悪魔の化身
馬鹿にしやがって……!
ジョルジアーノは舌打ちをし、咥えていた煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。
だがその時だった。一体、いつの間に現れたのだろう? ジョルジアーノは、フロアの中心に見知らぬ二人の人間が立っているのに気づいた。
一人は黒のベレー帽を被り、スーツに身を包んだ若い女。
肩の上で真っ直ぐに切り揃えられた灰色の髪と、その緋色の瞳が美しく、こんな時だというのに目を引いた。
もう一人は黒の長髪を頭の後ろで束ね、藍色のコートに身を包んだ、頬に傷のある長身のつり目の男。
男の方はギラリと強い光を放つ大振りのナイフを、女の方は太く蛇のようにうねる鞭を手に携え、テーブルを囲んだ部下達の背後に影のように張り付いている。
ジョルジアーノが「おい! 何だ、お前らは?!」と声を上げた時には既に遅かった。
男は静かにナイフの刃を横にする。そしてまるで水面を撫でるかのような緩やかな仕草で、カードに没頭している部下達の首を次々に薙ぎ払って行く。
プシューーーーッ……と血が噴き出した。目を見開いたまま笑ったままの部下達の首は、ずるりと胴体から落ちて床をゴロゴロと転がり、黄ばんだ白のカーペットを血で赤く染めて行った。
そのテーブルの反対側では、女が猫のように機敏な動きでピシリピシリと鞭をふるっている。
鞭はまるでスタンガンのように相手へ電撃を与えた。その威力は凄まじく、「ピシッ」と部下達の体に触れる度小さな爆発音を発した。赤い火花がパッと散る。
部下達は呻きながら全身をガクガクと痙攣させ、やがてガクリと首を落としてこと切れる。全ては一瞬の出来事だった。
「あーあ」ベレー帽の女は笑い、血濡れの手で髪をかきあげた。
「ほんと馬鹿って哀れだわ」
「お、お前らは何だ?! 何をしに来た?!」
慌てて銃を構えたジョルジアーノの首に、不意にチクリと痛みが走った。
気づくとジョルジアーノは、気配もなく背後に立っていた男から、首に血塗れのナイフを突きつけられていた。
「呆れた。そんな事も分からないの? アタシ達は“
「なに……?!」
コツ、コツとヒールの音を立て、女はゆっくりとナイフを前に固まっているジョルジアーノの前にやって来た。
「アンタって馬鹿よね。
女は軽薄な口を叩きながら人差し指を向けた。
「残念ながら、クズは百人集まってもクズなのよ」
「だ、黙れ……!」
「いーえ、黙りませんー。だってほら、見てごらんなさいよ」女は肩をすくめ、死体の山を見返った。
「ま、アンタの無知さには同情してあげるけどね。私達
例えばアタシなんかはね……【百五十人殺さないと出られない部屋】みたいなテストがあったんだけど、それを四日で出て来て、ようやく価値を認めてもらえたのよね」
「は……?」
「ふふ、ビックリした? でも驚くには早いわよ。アンタの後ろにいるアタシの彼はね……三日で百八十人殺してデビューした超凄腕だから」
ジョルジアーノは耳を疑った。
百五十、百八十の人間を、たったの三日、四日で殺しただと?
彼自身、何十年もの時をこの業界で生きてきた人間である。殺した人間も数知れない。しかしいつだって、相手がほんの数人だったり、隙があったりした時を狙った。十を超える人数の時は、部下達に援護させてやっつけた。
どんなに用心しても、用心し足りないことはない。当たり前だが、敵も「死にたくない」と必死だからだ。
襲撃はいつも、想定外に想定外の連続……。スマートに済んだことなど一度もない。それどころか、「一歩間違えれば死んでいたのは自分だった」と後で思ったこともある。
にも関わらず。この謎の男女は人間がまるでマッチ棒か何かであるように、たった一人で百人以上殺したと……そう言うのだ。
悪魔の化身なのか。
フッと、今までジョルジアーノの背後で暗黙に立っていた男が笑った。
「我らに逆らうなど、まさに愚の骨頂だ。……だが貴様はまだ、死にたくないだろう?」
その通りだった。ただその言葉だけは、
しかし男はジョルジアーノの心の内を見透かしたように鼻で笑い、「では、そろそろ本題に移るとしよう」と言った。
「ほ、本題だと……?」
「そうだ。貴様を殺すつもりなら、とっくにやっている。しかし、貴様にはまだチャンスがある」
「な……」
「ほら、新情報よ」
女は懐から取り出した黄表紙のファイルを、ジョルジアーノの机にポンと放り投げた。
「パンドラ探しは一旦保留。その代わり、そのファイルに載ってる女を攫って来て欲しいの。それも、出来るだけ早く」
ジョルジアーノはもう逆らう気も起きず、首にナイフを突き付けられたまま、ファイルに手を伸ばした。
ページを捲ると、夜会服姿の美女の写真が目に飛び込んで来る。枠の外には、角ばった文字で説明が付けられていた。
【アメリカ・ニュージャージー州出身のオペラ歌手 アイリーン・アドラー】と。
「……分かった」
「一応注意しておくけど、その女はかなりはしこいみたいよ。しょっちゅう寝ぐらを変えてるらしいから、いっそパーティーとか、女の行く先に押しかける方が良いかもね。ま、その方法は任せるわ……」
女はジョルジアーノへ背を向け、死体を蹴飛ばしながらゆっくりと歩き出した。
つい十分前の喧騒が嘘のようにフロアはシーンと静まり返り、ヒュウヒュウと風の音だけが響いている。さっき閉めたはずの窓は大きく開いていた。もやけた月の光に染まるその窓枠に、女は腰かけながら言う。
「上手く行けばそれなりにお金はあげるわよ。でも、もし失敗したらまた……覚えといて」
次の瞬間、女は背中から真っ逆さまに夜空へ落ちた。
ジョルジアーノは少なからず驚き、「おい!」と叫んで身じろぎしたが……気が付くともう、背後の男も姿を消していた。
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