遠泳 with ルル・アトゥイ
タキツの遠泳出発を見送りに来たアナタは、彼女の隣で水面に浮かぶ人魚に目を丸くするしか出来なかった。
「本当に、ルル・アトゥイがいる……」
先日のアラウンド・オシェアンに連なるレースの一つ、ハイチェイスで圧倒的な勝利を納めた人魚が、波打つブロンドの髪を海の揺らぎに遊ばせている。
ルル・アトゥイ。間違いなく現在の人魚で最速で最強で最高と呼ばれるに相応しい彼女が、タキツのトレーニングのサポートを二つ返事で了承してくれた。
タキツから聞いた話では、八月のフィッシャーズに出場するまでの期間は、タキツのトレーニングを付きっ切りで見てくれるらしい。
「次のバトルロワイアルまでは暇してるし、おねえさん、可愛い後輩のためなら幾らでも手助けしちゃうよっ」
ルルはにこにこと笑顔でアナタに意気込みを宣誓してくれた。
「後輩?」
アナタはタキツに疑問を投げかけた。
ルルはずっと個人が運営する事務所に所属していたはずだ。その経営者が彼女の夫だというのも有名な話である。
「ルルは独立する前にはオシェアニア・リーフェで泳ぎを学んでいたんです」
「タキツは、わたしが登龍門に出る前に学園に来た直接の後輩だからね。ご飯食べさせたり寝かしつけたり、たっくさんお世話してあげたんだから!」
「ルル! この人の前で余計なこと言わないでください!」
見る限り、タキツとルルは随分と気安い仲みたいだ。
しかし、アラウンド・オシェアン全制覇を狙っているルルが他の大会に出るつもりがないのはまだ分かるが、それなら自分のトレーニングをするべきなんじゃないだろうか。
タキツのトレーニングは週五以上の計画だから、付きっ切りになるならルルがトレーニングする時間がなくなってしまう。
「ルルさんは、ご自分のトレーニング大丈夫なんですか?」
当に一流の人魚にタキツの泳ぎを見てもらえるのは願ったり叶ったりではあるが、それで相手の負担をかけるのはアナタの本意ではない。
「ああ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。次も勝つから心配しないで」
アナタの懸念に対して、ルルはあっけからんと言ってのけた。そこには、勝って当然だというのを疑ってもいない自然な口振りだ。
一度優勝を手にした者は二度と出場出来ないとは言え、数々のレースで栄冠を戴いた人魚が集うアラウンド・オシェアンに挑むというのに、そんな強豪達もルルは相手にしていないのだ。
気負わずにいるからこそ、アナタはルルの態度が恐ろしく思えて、生唾を飲み込んだ。
「さて、そんなことより、半世紀がかりの怠け者がやる気出したんだもの、またさぼり癖出る前にちゃっちゃと始めますか」
「私は今すぐにでもだらけたいんですけどね」
「だーめー」
ルルに気圧されたアナタを他所に、ルルがタキツを急かして海中へと潜った。
二人を見送り、アナタは急いで事務所へ帰る。今日はルルが参加して初日なので、ずっとタキツのリンケージを繋げて様子を見守るつもりだ。
事務所で椅子に腰掛け、体を安定させてすぐ、アナタは意識をタキツの感覚に沈める。
耳と肌の感覚が海水の圧に押され、視界も水に埋もれて明度を落とす。
タキツの視線の先には、旗の端を飾る紐にも似た氷銀の鰭が海を蹴っている。
『ん? なに、見られて……ああ、それがさっきタキツが覗かれてるって言ってたマギアね』
なんとルルは、アナタが話しかける前にリンケージを繫いだことを察知してきた。
タキツはルルの声に反応して、視線を左右に振る。
周りを見て接続が分かることはないが、生き物として反射的な動きだろう。
『ナヴィゲーター、見てるんですか?』
『ああ、うん、見てる。でも、リンケージは装備した相手にしか影響しないはずなんだけど……』
それなのに、タキツよりも先に反応したルルが恐ろしい。
しかも、流れて置き去りにされている風景を見るに、かなりの速度で遊泳中なのにだ。
ルルにとってはトップスピードに程遠いのは理解出来るが、それでも速く移動している時には周囲を探り読み取る能力は低下するだろうに。
『本人に影響しなくても、マギアだから魔力が発生してるからね。ウィッカとか神秘に敏い人魚なら、なにかあると覚るだろうし、こうして聲も
ルルの指摘にアナタはすぐに頭を巡らせる。
相手によってはタキツに出した指示を聞き取って、その裏を掻いてくるかもしれない、ということか。
そんな離れ業が出来る人魚は限られているが、注意点の一つとしてアナタは頭の片隅にしっかりとメモを取った。
