慚愧の甘味料
虚ノ真
第1話 “永遠”に囚われた少年
少年は、“永遠”を信じていた。
しかし、それは一瞬光り輝いて消えてしまう流れ星のような儚い存在だと気付いた。
少年は、“永遠”を取り戻そうとした。
華やかに色づいた胸懐がしだいに空虚になりつつあるとわかった時にはすでに手遅れだった。
少年は、“永遠”を失うことを諦めたくなかった。
しかし、そこは“永遠”が存在しないメビウスリングの入り口。いくら探しても救いなどありはしない。
それでも少年は“永遠”求め続けた。
そして少年は、“永遠”に取り憑かれた。
「おい。おい、起きろよ」
快活な少年の声が脳に響きわたり、数瞬して身体を揺さぶられているのだと気づいた。
高部 ヤマトは眠気にまだ重たい瞼をゆっこりと開け頭を振る。少し目を瞑っていたつもりがどうやら寝てしまっていたらしい。
「おいっす、ヤマト!」
目の前には椅子へ逆向きに座り、まだ幼さが抜けきっていない短髪の少年がこちらをニヤニヤとした顔でこちらの様子を伺っていた。ヤマトは癖のあるのミディアムショートの髪をガシガシと髪を掻いていると朧気な視界が少しずつクリアになっていく。
「……おはよう、タクミ」
クラスメイトであり腐れ縁でもある藤村 タクミのニヤついた顔を見ながら大きくあくびをする。タクミは呆れた様子で首元のネクタイを鬱陶しそうにゆるめながら後ろを振り向く。
「おはよう、つってもなぁ、もういい時間だぜ。見ろよ」
とタクミは後ろに振り向き黒板の上の時計を親指で指す。時計の針は3時30分を指していた。
季節は秋場。窓際の席には暖かな陽射しが居眠りをするには十分な環境を整えていた。あらがうことなく意識が遠のき夢の世界へと旅立っていたようだ。
「ホームルーム中ずっと寝てたろ。中学の頃はもっと真面目だったのにおまえ、高校に入ってから居眠りの頻度増えただろ」
「別に、いいだろ。気にするな」
視線を合わせず机に肘を突き無愛想な声音で答える。
「それでも聞くべき話もあるだろ……」
「文化祭のことだろ」
目の前で手を組み大きく伸びをしながら告げる。
「へえ、なんだ先生の話ちゃんと聞いてたんだな」
「まあな」
顔を伏せていただけだからホームルームの時間に文化祭の話題が出ていたのは知っていた。今年はハロウィンを全面的に押していきたいとかどうのとか言っていた。途中で意識を失ってしまったのでその後の詳細は知らないが。
「でもさぁ……ほんと最近寝過ぎだぞ。5限目の古典の授業も寝てたろ。夜寝てないのかよ?」
「お前と違って寝付きがよくないんだよ」
「まあ、俺は学校で寝たことなんてほとんどないからな!」
チャラチャラとした見た目と言動とは裏腹に生活態度自体に問題は無かった。中学校では皆勤賞を貰ったのをよく周囲に自慢していた。
そして何かを思い出したかのように真面目な眼差しをヤマトに向けた。
「お前さぁ、寝れないのって……もしかしてまだ“あの時”のことを」
「……その話は止めてくれ」
冷ややかで押しこもった声でそれ以上の言葉を続けさせなかった。
囁かれた言葉。心臓を鷲掴みにされたような感覚。“あの時”の光景がフラッシュバックし、口の中に異物を感じるような吐き気をこらえる。
「……悪い、けどそろそろ忘れたらどうだ。引きずりすぎるのはよくないぞ」
「好きで引きずってる訳じゃない……忘れることができるなら忘れたいよ」
「ならカラオケにでも行ってパーッとするか?」
「カラオケはいい。そんなことに金を使いたくない。先に行っておくけどゲーセンもお断りだからな」
「相変わらず守銭奴だなぁ、お前は」
抜け殻の偏屈者は愛想のない表情を崩さない。
小さい頃から無駄なことにお金を使う性分ではなかった。おねだりもわがままもなかった子供時代を過ごし、出来のよい子として育てられていた。だが何かの拍子で今のようなひねくれ者に成長してしまった。
当然、タクミ以外はこんな性格の人間に話しかける者はいない。当の本人は気にもしていないことだが。
「じゃあもう帰るのか?」
「さてね、図書室で本でも借りるか、駅前の百貨店で服でも見に行くか、どうするかな……」
