凝縮された風のように感じる時だってある

サトウ サコ

へえ

 昼間でも暗い職場の長い廊下を歩いて、金木犀の香ってくるのを感じた。私は、今日も元気だと思った。

 人生だとか、生きる意義だとか、そんなことをコトコトと考えていた時代もあった。焦げ茶色のノートに迷い悩みを書き殴っていたのは、ほんの十七歳の頃であったけど、当時こそ、山頂の見えない登山者みたいな恰好で壁にしがみついているだけだった。

 かと言って、何を話すにしても特に深刻になるのが嫌だから、何でもない、へえ、と歩んでいるフリをして、いよいよ絶壁に全身が飲み込まれる。背から乳色のセメント液を流されて、鰓という鰓を塞がれた鯉。私。情けない姿だけど。

 少女の心情を赤裸々に語った男性が書いた小説を読んだのは、それから一年経ってからだった。たくさん泣いた気もするけど、泣いただけだった。私が死んだ後に見せられても遅いよ、って目の前が真っ暗になった気もしたけど、人から期待されるって生き方も、憧れていたけど、いざそうなってみると、ただただ苦しいだけだった。

 十八歳、私は知らぬうちに二度目の死亡をしていた。

 私は私の姿でなく、他人の意思の化身で、やあ道化を演じろ、やあ奇抜をやれ、やあ模範であれ、と、私の視界外でどんどん私が肥大していったからだ。

 人生の中であれ程人から好かれた時代も無かった気がする。又、あれ程嫌われた時代も無かった。私はとことん人から嫌われていたと思う。でも私は、膨張した自身を気球に乗って眺めていただけだったから、特にこれと言ったことはなかった。なんとなく静かだっただけ。

 好いてくれている人を尊べ。

 私は、気球に乗っている方の私を見つめてくれる人間を信じては簡単に裏切られ、でも、それでも、求められようと行動し続けた。

 二十歳。ついにバチンと何かが弾けた音がした。

 最高のスポットライトの下だった。私を抜いたスポットライトだったけど、あれは、私の台詞だったかしら?

 限界まで膨れ上がった私の足元が破けた。クルクル美しい弧を描きながら冥王星まで打ち上がった私の、なんて滑稽で素晴らしい姿だったことか。

 焦げ茶色のノートは解読できない。

 改札を抜けようと手を振り上げて、その手がどうしようもなく震えて、目からは涙が噴き出してきて、トボトボ引き返した。かと言ってすることも無かったから、スイッチをアルコールで腹に落として、肉体がいよいよ土葬される日を、のほほんと笑いながら思い描いていた気もする。胸に飾る花は向日葵にしてくださいと親に頼むと、うむ、と頷かれて、三人で無言でケーキを食べた。真っ赤な苺のショートケーキだった。甘い、しか感じられなかった。もっと味わえれば良かった。

 少女の心情を赤裸々に語った男性が書いた小説を読んだ。ただシクシクしたと思う。悲しくなかった。なんでか、嬉しい気持ちになったことは覚えてる。先生、これが、人殺しの文章ですか? 

 川の流れに身を任せているうちに、私は死のもっともっと先へ行ったのだが、今またこうしてフローリングにしっかり足の裏をつけている。又死ぬ時が来るだろうか? その時は向日葵の花を贈って欲しいと思った、星月夜。皿洗いの最中。

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