『さて、監督さんも揃ったし、そろそろ本腰入れようか、タキツ』
言うや否や、ルルの鰭が押し出した海水がタキツの肌にぶつかった。
『付いて来なさい』
ルルの聲は、その体と共にぐんぐんと遠ざかっていく。
タキツも懸命に前へ進むが、ルルが起こした波に鰭を取られて、思うような進路を取れないでいる。
『遅いよ』
前方彼方で視界から消えたルルが、背後からタキツを追い抜かした。
どうやら、ぐるりと前方から後方へと回ってきたらしい。
ルルの速度が生み出したウェイクに、タキツは揺られて短い悲鳴を上げる。
『ちゃんと波を読む! 煽られるんじゃなくて、先読みにして乗っかるんだよ! 九十年前にも教えたでしょう!』
ルルのスパルタな仕打ちに、タキツは聲も上げられずにいる。
それでもルルの背中を追いかける意志だけは絶やさず、右へ左へ、上に下にと翻弄されながらも鰭をばたつかせる。
『こら! タキツはイワシでしょう。イワシがどう泳ぐか知ってる? 感丘と側線で波を感じ取りなさい! イワシは少しの波も的確に察して泳ぐ向きを変えるのよ!』
ルルの指導にアナタは舌を巻く。
人魚の鰭はそれぞれ違う種族に近い。
タキツはイワシ。ルルは龍。それは魚類に限らず、鯨に近い人魚もいれば、動物ではなく海藻に近い人魚もいる。
そしてそれぞれに特性が違う。鯱と鮫では鰭の向きが違うし、しなやかさも違う。
さらに、人魚はその鰭に近い種族の特徴も合わせ持つ。
龍であるルルは、そもそも身体能力が人魚の中でも著しく高く、魔法も得意である。
鯨やイルカの人魚はエコーロケーションを巧みに扱う。
そしてイワシは、群れで遊泳するので仲間にぶつからないように、波の動きを素早く察知して群れ全体で遊泳方向を一致させる。
知識として当然アナタも知っていたが、それを人魚の泳ぎと繫げる発想が足りていなかった。
そしてルルは当たり前のように、自分とは違う、タキツの生来の素質に合わせた泳ぎを学ばせようとしている。
指導とはこうあるべきだと、タキツ以上にアナタが教わらなくてはならないという気持ちにさせられる。
何度目か、ルルがタキツを抜き去った。
またタキツの体が揺さぶられる。アナタはそう思って、思わず連動する感覚に身構える。
しかし、そんな必要はなかった。
タキツはするりと、滑らかに、ルルの起こした波に乗り上げて、その頂点で尾鰭を叩き、波を蹴る。
ぐん、とタキツの体が前に押しこまれた。
『今、体を強張らせましたね』
タキツの方にアナタの感覚は伝わってないはずだが、タキツは確信を持ってアナタを非難した。
実際、図星なのでアナタは肩身が狭くなる。
『ご、ごめん……』
『謝って済む話じゃありません。アナタはいつもいつも私を信じなくて……ばかにして』
ルルの尾鰭が視界の端に揺らいでいる。
その鰭の動き合わせてかき混ぜられる海の流れを、タキツはすいすいと拾っていった。
『ナンセンス! 』
タキツが、周囲の海水を置き去りにして、前に出た。
リズムよく、タキツの細い尾鰭が、ルルの置いていく波を叩き、前へ、前へと加速していく。
『私を信じないなら、アナタと一緒にいる人魚は誰だっていいじゃないですか!』
タキツがルルの背中に追いすがる。
気づけば、二人の位置を示す地図の光点は、ノーズ岬までの距離の半分を越えようとしていた。
『私に相応しい泳ぎ方を! 私のための道筋を! 示してくれると言ったのは嘘ですか!』
あの、人魚としての泳ぎ方を先月まで完全に忘れ去っていたタキツが。
全く本気ではないとは言え、人魚最速を欲しいままにして無敗を誇るルルの背中を追い抜かそうとして。
『いくらトレーニングでも、そう簡単にマーメイドウェイクィーンを抜かせるわけにはいかないなー。わたしに負けたみんなが泣いちゃうからね』
ルルが身を捩じって回した。
スクリューのように海流を巻き添えにして回転した。
タキツは巧みにその波を読み、掻い潜り、回転の中心へと誘われる。
そうしてタキツが時間をロスしている間に、突貫力を増したルルはまた距離を突き放していた。
『はーい、このまま日が暮れるまでにノーズ岬に着いて、夜の間に帰るよー。明日は半日休憩させてあげるからがんばろうねー』
子供を相手するようにタキツをあしらったルルは、アナタが提示したよりもハードで鬼畜なトレーニング進行を宣言して 、悠々と泳ぎ続けた。
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