オレンジと海

 青い水平線に鋼鉄の蚊が隊列を成して飛んでいる。蚊の腹部からは無数の針金が垂れ下がっている。蚊は鮮血を求めて海を飛んでいるのだ。蚊の薄い翼が向かい風にバタバタと音を立てて揉まれる。死んだ山猫が大気に腸を晒して水面に揺れている。ドオン、ドオン、と水柱が立つ。僕は塩からい野原に寝そべってオレンジの皮の匂いを嗅いでいる。野原には白い花が点々と咲いている。

 対岸にはエトナの火山。噴煙が墓標のように青空を汚している。菩提樹の陰にはクリシュナが立ち、アルジュナに生と死を説いている。生は死のためにあり、死は生のためにある。よって両者は同一である。アルジュナ、クリシュナ、両者とも従順な陸軍士官学校の生徒だ。カーキ色の帆を立てたボート。誰かがリコーダーを吹いている。誰かが僕に「約束」の履行を求める。誰か? どこにその誰かがいるというのだろう。

 かといって記憶を消すわけにもいかない。記憶を消したら、記憶から解放される「僕」もまたいなくなってしまうからだ。僕はずっと「約束」を背負わなければならないのだろう。とはいえ今すぐ履行しなくてもいい。今はただ海を眺めていよう。オレンジの皮の匂いの香る、青く広く深い海を。

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