幕間

「もうっ!朝からメイさんとカイさんが不穏なのよっ!ハープちゃんはどこだー、ハープちゃんを出せーって!」


 朝の9時に出勤して早々、介護主任のリリさんからそんなことを言われた。


 急いでユニフォームに着替えて、二人のいるユニットへと駆けつけたが、食堂には朝の情報番組を流すテレビが映っているだけで、誰もいなかった。


「ああ、先輩っ!ま、待ってましたよー……、いま二人ともベッドに横になってもらったとこですっ。す、すごかったんですからー……」


 すごかったらしい。

 額に汗を浮かべた夜勤明けのガクくんが、心底つかれたような顔でそんなことを私に告げた。


「ベッドで暴れるようなことはなかったんですけどね、ハープちゃんを出せぇって言って聞かなくて……」


「そ、そうなんだ……。ちょっと行ってみるね?」


「お、お願いします。俺はもう帰りたいっスよぉ……」


 目の下にクマをつくって、いまにも泣き出しそうだ。


「退勤して大丈夫だよ?主任にも言っておくから、あとは任せてちょうだい?」


 私の言葉にガクくんの表情が少し驚いたようになって、真面目な顔に変わる。


「あれ?……先輩、なんかありました?」


「へ?……な、なんで?」


 不意をつかれて、私は少し口が開いてしまった。昨日、抱きしめたミク先輩の柔らかな感覚が、まだ腕の中に残っている。それを見透かされたような気がした。


「い、いやー……、ちょ、ちょっと怒らないで聞いてほしいんですけど、ミム先輩ってこういう時、どうしよぉー、とか、一緒に対応してぇーとか、そういうこと言うタイプの人だと思ってて、ちょっと、意外だったっていうか……」


 ああ、やっぱりそう思われてたのか。

 納得だった。だってそういうタイプだったもん。自分に自信がなくて、一人ではなにもできなくて。責任とか、自分で決めたりとか、そういうのすごく苦手で。


 不思議と、怒ったりとか悲しくなったりとか、そういった感情は湧かなかった。


 次からは気をつけよう、それだけ。そう思っただけだった。

 ちょっと前に言われていたら、あとで隠れて泣いていたかもしれないけど。


「そ、そうかなぁ?あ、でもホントに大丈夫だから。……だから夜勤明けのガクくんは、もう退勤して大丈夫だからね?」


 本当に不思議だ。心が揺らがない。じゃお願いします、と言葉を残したガクくんの背中を見送る。

 廊下の曲がり角を彼が曲がって、姿が見えなくなった時だった。


「おかしいなぁ、メイさんや」


「そうだねぇ。おかしいねぇ、カイさんや」


 背中がビクっとなるぐらいにはビックリした。背後に車イスに乗ったおじいさんとおばあさん、メイコさんとカイトさんがテレビの前に並んで、こちらを見ている。


 いつの間にかテレビも消えていて、そのうしろの花柄のカーテンからは、暖かそうな日差しがちらちらと見え隠れしていた。


「メイさんっ!カイさんっ!い、いつからそこに……?あ、わ、私に用事があるって聞いたんですけど……」


 二人は皺だらけのお互いの顔を見合わせて、そして視線をこちらに戻した。


 ニカッと二人して笑って、カイさんが、


「どうして歌を教えてもらわなかったんだい?」


 と、私に聞いた。


「う、歌?……ああ、カラオケですか?じゃあ、今日も午後から……」


「違うよ。……緑の髪の女の子から、どうして『時の歌』を教わらなかったんだいって聞いたのさ」


 メイさんが口角をあげる。朝ごはんの後に入れ歯を外すから、普段より口が小さく、顎が膨らんで見える。


 不思議と、恐怖は感じなかった。それどころか、いや、不思議なことには変わりないのだけれど、私は全てを理解した。


「誰しもが、自分の過去の間違いや、あの時こうしていればよかった、っていう思いを抱えて、人生を送っているものだろう?……でも、ハープちゃんは、オレたちがそうしたように、人生をやり直す選択をしなかった。それが、オレたちにとっては、とっても不思議な、理解のできないことでなぁ……」


