デカメロン先輩

青水

デカメロン先輩

 高宮先輩は『デカメロン先輩』と呼ばれている。いつ、誰が言い出したのかはわからない――こともなく、そのあだ名を考案したのは、何を隠そうこの僕であった。


 諸君は『デカメロン』が何かご存じだろうか? もちろん、デカいメロンのことではない。『デカメロン』とは、ジョヴァンニ・ボッカッチョによる物語とのこと。正直、僕もそれが何なのか全然わからない。


 デカメロン先輩こと高宮先輩は、その『デカメロン』を通学途中に読んでいたのだ。僕は出会った当初、当たり前のことだが、高宮先輩の名前を知らなかったので、心の内で『デカメロン先輩』とひっそりと呼んでいた。


 もちろん、それは誰にも秘密のあだ名なのだったが、うっかり者の僕は、うっかり本人に向かって「デカメロン先輩!」と声をかけてしまった。で、「デカメロン先輩って何?」ということになって、「いや、違うんですよ。なんか『デカメロン』って小説(?)を高宮先輩が読んでいて、だからその……」云々ごまかした。


 僕が高宮先輩のことをデカメロン先輩と呼んだのは、彼女が『デカメロン』を読んでいたから――というだけではない。彼女の双丘がまるでデカいメロンのようだ(直喩)、と思ったからでもある。つまり、ダブルミーニングというわけだ。いかしてるだろ?


 デカメロン先輩に一目惚れしてしまった僕は、彼女が文芸部に入っていることを情報屋の友人から教えてもらい、一切の躊躇なく文芸部への入部届を書いた。本来の予定なら今頃運動部で汗を流していたはずなのだが、現実には部室でペラペラ本を読んでいる。普段、あまり本を読まないので、本を一冊読むのにずいぶん時間がかかる。


「やっと、読み終わった……」


 僕が本をテーブルの上に置くと、デカメロン先輩は読みかけの本にしおりを挟んで閉じた。それから、僕のほうを向いて言った。


「ねえ、冬木くんはどうして文芸部に入ったの?」

「……え」

「いえ、その……失礼かもしれないけれど、冬木くんって読書好きには見えないから」

「あはは……」


 先輩のストレートな言い方に、僕は苦笑した。


「まあ、あんまり好きじゃないですね、読書」

「どちらかというと、アクティブな――運動部向きのように思えるんだけど。その……冬木くんってけっこうムキムキというか、細マッチョというか……」


 確かに、体はそこそこ鍛えている。

 細マッチョなのかどうかはよくわからないけれど。


「一応、中学時代はテニスやってました」

「テニス部に入ろうとは思わなかったの?」

「いやあ……別に、それほど熱心にやってたわけじゃないですからね」


 適度にサボっていたし、だから大会で優勝することもなかった。この学校のテニス部は強豪で練習量も多いらしいから、僕みたいなサボり野郎が入部することは憚られた。


「最初の質問に戻るけれど、どうして文芸部に入ったの?」


 先輩はかなり気になっているのか、話を強引に元に戻してきた。


「どうして? うーん……」


 先輩目当てです、とストレートに言ってしまうべきか。それとも、適当にごまかすべきか……悩ましいものだ。

 思案の果てに――。


「ぶっちゃけて言うと、先輩目当てです」


 と、ストレートに言ってみた。


「……私?」


 先輩は目を丸くして、自分のことを指差した。


「そう、デカメロン先輩目当てです」

「ところで」


 一旦、話題を逸らしてきた。


「そのデカメロン先輩ってあだ名、少し恥ずかしいんだけど……。その……『デカメロン』って、ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』じゃなくて、他のものを彷彿とさせるから……」

「他のものって?」


 意地悪な僕は、解答がわかっているのにあえて質問してみた。にやにや。


「それは、その……」


 もにょもにょ言いながら、デカメロン先輩は自らの双丘を見た。


「いやあ、僕としてはそういったダブルミーニングを狙ってのあだ名というわけではないんですけどね」


 いけしゃあしゃあと嘘を吐く僕であった。


「そうだよね。冬木くんはそんな人じゃないものね。ごめんなさい」

「いやいや、謝らないでください」


 僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 僕は先輩が思っているよりもずっと俗で卑しい人間なんです。


