第4章 なかなか上手くはいかない
第12話 最も嫌いなやつに最も理解して貰える
皇甫嵩は若くして文武に名が高く陳蕃・竇武の招きを受けても受けなかった。竇武は桓帝の死に際し、外戚の立場を利用して宦官勢力と洛陽を血みどろの内戦に叩き込んだ人物である。宦官が後に悪者になったため陳蕃・竇武は宦官を殺そうと努力した聖人とされたが、その彼らに仕えなかった理由としては、皇甫嵩の性格からして明らかな政争に巻き込まれたくなかっただけだと思われる。
霊帝劉宏は皇甫嵩の噂を聞いて勅使を送って洛陽に連れてこさせ、議郎の官職を与え、後に北地太守に遷した。宦官に擁護された霊帝の主観において、陳蕃・竇武は霊帝を廃そうとした逆賊であり、彼らに距離を取った賢人ということで霊帝は皇甫嵩をぜひ味方につけたかったのだろう。
黄巾の乱があり、その対策について朝議が行われた。黄巾討伐の基本方針を立案したのが皇甫嵩である。皇甫嵩はまず党錮の禁を解除して宦官に追放された人材を呼び戻すことを提案した。宦官が政権を取って名士を弾圧して既に長い。宦官の反発があるかと思われたが、この時宦官は黄巾に内通するという大失態をやらかし、霊帝の信用を一時失っていた。天下の名士のやる気を引き出すためにも一時的に名士への譲歩が必要だった。
党錮の禁は解除され、人材が朝廷に戻ってきた。また同時に各地で暴利をむさぼっていた宦官の縁者が官職を解かれて、名士たちに職が与えられた。
同時に皇甫嵩は霊帝が私的にため込んでいた銭と馬を拠出して討伐軍を編成することを提案し、すべて認められた。
ここに皇甫嵩を左中郎将とし、朱儁を右中郎将として黄巾討伐軍四万が編成され、潁川の黄巾の討伐に派遣された。両将軍は苦戦しながらも潁川から汝南、南陽と転戦した。
同時に北中郎将の盧植にも一軍が与えられ、河北の張角の討伐に向かった。こちらは連戦連勝して、張角を冀州鉅鹿郡の広宗に追い詰めたが、そこで城攻めのための準備に手間取っている時に霊帝の怒りを買い、董卓に代えられた。
(おかしい、盧植のやり方が間違っていると思えん)
董卓は真っ当な軍人である。城攻めには十分な攻城兵器が必要であり、囲いを作って、
残念ながら董卓はこの時点で中央の情報を十分に入手できていなかった。想像力が足りなかったと言ってもいい。
黄巾討伐軍の費用は霊帝の私費から出ているのである。数万の将士への費えとして日々何億という銭が霊帝の庫から吸い出されていく。桓帝の贅沢により傾いていた国庫を立て直すために、必死に官位を売って銭をため込んだ霊帝にとって、毎日銭が際限なく出ていくこの内乱は一刻も早く無理攻めをしてでも終えるべきことであった。
董卓は知らないが、皇甫嵩は知っている。すべての作戦を作ったのは皇甫嵩だ。
結局、まじめに城攻めの準備をしていた董卓もクビになった。代わりに皇甫嵩がやってきて強攻して勝利を得た。一刻も早く反乱を終わらせるために黄巾の兵十万余人を殺して
同じころ、南陽の朱儁もクビにすると脅され強攻策に切り替えて勝利を得ている。
皇甫嵩は左車騎将軍冀州牧としてさらに八千戸の食邑を得た。
クビになった董卓としては手柄をすっかり奪われたようなものであり、皇甫嵩を恨んだ。
― ― ― ― ―
翌年の中平2年、皇甫嵩は涼州の反乱討伐に回され、董卓はその部下となった。この時は戦って勝つことができず、皇甫嵩がクビになって代わりに張温が送られたが張温も勝つことができなかった。
漢帝国の中枢部である中原で発生した黄巾の乱に対しては、霊帝は私財をつぎ込んででも早期の決着を望んだが、辺境の涼州は人口も少なく税収も少ない。朝廷では涼州の放棄論も出たぐらいであり、霊帝は私財の回復に専念し、予算は十分に与えられなかった。
(ざまをみろ)
皇甫嵩も張温も戦って利が無かったが、董卓はただ一人負けることなく撤退したため、負け戦の中で英雄として讃えられ出世することができた。
中平5年、涼州の反乱軍が長安近郊の陳倉に攻め寄せた。朝廷はまたもや皇甫嵩を主将とし、副将に董卓を起用し、これにあたらせたが、董卓と皇甫嵩はここで作戦の不一致を見せる。
