第6章 街は哭いて - 4
インマオはスオウとの取引を了承するや、すぐに市内の各所に点在している部下たちにウル捜索の旨を通達。取引があったことについては部下たちに伏せていたが、インマオの一声で大規模な捜索がすぐに始められた。
部下たちに情報収集を任せ、スオウたちは別の角度からウルの追跡に取り掛かる。スオウとネロ、そしてインマオと側近の二人の五人はマリーンから借り受けた仮宅へとやってきていた。
「もうだいぶ時間が経っている。本当にそんなことができるのか?」
「〈異貌〉が千差万別であるのと同じように、異見子もその因子によって様々な特性を獲得するわ。それに〈異貌〉のそれと違って、異見子はその特性を意志と鍛錬で磨くことができるの。コブが嗅覚を通して視る世界は、あたしやあんたの常識じゃ測れない」
インマオたちの視線の先、ネロとウルが寝ていたベッドの上には全身を外套ですっぽりと覆った小柄な仮面の男――コブが立っている。
「コブ、時間もないわ。早く初めて」
インマオの指示にコブが頷き、外套のフードと仮面を取り去る。露わになったのは怪奇じみた異見子の顔貌だった。
顔の下半分は皮膚がなく、肉食動物の牙のような歯が露出している。顎は二つに裂け、それぞれにミミズのような繊毛が生えて蠢いている。鼻は顔の中央で埋没し、ぬらぬらと光る鼻孔が四つ並んでいた。極めつけは両目がないことだろう。煙草に火を点け、車を運転していたコブはまさに嗅覚によって世界を視ていたのだ。
スオウも賞金稼ぎという職業柄、これまでに多くの異見子を見る機会があった。だがその誰よりも、コブの容姿は極めて強く〈異貌〉の要素が反映されている。その生きづらさや壮絶な生い立ちは改めて想像するまでもなかった。
コブは上体を前に倒し、ベッドに残るウルの臭いを探り当てていく。傍からみれば完全なる変態行為だが今はそんなことを気にしているだけの猶予はない。この場ではスオウたちに出来ることはなく、ただコブの健闘を静かに見守った。
やがてコブがベッドから音もなく降りて玄関へと歩いていく。
「臭いを覚えた。これから辿っていく」
呆気に取られるスオウの隣りで、ネロが一生懸命に拍手をしていた。スオウはそんなネロへと視線を落とす。ネロの表情には、まさにこれから狩りにでも出かけると言わんばかりの力が込められている。面倒くさい予感がした。
「……まさかとは思うが、一応言っておく。てめえは留守番だからな?」
「いや!」
ネロは即答で首を横に振った。スオウの鋭い視線から逃れるようにインマオの影へと身を隠す。
スオウとてネロの気持ちが分からないわけではない。ウルの失踪に、小さくない責任を感じているのだろう。だがウルのみならずネロまでもを危険に晒すことはできない。
「てめえな……こっからは何が起きるか分かんねえんだぞ。ウルは俺が必ず連れて帰る。だからてめえはここで待ってろ」
「やだ!」
食い気味の拒絶である。スオウは威圧的に舌打ちをしてネロに詰め寄る。だが盾にされていたインマオがスオウの前に立ち塞がった。
「退け」
「連れて行ってやればいいじゃない。気持ちは分かるんでしょ」
「そういう問題じゃない。ガキが首を突っ込んでいいようなことじゃねえだろうが」
スオウはインマオの肩に手を伸ばす。押し退けようとするが、逆に手首をインマオに掴まれた。表情は穏やかだが手に込められる力は強い。
「昔ね、まだ街でコソ泥みたいな悪さをやってた頃だ。コブが異見子の斡旋業者に捕まったことがあったわ。あたしたちは仲間を集めてそいつらを襲撃した」
「お前らとこいつは違う」
「違わない。理屈じゃないのよ、こういうのは」
スオウはインマオの肩から手を離し、彼女の手を振り払う。しかしインマオの隻眼は真っ直ぐにスオウを捉えたままだ。
「どんな正論もすっ飛ばして、やらなきゃならないことってあるのよ。もしそれが命懸けでも、気付いてしまったら止まっちゃ駄目。止まらせても駄目。あんただって分かるはず」
世の中のたいていは不条理で、一個人なんてものはあまりに無力だ。幅を利かせているのはいつだって悪意だし、真っ当な生き方は常に憂き目に遭う。
だからこそ、敗北や挫折にはせめてもの納得が必要だ。人は不条理にそうやって折り合いをつけていく。それすら叶わなかったとき、後に残るものの悲惨さは身をもってスオウが知っている。
「……お前に説教されるとはな」
スオウは自嘲気味にインマオに吐き捨て、それからしゃがみ込んでネロとの視線を合わせた。