「つまり決まっていない。暇ってことだよな?」
「そうだけど……金は一銭も出さないからな」
「わかってるって!俺にいい考えがあるんだ」
タクミはこの席から廊下側の三つ先の机に座る少女に向かって手招きする。
すると少女が立ち上がりヤマトへと近寄ってくる。
「あの高部くん、少しいいですか?」
クラス委員長の花沢 ヒロミは澄んだ笛のような声音でヤマトへと呼びかけた。
腰まで伸びた烏の濡れ羽色の髪、学校指定のブレザーを校則通りに着こなす清楚で凜とした姿で、儚げな表情からミステリアスな雰囲気を感じさせた。
彼女はどこか硬質な空気を醸しだし、そんな視線で合わされると普段から女性と話し慣れていないヤマトの心臓は大きくどくりと脈打った。
「ぇ……、ああ」
動揺を悟られないよう振る舞いながら曖昧に返答した。
「ちょっと確認したいことがありまして。高部くんは文化祭で出し物だったり特別な用事で準備するようなこととかはありますか?」
「えっと……いや、これといって何もないかな。あるとするならクラスの手伝いくらいじゃないかな。……何をするのかは知らないけれど」
頤に指を当てそう、と一言息を漏らすように言ってからタクミとアイコンタクトし、互いに頷き何かを決心したかのように再度ヤマトに視線を向ける。
「……高部くんにお願いしたいことがあって、突然なんですが、その……文化祭実行委員になっていただけないでしょうか」
一瞬言葉の意味を理解できなかった。
目を何度か瞬かせ、そして徐々に嫌な予感めいたものが背筋をぞわりとさせた。
「あの、なんで僕なの……。他の人のほうがよっぽど適任だと思うけど……」
「他のみんなは何かしらの部活や委員に属してるんだよ。何もしてない“ニート”はお前だけだぞ」
タクミからの突然のニート宣言に胸がチクリと痛む。事実そうなのだが、その物言いに肩身が狭くなる。
「たしかに部活や委員会に所属していないからヤマトくんに声を掛けたというのもありますが、理由は他にもあります。今回はハロウィンということで各クラスの代表者がスイーツを作るコンテストがありまして、ご実家がスイーツ店の高部くんならお菓子の作り方も知っていると思ったので適任だと思ったんです」
「ちょっと待って!なんで僕の実家がスイーツ店だって知ってるの?」
驚きのあまり椅子から立ち上がりヒロミを凝視する。
「それはタクミくんが……」
ヒロミの視線の先にはタクミが誇らしげな表情でヤマトを見ていた。
「副委員長として当然のことをしたまでだ」
と言い放った。バスケ部と副委員長の仕事を掛け持ちしていたということを今になって思い出した。
「……おい」
「まあまあ、そう言わずに」
とヘラヘラとした口調で嘲る。タクミとの縁は長い。今に至るまで同じ学校に通ってきたからこんな悪ふざけは何度も経験してきた。
だからといって、いつも楽しんでいた訳ではない。
「ごめん花沢さん」
一言断りを入れ、飄々とした態度は崩さずこちらを見ている姿に腹が立ったヤマトはタクミを廊下に連れて行く。
「いや~ヒロミさんが困ってたもんだから副委員長としてアドバイスせねばと思ってね」
「だからって僕を巻き込むな」
元々人付き合いが得意でなかったヤマトは実家がスイーツ店だということをあまり人に知られたくなかった。実家がそのような店だと知られ過去に何度もタクミを筆頭に同級生からちょっかいをかけられ恥ずかしい経験を何度もしていた。こっそりと学園生活を過ごそうと決心し、そのためにわざわざ遠い高校に受験した。それに……。
「お前には言ったけど……今は、甘いものが……ダメなんだよ」
「ああ、知ってるよ。“あの時”からだろ」
そう、実家がスイーツ家業を営んでいる息子なのに甘いものが苦手、という言葉では片付けられないほど自体は深刻だった。正確にはここ最近になって食べることを躊躇するようになったのだが……。
「味見は俺たちがする。だから大丈夫だって。それにどうせ暇だろ、今は店の方も手伝ってないんだし」
「まあ、そうだけど……」
「それに」
するとタクミはヤマトの肩に手を回し耳元まで顔を寄せる。