董卓は言う。
「速戦即決して陳倉で決戦すべきでしょう」
皇甫嵩は言う。
「陳倉は固い、守らせて疲れさせるべきだ」
意見は一致できなかったが、董卓は皇甫嵩に従った。結果、陳倉は落ちず、涼州の反乱軍は疲れて兵を退こうとした。
皇甫嵩はこれを追撃しようとする。
「孫子に
董卓は反論したが、皇甫嵩は聞かず。ついに董卓を置き捨てて単独で追撃し、大いに勝った。
董卓は面目が丸つぶれとなり、またもや皇甫嵩を恨んだ。
― ― ― ― ―
中平6年。董卓は并州牧を命じられて、軍を皇甫嵩に引き渡すように言われた。しかし董卓はこれに従わずに勝手に移動して河東郡に駐屯した。
董卓は前に洛陽の方針を把握できず失敗していたため、弟の董旻を何進大将軍に仕えさせて洛陽の情勢を探らせていた。それによると霊帝の健康は思わしくなく、崩御となれば何進大将軍は各地の兵を率いて宦官を皆殺しにするという。そのため、兵を手放すわけにはいかなかった。
董卓は一応、取り繕うために「辺境の反乱対策のために今しばらく猶予が欲しい」と上奏していた。
しかし、皇甫嵩が「董卓が勝手に兵を私物化しています」と事実を指摘したため、皇帝から怒りの書状が届いてしまった。何進がなだめてくれて大ごとにはならずにすんだ。
せっかく黙って挙兵の準備をしていたのに、事実を指摘されてしまい、董卓はまたもや皇甫嵩を恨んだ。
― ― ― ― ―
ということがあり、皇甫嵩は兵3万を率いて涼州の反乱軍を睨み続けていた。霊帝が死に、宦官が皆殺しに会い、董卓が政権を握って、反董卓連合軍が立っても、皇甫嵩は反乱軍対策で駐屯を続けている。
董卓は連戦連勝を続けていたが、兵が不足していた。そのため皇甫嵩の兵を奪おうと決心した。
「だまして呼び寄せて斬れ、そして兵を奪え」
董卓は洛陽から長安の王允に命じ、朝廷は皇甫嵩を呼び寄せた。
狙い通り、皇甫嵩はだまって朝廷に赴き、王允は皇甫嵩を牢獄に放り込んで、皇甫嵩の兵を回収した。
いよいよ皇甫嵩が反逆の罪を着せられ斬られようというときに、皇甫嵩の子の皇甫堅寿が董卓の陣に駆け込んできた。董卓は皇甫嵩が嫌いだったが、皇甫堅寿は人当たりが良く董卓も嫌ってはいなかった。
「董太師! 父(皇甫嵩)が冤罪にて殺されようとしております!」
皇甫堅寿が言うには、皇甫嵩は何度も董卓を殺すように勧められていたという。
董卓が并州牧を命じられて兵を解散しなかったときも部下から董卓を討伐するように勧められたが、皇甫嵩は「朝廷の命令もないのに勝手なことはいかん」と言ってこれを拒否。
また反董卓連合軍が立ってからもそれに参加して董卓を西から攻めろと何度も誘いや提案があったが、皇甫嵩はこれを悉く退けたという。
「父(皇甫嵩)は、我が仕事は朝廷に仕えることであり、反乱軍に与することではないと常々申しておりました。なぜ朝廷を率いる董太師に反逆を考えましょうや!」
皇甫堅寿が泣きながら言う。その父がなぜ反乱の罪で斬られなければいけないのか。
董卓はそれを聞いて、初めて喜んだ。
「いや!? 堅寿の言うとおりだ。あいつらが反乱軍で、わしは朝廷軍だよな?!」
「もちろんでございます!」
「なぜそのような簡単な明白なことが、誰にも分らんのだ!!! わしは義真(皇甫嵩)を誤解しておった!」
董卓は初めて理解者を得て、皇甫嵩への恨みをすっかり忘れることができた。そう、董卓は朝廷軍で、袁紹が反乱軍なのである。
董卓はさっそく王允に命じて皇甫嵩を釈放させた。兵はありがたく董卓軍に組み込み、長安に置いた。涼州の反乱軍の馬騰韓遂とは話がつきつつあるので、兵3万を関東にまわせば袁紹などすぐに討伐できよう。
ようやく勝ち筋が見えてきた。董卓はすがすがしい気分で焼け落ちた洛陽の晴れ渡った空を見つめていた。
そのころ、孫堅が洛陽の南、梁県の陽人で軍を建て直していた。孫堅はしぶとい。
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