「自分の人生を思うがままにできたんだよ?アタシたちも、優しいハープちゃんには、もっとずっと良い人生を送ってほしいって思ってたんだ。いつまでも年寄りの身の回りの世話なんて、美人で歌が上手なハープちゃんには似合わないからね。でも、約束された成功を、ハープちゃんは拒否した。アタシたちがこうしてるってことは、ハープちゃんがここにいるってことは、そういうことなんだよ。……なんで、それをしなかったんだい?」


 二人は木漏れ日よりも温かく微笑んだまま、目をキラキラとさせながら、まるで示し合わせたかのようにそんなことを言った。

 その表情で気が付くことができた。きっと、二人とも、その理由を分かっている。きっと他の人よりも、どんなおじいちゃん、おばあちゃんよりも、何十倍も何百倍も、人生経験が豊富なのだろうから。


「わ、私は……、あの…………」


 でも言葉がうまく出てこない。自然と、視線が床に向かう。床掃除を逃れた食べこぼしの朝食が、無様にへたりこんでいる。

 この巡り合わせすら、時間の悪戯だとでもいうのだろうか。その不可思議さに、私はただただ、驚きを隠せなかった。

 言葉を発しても、きっとそれらは時間の渦に消えていってしまいそうな、そんな予感が全身を支配していた。


「急にすまないねえ。でも、この疑問が解決すれば、アタシたちはいつも通りに戻るだろうからさ。頑張って言葉にして、教えてくれないかい?」


 メイさんが悟りを開いたかのような温和な表情で、立ち尽くしている私を見上げている。


 いつの間にか窓が開いていたのか、ふわっと秋を告げる凪が、私たちを包んだ。


 私は振り切るように視線を上げた。


「私はきっと、何度繰り返したとしても、こんな人生を送ると思います。…………それは、私がそうしたいと思っているから。アイドルになって、歌手になって、女優になって、スターになって……、そんな人生もあったかもしれません。でも、きっとそっちのほうが、私には似合わないと思う。この人生に後悔がないって言ったら嘘になります。あの時こうしていればよかったって思ったことない、なんて、そんな人がこの世にいないことも分かってます。…………自分もその一人だから」


「だったらオレたちが歌を教えて…………」


 きっと親切心でカイさんがそう言ってくれてるのは分かる。でもね、カイさん。


「でもっ!…………でも、それが私なんです。後悔を抱えて、たまに他人を羨んで、ちょっと自分に自信がなくて……。それが私なんです。そういう私が、嫌いな時もある。でも、好きな時もある。いいえ、やっと好きになることができたの。……思い通りに過ごせる人生も楽しいかもしれない。でも…………、でも、ミク先輩は泣いてた。あんなにプライドの高い人が、後輩の私の目の前で、ライバルだったって、そう思ってたって言ってくれた私の前で、泣きじゃくってた。……私は、ミク先輩のようにはきっとなれない。なっちゃいけないんです。…………ままならない人生を、私はがむしゃらに生きていきたい。前を向いて生きていきたい。だから、私は、自分の人生を、1回きりの人生を、めいっぱい生きてやるって、そう思ったんです」


 口を開けた二人が、私の言葉に、満足そうに微笑んだ。それが、終わりを告げる合図だった。


「オレたちが何度も繰り返して、やっと気が付いたことを…………」


 笑ったまま、鋭く光った目を向けて、カイさんはそう呟いた。


「カイさん、ずいぶん嬉しそうな顔してるじゃないか。アタシはちょっと悔しいくらいだよ」


 メイさんはちょっと呆れたように笑ってカイさんと私を何度も見返していた。

 陽光に照らされた二人の笑顔が、こちらを見つめる。


「「じゃあ、これからもよろしくね」」


 声を合わせてそう言って、二人は陽炎のようにぼやけて消えてしまった。


「あっ!いたいたっ!ミムちゃん、入浴介助が始まるけど、あの二人は大丈夫!?」


 リリさんが足音を立てながら近寄ってくる。


 頬をガサガサする荒れた手の甲で拭って、窓から見える晴天の空に、私は背を向けて振り返った。

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