「打ち込む何かがあれば気持ち的に落ち着くし、それに佳いことがあるかもしれないだろ」
「なんだよ佳いことって」
タクミはチラリと横に目をやり、ヤマトも釣られて視線をそちらに向けると二人の様子を伺っているヒロミと目が合った。
窓から吹き抜ける秋風にさらさらとした長い髪がなびき揺れて乱れたロングヘアーの髪を優雅な手つきでかき上げる。窓から射す陽の光が端正な目鼻立ちを彩り、まるでそれは絵画に描かれる神聖な淑女のようだった。
ヤマトは知らずの間に、彼女に目が釘付けとなっていた。まるで魂の一部を持ち去られてしまったかのように。
そして、その姿がヤマトには一瞬“彼女”の面影と重ってしまった。
そのことに気付いた途端、鋭い痺れが全身へと奔る。
原因の分からない症状の所為でこれ以上直視することはできなかった。過去の不甲斐ない自分を思い出したくない一心でヤマトは肩に掛けられていた手を撥ね除ける。
「ほお~、まんざらでもないって顔だな」
「……違う、そんな顔はしていない」
勘違いしているにもかかわらずクツクツと笑うタクミに呆れ目頭を揉んで一旦冷静になろうと自分に言い聞かせる。
「まあわかるぜ。事実何人に告白されたか分かったもんじゃないからな」
「……あっそ」
興味がないように振る舞う。とっとと話を終わらせたかった。
「でも、全部断ってるみたいだぞ。誰かと付き合ってるって話も聞いたことないし」
「そうなのか?」
「おっ、食いついてきたな!」
そういうわけじゃない、と小さく呟くもタクミは話を続ける。
「とりあえず引き受けろよ。何も全部お前一人にやらすつもりはない。俺とヒロミさんとでちゃんとフォローしてやっから」
心底嫌そうな顔をしヤマトは大きなため息を吐いた。面倒なことはお断りだった。だが……。
だが、ヤマトの心は揺らいでいた。もしかしたら、自分を変えることができるかもしれない、と。
黒く塗りつぶされた心に光が差したような気がした。ヤマト自身も過去に引きずられ続けることに本心では嫌気がさしていた。
すべてを投げ捨て、この世から消え去りたいと思いつつも心のどこかで変わりたいと望んでいた。
“あの時”から答えのない堂々巡りに疲れ切っていた。
自分を変えることのできる“もしかしたら”を待っていたのかもしれない。
「あの、決まりましたか?」
ヤマトの背に少女の声が響く。
――わかったよ。
とタクミにしか聞こえないほどの声量で呟くと腐れ縁は小さく微笑む。ヤマトはくるりと振り返りヒロミと対面する。
「……とりあえず話だけは聞くよ」
三人は教室から渡り廊下を通って別館へと歩を進める。ヒロミが文化祭実行委員の仕事内容を説明すると言い、てっきり教室でするものだと思っていたが場所を変えたいと提案した。状況を把握しきれていないヤマトは大人しくついて行くことにした。
ヒロミが目的の場所に立ち止まると案内された部屋には生徒会室と書かれた表札がかかっていた。ヒロミは躊躇いなくドアノブに手を掛ける。
「どうぞ、入ってください」
どうして生徒会室なのかという疑問を抱きつつも促されヤマトは先に入室しタクミとヒロミがその後に続いた。
中央には四つの長机を四角く囲むように用意され、入り口側にはホワイトボード、奥には議事録などを収めている本棚がある。
ヒロミが壁際のカーテンを開けると窓から茜色の秋の夕日が差し込む。よそ者のはずのヒロミはさも当然のように鞄を机の上に置き中から何かを取り出そうとしていた。
「いいのか、勝手に生徒会室使っても?」
「ええ、構いませんよ。今日は生徒会の会議がある日ではありませんし」
「いや、そういうことじゃなくて……部外者が入ってもいいのか?」
私は部外者じゃありませんよ、とヒロミは過剰になりすぎないほどに自慢気な表情をする。
「私来年の生徒会に立候補するつもりで、今は見習いという形でお手伝いさせて貰っているんです。だからちゃんと許可は取っていますので安心してください。打ち合わせするなら必要な資料とかがある生徒会室の方が色々と便利ですからね。あっ、もちろん生徒会が使わないタイミングで、ですけども」
そう説明しながら椅子を引いて座るように促される。
「はい、高部くん」
