霧の中の鏡
晴れ時々雨
第1話
いつからか、アブノーマルな夢に取り憑かれていた。
痣の浮きでた体を犯される女の像。淫靡に開かれた唇から糸を吐きながら、その糸で男を縊り殺そうとしている。
彼は浮気している。けれど私とは別れる気はないらしい。そんな真実を知っても腹が立ったりしなかった。何故なら、その浮気相手というのが私だからだ。
ある日電車に揺られていたところでふと我に返った。午前10時。とっくに出勤して業務に就いている時刻だった。
車窓を流れる景色に見覚えがない。車内アナウンスが、通勤電車とは違う路線を通過する駅名を告げる。
どうなっているんだろう。何が起きているかさっぱり見当もつかなかったが、そのときの私には焦燥感というものがまるで感じられなかった。
よくわからないけど、次の駅で何となく降りる。私はどこか具合が悪いのだろうか。しかしなんともない。見知ってはいても降りたことのない駅を後にどこかへ歩き出す。電車で居眠りでもして、これは夢の続きなんだろうか。だから勝手に目的地へ向かう足が止まらない。次に起きることがあらかじめ決まっていたように、私はバッグから鍵を取り出し、ある部屋のドアを開けた。
カーテンのない明るい部屋の真ん中にぽつんと置かれたベッドの上で、彼が寝そべっていた。
私の恋人。もう2年付き合って、結婚という文字が具体的な色を帯びだしたひと。
彼は私を見るなり泣きそうな顔をした。
「来ないと思った」
いつもならこんな予定外のことはしないし、時間に遅れるなら必ず説明するはずなのに、このときはそういうのが要らないと思った。
ベッドから降りて私を抱きしめにきた彼を受け止める。私の腰に回した腕に力を込め、激しく唇を求めてくる。彼らしくない。私が逃げ出すと思っているようだ。
どうしたんだろう。ふと見ると壁面の大きな鏡に、彼と抱き合う見知らぬ女が映っていた。
夢の女だ。
彼が首すじに歯を立てる。痛みに顔を歪ませると、鏡の中の女も眉間に皺を寄せた。
あれは私だ。
「君なんだね」
吐息混じりに呻く彼の言葉を聞きながら、私はもう何度も見知らぬ女になって、こうして彼と交わったのだと理解した。
§
彼女は不思議な人だった。
珍しく定時かっきりに仕事を終えたので、驚かしがてら恋人を迎えに行く連絡をしようと取り出したスマホを滑り落とすと、その先に女が立っていた。
女はひどく緩慢な動作でそれを拾い上げ、こちらに顔を向けた。感謝の意を伝えようと近づき、その視線を捉えようと覗いた瞳は薄く濁っていた。
霧がかかった湖面のような双眸。双子の湖。辺りの喧騒が掻き消え、僕は急に森の中に取り残された気分になった。意識し始めると、森のより深くに迷い込んでしまいそうで不安になる。遭難した時はその場から動かないのが得策というくだらない知識が脳裏にちらつく。
ただ迷っただけ。これは遭難なんかじゃない。
だから僕は女に握られた手についていってしまった。でもそれは手ではなかった。手に似せた糸だったかもしれない。
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