「お前も来い。だが万が一戦いになれば、お前はただの足手まといだ。そのときは大人しく帰ってもらう。それでいいな?」
「……わかった」
スオウは頷くネロの頭を乱暴に撫でて立ち上がる。ネロの緑色の目には強い覚悟が宿っていた。
「子供って守られるだけの存在じゃないわよ。特に女の子はね。あんたが考えているよりもずっと、あっという間に大人になってくの」
「ガキがガキらしくいられねえ世の中が間違ってんだ」
路地裏からマフィアの幹部までを駆け上がってきた女豹の言葉に、スオウはなけなしの恨み言を吐き捨てる。
◇◇◇
イヴェーナ区の住宅地を抜け、街区まるごとが文化遺産に指定されるという噂のイヴェーナ旧市街の入り組んだ路地を進んでいく。ちなみにネロは旧市街の勾配の多さに早々に根を上げ、シュンボの腕に抱きかかえられている。
辿っていく経路があちこちに散らばり右往左往しているのは、ウルにイヴェーナ区の土地勘がないからだろう。ここまでくればコブの嗅覚の凄まじさを疑う余地はもうなかった。
スオウたちが旧市街に入ってから、幾度か暴徒らしい市民に出くわした。近づく者はインマオが迎え出て牽制し、周囲の建物の窓から投げつけられるゴミや石はスオウが〈アウストラリス〉の形状変化で払いのけた。多少凄めば彼らはすぐに退散していった。
そんな彼らの情けない背中を睨みつけながら、スオウは思った。
実際のところ、暴徒と化している市民のなかに異見子や〈異貌〉を本当に憎んでいる人間はどれほどいるのだろう。おそらく彼らを駆り立てるのは憎悪や恐怖ではなく、市民の間に広がった空気――異見子を排除しようというムードだった。あるいは日頃の生活で溜まった不満や鬱憤を、暴力的な方法で発散することを求めているだけなのかもしれない。
どちらにしてもろくでもないことに変わりはないが、どちらにしても虚しい切実さを孕んでいるような気がした。
そんなことを考えながら旧市街の隘路の勾配を上り、スオウたちはテクン広場へと辿り着く。
平時ならば
地面に鼻先を擦りつけるような姿勢で歩いているコブに、路傍で頬杖をつきながら煙草を吹かしていた似顔絵描きの男がギョッとする。スオウたちは似顔絵描きのリアクションを意識の外へ締め出して、人のいないテクン広場を歩く。だが広場の真ん中に差し掛かったところで、先頭を歩くコブの足が止まった。
「……ここで消えている」
「消えているってどういうことだ」
スオウはコブに詰め寄る。コブは小さな身体を余計に縮こまらせる。
「消えているものは消えているんだ。臭いが錯綜している。だけど血の臭いはしない。たぶんここで何者かに連れ去られたんだ」
コブが淡々と告げた。スオウは全身が怒りと焦りに震えるのを堪えながら、静かに二回深呼吸をする。
あくまで予想の範囲内。問題は連れ去った奴らの素性だが、手荒な誘拐ではないところを見るに最悪の事態は免れている可能性が高いだろう。
しかし街のどこかで無事に隠れ潜んでいる可能性が消えた今、事態に一刻の猶予もなくなったこともまた事実だった。
「臭いが途切れているってことは車か何かね」
「マオは知っているが、俺は無機物の臭いまでは追えない。役に立てるのはここまでのようだ」
インマオが溜息を吐き、コブは小さく肩を落とす。表情の変わらないシュンボの腕のなかでネロが不安げな眼差しをスオウの背に向けた。
「すおー……」
「今考えている」
手掛かりは途絶えた。ここまで順調に運び過ぎていたからこそ、躓きのダメージは大きい。
「こうなったら地道に目撃情報を集めるしかないわね」
「時間がかかり過ぎる」
「ならどうするつもりよ?」
「それを今考えている」
「お兄さん……」
「だから今考えて――――」
スオウは声の方向へと振り返り、言葉を呑んだ。たった今スオウに掛けられた声はネロのものでも、もちろんインマオたちのものでもなかったからだ。
「お前は……」
視線の先には見覚えのある異見子の顔があった。
その痩せ細った異見子は獣毛に覆われた頬を歪め、裂けた口を綻ばせる。
おそらくたまたまスオウたちを街で見かけ、もう一度金をせびるために後をつけてきたのだろう。この前、鉄屑と引き換えにけっこうな額を渡したような気もするが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「どうしてここにいる? 大人しく隠れてろと言っただろ。悪いが今お前に構ってやれる暇はない」