椅子に座るとヒロミの鞄から青色のフラットファイルをヤマトの目の前に置く。それなりに分厚く表紙には大きく達筆な文字で“文化祭資料”と書かれていた。ヒロミはファイルをヤマトに見えるように広げる。
「花沢さん、これは?」
「これは今年の文化祭の……」
「ちょっと待った!」
タクミが突然、会話を遮るようにして二人の間に割って入り驚いたヤマトとヒロミはピクリと跳ね上がる。
「おい、なんだよ急に」
「俺さっきからずっと思ってたんだけど、名字で呼び合うは止めようぜ!せっかくだしさ、二人ともお互い名前呼びにしない?」
唐突に告げられた言葉の意味をヤマトはいまいち理解できずタクミを怪訝な目で小首を傾げる。ヒロミはまた、その話ですか、と大きな嘆息を漏らした。
「その話って?」
困惑した表情の彼女に問いかけた。
「クラス委員の役職が決まったときにタクミくんに下の名前で呼び合おうって同じことを言われたんですよ。最初は断っていたのですが……一方的にわたしのことを名前呼びしてきて、私が言わないのをずっと指摘されたので、今は……しかたがなく……」
「でも実際すぐに仲良くなれたでしょ!」
さっきの教室でも二人はお互い名前呼びだったと思い返す。
タクミは昔からそうだった。互いの距離感をなくす方法の一つだと言って知り合い全員を下の名前で呼んでいた。相手が折れるまで止めないことにある種の尊敬と、“ああ、ここまでやったら人に嫌われるのだな”という反面教師として人付き合いのことをタクミから学び、人とはある程度の距離が必要なのだなと知ることができたのを思い出した。しかし……。
「それはちょっと……ちょっと馴れ馴れしすぎないか」
思春期真っ盛りのこの時期に名前呼びはいささかリスキーなことなのではと思った。よからぬ噂など立てられたくはない。
「神経質すぎじゃね?別にいいよねぇ、ヒロミさん!」
「はぁ……付き合ってあげてください。でないと本当に話が進まないので」
懇願と諦めが共存する眼差しでヤマトを見遣る。
「いいの?」
「私は、いいですよ……ヤマトくん……」
気恥ずかしそうな眼差し受けてヤマトは動揺し、たまらない羞恥心を覚え赤面しつつあることに気付き窓側に顔を逸らす。
「そうか……ヒロミさん」
頬が朱に染まっているのは夕日のせいだと思ってくれることを祈るばかりだ。
たどたどしく互いの名前を呼び合っているのに満足したのか満面の笑みを見せるタクミへヤマトは眉をつり上げ鬼のような形相で睨む。もっとも、こんなことに慣れっこなのかタクミは全く怯まなかった。
「さてと、改めて互いの仲を深め合ったところで文化祭の話に戻るか!」
「お前が仕切るのかよ」
「いやいや、ここは我らが委員長様にお願いするよ」
「結局私が説明するのですか……」
まあいいでしょう、と呆れ気味に返答し、開いたファイルに閉じられている文化祭実行委員の業務の内容が書かれた用紙を指差す。
「さっきも説明しましたが今年はハロウィンが主軸となります。実行委員の仕事はスケジュール管理と書類の作成などをしてもらいます」
その他にも箇条書きで仕事内容が綴られている。
「なんだか雑用仕事って感じだな」
「だったらクラスメイトみんなに指示する役回りになりたいか?」
「いや、それは……お前に頼むよ」
それだけは勘弁願いたい。クラスでまともに話しかけれる人物なんてタクミぐらいしか思い浮かばなかった。
部活動や委員会に入っていたら話せる相手も増えるだろうが、何もする気が起きないし、なるべく過去の自分と関わりのない生活を送りたい。
決して後悔などしていない……たぶん……。
「そういうことは私とタクミくんが率先してやります。それよりもヤマトくんにお願いしたいことが、これなんです」
用紙を一枚めくると堅苦しい箇条書きの仕事内容とは打って変わって、可愛らしくデコレーションされたジャック・オー・ランタンのイラストが描かれていた文化祭の宣伝用のチラシが現れた。
「その絵上手いだろ。同じクラスメイトのサヤカさんが描いたんだぜ」
横からタクミが話しかける。絵の善し悪しはいまいち理解できないが、リボンやマリーゴールドの花が豪奢に彩りジャック・オー・ランタンの不気味さを中和しているようだった。
