テイル・フィン・カット

奈月遥

スタートライン

夢への来訪

 アナタは、サンダルを履いた足の踝までを海水に浸して、街を歩く。

 浮遊海上国家メガフロートの中でも、いや、この海珠の一割にしかならない陸地で栄えた古くからの国家を含めたとしても、このセイレネシアの繁栄は飛び抜けている。

 セイレネシアが発展した理由は、何はさておいて、その起源から人魚の協力を得ていたことだろう。

 オシェアン海珠の九割を占める海を二百ノット以上の速さで泳ぎ、魔法を行使して海流と天候を操り、不老不死でどんな怪我も病気も立ち所に治癒してしまう、そんな人間とは規格が丸っきり異なる上位種の協力を、三千年以上の昔から得ていたのだ。

 始めは貧弱な筏を繫ぎ合わせただけだったと伝わるこの浮遊する人工陸も、人魚の魔法と人類の知恵で天然の陸地と全く変わらない安定感を、アナタに与えてくれている。

 ただし、浮いている以上は些細な揺れもあるし、波震による被害も数年に一度は起こる。海は人類に対しては、いつまでも厳しい母であるらしい。

 それでも人類は繁栄を求め、実現し、アナタの視界には天に聳え立つビルが乱立している。

 それから腰の高さの塀が設置されている游道では、ちらほらと人魚や水着を来た人間が水の中を軽やかに通り過ぎていく。

 アナタも、歩くより泳いだ方が良かったかと後悔しながら、足で水を跳ねさせて進む。

 足に纏わりつく海水は重い。

 全身を浮かべる時はアナタを軽くしてくれるのに、踝までしかない時はウェイトトレーニングを強要してくる海水に、少しばかりの理不尽を感じた。

 それとも、海の方はこう言うのだろうか。

『海の上で、人魚でもない人間が暮らすことがそもそも理不尽だぞ』

 夏に向かう日射しを空からも水面からも受けて、アナタの頭も茹だっているらしい。首を振って下らない妄想を追い出し、脳の空気冷却を試みた。

 目的地までもう少しで到着するはずだ。

 アナタは左手に抱えた鞄を持ち直し、意識して力強く足を踏み出した。

 向かうのは、人魚に成り立ての彼女達が集められ、教育と訓練を受ける学園だ。

 現代において、人魚は人間社会に幾つかの役割を持って参加している。彼女達が規格の異なり明らかに弱い人間の社会活動に準じてくれている理由は、そう難しいものではないと、アナタは考えていた。

 元々、ニンゲンであった彼女達は、それまで生活していた習慣をそのまま続けているだけなのだろう。

 そう、今、アナタの真横を通り過ぎた、赤く、フリルのように水にたなびいた尾鰭で泳ぐあの彼女も、人間として生まれたはずだ。

 人魚は下半身が全て尾鰭となり、それは遊泳のための器官であって、内側には筋肉と骨格しか存在していないと判明している。その構造は下腹部から始まり、つまり、彼女達は人間やその他の脊椎動物が下腹部に持っている【孔】が一つも開いていない。排泄のための孔も、生殖のための孔も。

 人魚は生殖行為によって繁殖が出来ない生物である。

 人魚はどうやって個体数を増やすのか、そんな常識的な知識は、勿論アナタも持っている。

 人魚の胎には、一つの内臓が納まっている。それは解剖学で論ずれば、人間であった時の生殖器官、つまり子宮だとか卵巣だとかが全て一つの塊になったもので、見た目はつるりとした珠のようであるらしい。残念ながら、アナタは人魚達が肝とかエンブリオパールとか呼ぶその器官を実際に見たことはない。

 そしてその人魚の肝を食べた人間は、人魚になる。

 そうやって、人魚は人間の中から自分の子供を作り出すのだ。

 この人魚の繁殖は、人間と人魚の両方に適応される国際法で、また国際法を基にした各国全ての法律で、厳重に条件が定められている。

 だから、人魚は誕生の以前から、人間としての戸籍でしっかりと国家に把握されている。

 誕生した人魚は、各国家が承認した専門の学校へ入学し、人魚として必要な知識と技術を学んでいく。

 その学校で人魚は、レースについて学ぶ。現代において、人魚とは全てアスリートであった。

 水の中を速く泳ぎ、指定された物品を見つけ出して、それをゴールまで運ぶ。そういう構成の競泳種目に参加することが、人魚が人間社会へ関わる仕組みになっている。

 つまり、現在の人魚とは、競泳アスリートと同義のものとして、世界中の人間と人魚が認識している。

 アナタもまた、そのマーメイドレースに関わっている。いや、正確に言えば、これから関わろうとしている、と言った方が正しいか。

 アナタは、目的の校舎を目前にして、その校門を潜った。

 これまで、人間はマーメイドレースに、大会の開催や企画、レースに使われる道具の提供などで関わって来た。

 それから、レースの解説や実況を行う人間もいた。ただし、人魚による解説や実況に比べて人間は人数も少なく、内容も質が劣っていると言われている。

 考えてみれば、当たり前の話だ。そもそも、人間とは規格も身体構造も、魔法の素質も寿命も遥かに超越している人魚について、適切な分析が人間にとって容易な訳がない。

 ここまで思い返し、そして続く現実が脳裏に浮かぶのが、アナタの気を酷く重くした。

 そして、人魚の訓練や、他の競技でいうところのトレーナーだとかコーチだとかいう存在は、これまでに存在しなかった。

 人間の助言を、人魚は求めていなかった。人間は物だけ持ってきてくれれば、あとは人魚達自身が成長の糧にした。

 人魚は、人魚に助言を殆どしない。何故なら、不老不死である人魚に引退という概念はなく、潜在的に競争相手であるからだ。敵に塩を送る程度ならままあるが、時間をかけて後輩を育てるくらいなら、自分のトレーニングをする。

 だから、人魚はいつでも、独りで泳ぎ続けている。

 それでも、と、アナタは校庭を進む。

 校舎は屋上を見下ろすようにしか存在しなかった。ここは人魚の学校である。

 入り口は人間も利用できるようにメガフロートの上に開けているが、大部分は海下、つまりメガフロートの下の海に築かれている。

 人間が日常的に立ち入ることを全く考えていない構造だ。

 アナタが潜水しないで入れるのは、小屋のようにちんまりと立つ、人間の来客を迎えるためだけに設置された応接室だけだ。

 これだけの現実を改めて目の当たりにしても、アナタは夢を持ち直す。

 アナタは、人魚をより速く、より強く、より優れた選手に育て、レースに勝たせる存在になろうと決意して、ここを訪れた。

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