
『はい! シャルマ、人魚は全然お腹減らないんだって思ってて、でも、昔はお腹空いて、これシャルマ変なのかなって誰にも言えなかったのに、タキツさんはシャルマを食堂に連れて行ってくれたんです!』
『なるほどね』
食堂に毎日通っていたのだから、他の人魚よりも適任だったのかもしれない。
大人になってから人魚になるのと、子供の時に人魚になるのでは、タキツの言う通り食事の量も違うのだろう。
それで未成年で人魚になれるのは珍しいから、同じ境遇の同年代はいなかったのかもしれない。人魚達は、永遠に死ねないという選択をするに当たり、子供ではその判断への覚悟や認識が甘くなりがちなので、避ける傾向にある。
それでも子供を人魚にする時は、余程本人が人魚に親しく本心が通じている場合か、何かしらの事情がある場合だ。
この子は、肝を与えてくれた人魚とすぐに離れ学園に入っている。そうだとすると、とアナタが考えを巡らせようとしたところで、タキツに脇腹を肘で突かれた。
『聞いてないことを勝手に想像で詮索するのはおよしなさい』
『……っと、もしかして、これが君にデリカシーがないって言われてるやつ?』
『学習出来てるようで、いちいち指摘した甲斐がありますね』
アナタは、バツの悪さを隠すのと、自然と動いていた頭を切り替えるのに、頭を掻いた。濡れた髪が手の甲に纏わりついて、動かしにくい。
『ともかく、シャルマ。私はこれからまさに引っ越しだから。元気でやりなさい』
『うわああっ! やだー! やですよ、タキツさーん! 行かないでー!』
『駄々をこねても、いつかは追い出されるんです。それなら、この人が住む場所を用意してくれた今出て行きますよ』
タキツはそれだけ伝えて、泣きじゃくるシャルマを置き去りにして泳ぎ出す。
アナタは後ろ髪を引かれて振り返りつつも、タキツの後を追った。
『泣いたままだけど、いいの?』
アナタが問いかけると、ちらりとタキツの流し目が水流に乗って寄越された。
『シャルマは感情を持て余すことが多いですけど、賢いですから、きちんと頭で理解はしてます。心がダメなら、今は話をしても落ち着かせられませんよ。……別にトレーニングでここの施設を使うわけですし、その時にお菓子でも持っていきます』
タキツの回りくどい気遣いに、アナタは胸が暖かくなる。
それはすぐにタキツに見咎められて、尾鰭で頬を叩かれたのだけれども。
そんな一幕もありながら、アナタはタキツの荷物をマキナの家まで運んだ。
『プラケースが五つで荷物が全部って、いくらなんでも少なくないかい?』
『物に執着ないですから。レースに出てないので、まともな収入もありませんし』
半日仕事の覚悟で及んだ引っ越しは、タキツの私物が余りにも少なく、一時間足らずで終わったのだった。
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