スオウは手を払い、立ち去るように促す。だが盲目の異見子は引き返す代わりに一歩前に出て口を開いた。
「違うんです。その、ぼく、たぶん臭い分かります……」
「何だと?」
「ぼく、その、目が見えないので、そのぶん、鼻が利くんです……。無機物の臭いも、辿ったことあります……。どうか、あのときのお返しを、させてください……」
盲目の異見子はそう言って、ぺこりと頭を下げる。スオウはばつ悪そうに髪を掻いた。
あんな行為は見返りを求めていいようなものではない。現実を無視しようとしたその場しのぎの偽善でしかなく、それは同時にスオウの無力と浅慮の証明でもある。
「事情は知らないけど、頼らない手はないと思うけど?」
返答に詰まるスオウを見かねたインマオが口を開く。
スオウも分かっている。インマオに言われるまでもなかった。今のスオウたちに手段を選んでいる余裕はない。可能性があるならば、たとえそれが何であれ縋り、最短距離でウルを助けに行かなければならないのだ。
「頼めるか、その」
「トンネです……」
「ああ。頼む、トンネ」
今度はスオウが頭を下げた。盲目の異見子、トンネは頬を綻ばせて深く頷いた。
◇◇◇
果たして、トンネの先導で辿り着いたのはプルウィア市の北西の工業地帯。
既に日は沈んでいた。視界の隅で高くそびえている煙突は夜よりも色濃い煙を吐き出し、遥か彼方に佇む
不吉な夜だった。
占星術やカルトなどを信じる気持ちは微塵もない。だがスオウたちを見下ろす彩月(ルナ)と肌にまとわりつくようなぬるい風が、否応なしに悪寒を助長する。何より異様な静けさが、スオウたちの警戒心を強くしていた。
このあたりは倉庫区画も兼ねているようだったが、
スオウはそのコンテナの影から目的の建物を伺う。
建物は六階建て程度で縦に長く伸びている。夜闇が深いこともあって全貌を目視することはできない。窓からこぼれる光なども皆無だが、三本並んでいる煙突からは煙が立ち昇っているので稼働はしているらしい。風が吹きつけるばかりで見えるところに見張りなどの姿はなかったが、隣接する駐車場のような区画には数台、地味な色の車が止まっていることからも、中に誰かがいることは推測できた。
しかし肝心の相手の目的――異見子の拉致と工場にどんな関連性があるのはまるで不明だった。
この工場は半年前までプラッタ・カンパニーという八州連合系企業の所有物だったが、同社のスタフティア撤退で競売に出されていた。既に過去形なのは競売の申請が取り下げられたためであるが、その理由がなんとも不明瞭できな臭い。
「アララギ、気付いている?」
インマオがぽつりと溢した言葉にスオウは頷く。
「血の臭いがするな。潮風に紛れてやがるが、これは相当な量の人間がやられてる」
「マオ、異見子の臭いも強い。かなり混ざっているが、ウル嬢もたぶん」
「どうするつもり?」
「正直なところ、こっからはアドリブだ。相手も分からないままの特攻になる。その場その場で臨機応変に動いていくしかない。だが目的ははっきりしている」
「ウル嬢の救出ね」
スオウはインマオと視線を交わし、それからコブたちに目線を移す。
「ネロとトンネはここまでだ」
「そうね。シュンボはここに残って彼女たちの護衛。一〇分経ってもあたしたちから連絡がなかったらすぐに事務所に引き返すこと。コブはついてきて、ウル嬢の臭いを追跡して」
「あ、あの……」
コブとシュンボがそれぞれ了解を示すなか、トンネが恐る恐る右手を上げた。盲目でもスオウたちの視線が集まるのを感じ取ったのだろう。やはり恐る恐る口を開く。
「……えっと、臭いが一つ足らないんですけど……あの、女の子の臭い……」
スオウたちは揃って足元を見回した。だがトルネの言う通り、ネロの姿がない。
「アララギ!」
殺した声でインマオが叫び、建物を指し示す。スオウが即座に反応するや、背伸びをしてドアノブを開けたネロが建物のなかへと入っていく瞬間が見えた。
「なっ、……あのクソガキが……っ!」
「コブ! すぐに追うよ」
「了解だ、マオ」
スオウを先頭にインマオとコブもすぐに低く駆け出す。
夜の闇を切り裂くように赤い警報の灯が瞬き、女の悲鳴のような警告音が鳴り響く。
スオウの左腕が、かつて最愛の女を守れなかったことを思い出して慄くように大きく、そして激しく波打った。
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