詩Ⅱ

黒井瓶

死にたる者に死にたる者を

 亡霊の代理人は新たな亡霊を生む。アルゼンチンからイスラエルへ向かう飛行機に乗り、償えぬ罪の償いにひとり額を掻く。無視された過去が津波のように――左様、まったく津波のように――現在を洗うとして、僕たちは本当に過去を直視できるのだろうか。

 かくして罪人は弁護人を雇った。「トラウマは過去からではなく未来から到来する」。ゴーストバスターズ。亡霊の代理人を「弱者」と呼称し排撃する。しかし、被害者が弱者でなかったためしがあっただろうか。過去の代理人と未来の弁護人の闘争。ただし弁護人の側に未来があるとは限らない。

 おそらく僕は断言してはいけなかったのだろう――我ながら大したものだ、この言葉じたいが断言を控えている――断言によって「その他」が生まれることを避けるためには。そのような優柔不断をペニスの森林が列をなして嘲笑する。なにがいけないというのだろう。僕はハードル走から逃げたのだ。くしゃくしゃの体操服を僕に押し付けないでくれ。

 旧日本兵もまた僕に問いかける。

 お前はサイカクの子ではないのか。

 いいえ、違います。

 お前はバショウの子ではないのか。

 いいえ、違います。

 お前はチカマツの子ではないのか。

 いいえ、違います。

 そうか。そう呟くと、旧日本兵は満州の荒野に煙のごとく溶け消えていった。このような時ですら僕は「ペテロの否認」の逸話を想起してしまうのである。おそらく僕は幼少期にヤンキーから――否、そのようなことは起きていない。かくして僕はゴーストバスターズから身を守った。

 早く起きてください。メイドが主人にそう声をかける。あらゆる可能世界の中で最善のメイド。(サイカクの子、バショウの子、チカマツの子?)早く起きてください。世界中のありとあらゆる通りの真ん中で、新興宗教の信徒が周囲にそう声をかける。早く起きてください。あなた方が現実だと思っているものは本当は夢なのです。早く起きてください。主人は窓の外に目を向ける。メイドよ、あの連中は何を言っているのだ? ご主人様、気にしないでください。カーテンを閉めるメイド。ご主人様、早く寝てください。眠る主人。早く起きてください、と新興宗教の信徒は叫び続ける。

 さて、眠る主人を尻目に最善のメイドは階下へと降りていく。手には麻酔銃。街路に立つ信徒たちに照準を合わせ、一人一人を撃ち抜いていく。倒れる信徒たち。すると最善のメイドは信徒たちの身体を担ぎ、暗い地下室へとしずかに降りていった。中でメイドは料理を作る。主人に食べさせるための料理を。

 そして今、最善のメイドは僕の隣に座っている。アルゼンチンからイスラエルへ向かう飛行機の中。メイドは十字を切り、神に祈りを捧げている。ここで十字を切るとは、やはり彼女もサイカクの子、バショウの子、チカマツの子ではなかったのだろう。

 しかし、なぜ君の主人はこの飛行機に乗っていないんだ? ご主人様は何も知らなかったんです。知る者より知らない者の方が罪は重いのでは? それは言わないでください、代理人に聞かれたら何が起こるか……今なおメイドは主人を庇っている。呆れるほど最善。

 窓から地表を見下ろす。地表にはペニスの森林が青々と繁茂している。ペニスは陽光を浴びて蒼穹へと頭を持ち上げている。それを亡霊の代理人たちが鎌で刈り取っている。しかし一部が間伐されることによってペニスの繁茂はさらに苛烈になっていく。隣の席ではメイドが子守歌を口ずさんでいる。主人が好きだった子守歌だ。それを唱えることによって、メイドはこれから起こる「殉教」に耐えようとしているのだ。もはや僕には誰のことも理解できなくなってしまった。僕は目を手で覆い、イスラエルへ着くまでの旅程を寝て過ごそうとした。しかし一向に眠りに就くことができない。ただ眼球の奥がきりきりと痛むばかりだ。おそらく僕はすでに夢の中にいるのだろう。眠る者に眠ることはできない。眠るためには起きなければならない。早く起きてください。早く起きてください。早く起きてください。

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