イカれてますよあの人は!

 ひゅん、と鞭の唸る音を聞きながら、僕はどうすることも出来なかった。

 前や横はロイロットさんの巨体がふさいでいる。背後は壁だ。もうダメだ! 

逃げ出そうにも逃げ出せず、僕はただぎゅっと目をつぶった。


 だけど何故か、いつまで経っても鞭は僕に当たらない。相変わらずビュンビュンと風を切る音は聞こえるし、「畜生! この野郎!」とロイロットさんも怒鳴り続けているのに。

 不思議に思って目を開けると、人形のマリーがロイロットさんのコートの裾にしがみつき、更に鞭の先に喰いついて動きを止めていた。いつの間にかロビンさんも僕のそばにいて、楽しそうに笑っていた。


「僕の人形がお邪魔してしまったようで、すみません」とロビンさんは言った。

「しかしお話するにしたって、ここじゃなんでしょう。上がって行きませんか?」

「誰が上がるか!」とロイロットさんは言った。


 でも、不気味な人形とにこやかなロビンさんの登場に気を削がれたのか、口調ほど怒っている様子はない。鞭は既に下ろしていた。


「そうですか。それは残念です……出て行かれるときには扉を閉めてもらえますか。この頃の風は冷たくて、やりきれませんので」

「言うことを言ったら出て行くわい!」


 ロイロットさんは向き直ると、僕の心臓の辺りにまた鞭を突きつけながら、低い声で言った。


「忠告しておくぞ、ホームズ。わしのやることに首をつっこむな。わしに関わると後悔することになるぞ!」

「おや、後悔する? それは一体どういうことです?」


 不意にホームズさんの声が聞こえた。戻って来てくれたのかと少しだけホッとして、ロイロットさんから視線を逸らして見てみると、ホームズさんはやはりにこやかな顔をしてロビンさんの隣に立っていた。ただ何故か、暖炉に薪をくべるために使う火ばさみを持っていた。


「分からんか!」ロイロットさんは再び激高し、鞭を振り回した。

「貴様らは皆、痛い目に遭うということだ!!」


 やめてよ、危ないよっ……僕は慌てて背後の壁に張り付いた。しかしどうしたことか、ロイロットさんは突然動きを止めたのだ。その目は驚きで飛び出さんばかりに見開かれている。

 一体どうしたの? 恐る恐るその視線を辿って行くと、見えた。ホームズさんが鉄の火ばさみの持ち手とはさみの部分を両手で掴んで、真ん中からぐにゃりと曲げてしまったという、信じられない光景が。


「こういう風にですか?」


 ホームズさんはニッコリ笑い、それをロイロットさんの足元へ投げ捨てた。カラカラカラーン……。金属的な音が響く中、僕は腰を抜かして「ひぇぇぇ……」と変な声を上げてしまったし、ロイロットさんは何かしらもごもご言うと、後ずさるようにして玄関を出て行った。


 ああ、良かった。やっと解放された。僕は胸を撫で下ろした。

 けれど、ロイロットさんはまだ帰らない。よろよろ歩いて庭の入り口付近で立ち止まると、「お、おい!」とさっきの僕みたいにどもりながら、「これを見ろ!」とわめいている。

 何だ何だ、と僕が首を伸ばすと、ロイロットさんは真鍮の門扉の一部をつかんで、日に焼けた太い手でぐにゃりと曲げてしまった。


「わ、わしにもそれくらいの力はある!!」


 ロイロットさんは言い捨てると、庭先に停めた黒のセダンに乗って、通りの向こうへ走り去った。



「面白い人だね」とロビンさんは笑いながら言った。

「イカれてますよあの人は!!」僕はくの字に曲がった鉄ばさみを拾いながら、ほとんど叫ぶようにして言った。

「うん、相当頭に血が上っているようだったね。だけど、シャーロックが彼に何かしたってわけではなさそうだ。君と彼の区別も付かないんだからね。何か後ろ暗いことがあるんじゃないかな」


 シャーロック、と聞いた途端に、僕はホームズさんにも猛烈に腹が立ってきた。

 大体、ロイロットさんの応対はあの人がすべきだったのだ。指名されていたんだから! 

 なのに、僕が上手く喋れないのを良い事に、嘘を言って全部押し付けて……どうしてあんな振る舞いをすることが出来るのだろう! 僕は危うく怪我をするところだった!


 しかし、それを言おうと思ったら、すでにホームズさんは玄関にいなかった。

 ずるい。酷い。ほんとにもう、何なんだよ!!


 腰が抜けてるし足も震えてるしでなかなか立てない僕は、玄関の隅に座り込み、「どれ、ひとつアレを直してこよう」と外に出て行ったロビンさんを見送った。


「彼が長居をしていればね。僕の腕力もそう劣らないことを見せてやったのに」


 ロビンさんもロビンさんで、門扉の曲がった部分を掴むとそう力んだ風もなく一瞬で真っ直ぐに戻してしまう。皆凄いと言うか何と言うか、まあ……。僕がひ弱過ぎるのかな……。

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