サヤカは小心者で内気というイメージであまりしゃべらない印象の女の子だった。事実一度も話したことはなかったが、美術部だということは前にタクミから聞いたことがあった。
するとタクミはヤマトの耳元に顔を近づけ小言で囁きかける。
「ちなみにサヤカさんは、クラスで一番の巨乳なんだぜ」
……そんなことは一切聞いていない、とヤマトは無言で軽く受け流す。
「ち、ちょっと、タクミくん!」
顔を真っ赤に染めたヒロミが怒りの声を張り上げる。
「おっ、ヒロミさんは耳がいいねぇ!」
タクミはその反応をケタケタと笑った。
「ヒロミさん、その馬鹿の言うことは無視したほうがいい。付き合うだけ無駄だよ」
そうですねと力のない声を出して説明を続ける。
……一瞬自分の膨らみのない胸元をちらりと見たように思えたが、たぶん気のせいだろう。
「ハロウィン押しということですが、それは知ってますね」
「ホームルームで話してたやつ?」
そう問うとヒロミは首肯した。
「そのお題目から発展して生徒会主催でクラス対抗のスイーツコンテストをすることになったんです。だからヤマトくんに私たちのクラスが一位になれるようなスイーツを考えて欲しいのです。これまで私たちのクラスは良い結果を出せていませんから……」
「俺からも頼むよ。うちのクラス体育祭とかの行事ってさ、ビリばっかりだったろ」
過去の記憶を辿りながら思い返す。言われてみれば入学したばかりの時のオリエンテーリングでのクラス対抗イベントや体育祭諸々、一番を取れた覚えがない。委員長のヒロミだけが何とか団結させようと一人空回りをしている姿を思い出した。
「委員長のヒロミさんも副委員長の俺もクラスのみんなのために結果を残したいんだよ」
「ほう、そうか。……で、本当の理由は?」
「このままだと、内申点に響く!」
「まあ、そんなことだろうと思ったよ……」
しかし、それは事実でありせっかく面倒な役回りの委員をこなしているのだからそう思うのも当然なのだろう。
「ダメ……でしょうか……」
ヒロミは藁にも縋るような瞳でヤマトを見詰める。
――そんな目で見るな……。
罪の意識さえ浮かんでしまうような表情がヤマトの枯れた心を抉る。もう何も出てくることはないと思っていたのに、抉られた箇所から湧き水のように感情が溢れ出す。
自分には関係のないことだし、何よりお菓子を作ることは“あの時”からずっと避けてきたことだった。不快なことを思い出させ、心が暗黒に染まっていく。
だけれど、この溢れ出た感情は忌むべき過去を洗い流してくれるかもしれない。
――もう、いいんじゃないか……。
変わりたい、前に進みたい、そんな想いが心を突き動かす。何もかも諦めていた自分が何者かに変われるチャンスがきたのかもしれない。
“言え”と閉ざされた頑固な口を叱咤した。
「……いいよ。手伝っても」
「本当ですか!?」
小さくこくり、と頷くとヒロミは喜色を顔に滲ませる。
「ありがとうございます、ヤマトくん!」
「一応言っておくけど、必ずコンテストに勝てるって保証はないし、実家がスイーツ店だけど甘いもの食べれないし……それでも、いいのなら」
「えっ、甘いものダメなんですか?」
「大丈夫だって味見は俺とヒロミさんでする。作る技術は本場仕込みだから。昔なじみの俺が味を保証するよ」
「本場って、タクミが言うと安っぽく聞こえるからやめろ」
ほっと胸をなで下ろし、ヒロミは笑みを浮かべる。
「ではお願いしますね」
「頼むぜ、文化祭実行員」
「うるさい」
肩に乗せられたタクミの腕を仏頂面で撥ね除ける。
「それでは、明日からスイーツ作りの会議をしたいと思いますのでよろしくお願いしますね、ヤマトくん」
嬉しそうに頼んでくるヒロミが“彼女”を思い出させる。だが、その面影は重なることはないと自分に言い聞かせる。ヒロミはヒロミ、“彼女”は“彼女”なのだ。もう過去に引っ張られたくはない。そんな複雑な想いを抱きつつヤマトは頷いた。
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