「話を戻すけれど、私目当てってどういうこと? も、もしかして……」


 先輩は自らの胸を抱くようなポージング。非常に妖艶なのでやめてもらいたい。僕の熱いパトスがほとばしってしまう。『も、もしかして……』の続きは何? しかし、続きの言葉は紡がれないので、


「先輩のことが好きだから、文芸部に入ったんです」


 と、僕は正直に告げた。

 すると、デカメロン先輩は一瞬きょとんとした顔をした後、驚きのあまり椅子から転げ落ちた。まるでギャグマンガだ。こんなリアクションをリアルでする人がいるとは思わなかった。


「……大丈夫ですか?」


 スカートがめくれてかわいらしい柄付きパンツが見えている。見た目的には大人っぽい先輩だけど、中身や好みは案外子供っぽいのかもしれない。パンツの柄だけでこんな推測をしてしまうのはどうかと思うけれど。


「う、うん……」


 僕が手を差し出すと、先輩はおそるおそるそれを握った。

 よっ、と軽く引っ張ると、まるで重力が消失したかのように、先輩が僕のほうへと引き寄せられて、そのまま僕にぶつかった。

 ふにょん、とデカメロン先輩のデカメロンがクッション代わりとなった。とてつもなくセクハラ的な表現だ。でも、心の内で思う分には問題ない。


「うわっ、と……」


 先輩が声をあげた。

 僕は自らの胸部に当たった柔らかな感触に酔いしれていた。


「冬木くん、見た?」

「何をですか?」

「よかった。見られてなかった……」


 ほっと一安心したような先輩。


「うさちゃん柄なんですね」

「見たのかっ!? 見たんだねっ!?」


 僕の指摘に、先輩は豹変した。


「え、何がですか?」

「私の……パ、パンツよっ」

「正直に言いましょう。見ました」

「うっ……」

「それと先輩のデカメ――じゃなくて、おっ――でもなくて双丘が当たった感触も……」

「今、『先輩のデカメロン』って言いかけたよね?」

「言ってません。言いかけてません」


 僕は冷静に否定した。


「いや、言いかけた。間違いなく言いかけた」

「すみません。本当は、デカメロン先輩というのはダブルミーニングだったんです。先輩の双丘がメロンのようにデカい――いや、デカいメロンのようだったから――」

「それ以上、言わなくていいよ」

「……」


 僕は黙った。

 デカメロン先輩こと高宮先輩は、大きくため息をつくと椅子に腰かけた。それから、双丘を強調するように腕を組むと、


「冬木くん、あなたは私の胸に惚れたの?」

「……は?」


 胸に惚れた?


「おっしゃっていることの意味がよく分かりかねますが……」

「男の子って巨乳好き多いじゃない。だから、冬木くんも私の胸に惚れたんじゃないかって思ったんだけど……」

「胸に惚れるとかありますか?」

「あるでしょ」


 さも当然のように言われた。

 あるのか? まあ、外見的な特徴の一つではあるけれど。


「まあ、あるのかもしれないですけど……別に僕は特別巨乳好きというわけではないですよ」

「じゃあ、私のどこに惚れたの?」

「どこって言われても困りますね」僕は後ろ髪をなでた。「全体的に惚れたと言いますか……一目惚れですし」

「一目惚れって、どうなんだろうね?」

「どう、とは?」


 わからず、聞き返す。


「一目見ただけで、相手のことを十全に理解することなんてできないでしょう? それどころか、一目でわかるのは相手の外見くらいだし」

「一目見ただけでも、相手の内面を透かし見ることができるかもしれませんよ」

「冬木くんは超能力者なの?」

「いや、違いますけど」

「じゃあ、一目見ただけだと、私の外見しかわからないよね」

「そうですね。外見と……後、雰囲気というか……」

「雰囲気? とても曖昧ね」


 それに対し、反論を試みる。


「でも、『この人はいい人そうだ』とか『悪そうだ』とか、そういうのってぱっと見でわかったりしません?」

「うーん、どうだろう……? でも、そういうのって必ずしも正しいわけではないし……」

「話が逸れましたね。大切なのは僕が高宮先輩のことが好きだという事実です。僕は今、告白したようなものです。さあ、デカメロン先輩。返事を聞かせてください」

「ごめんなさい」

「ぐはっ」


 僕は血反吐を吐いた――わけではないけれど、声が漏れだすくらいにはショックだった。いささかの間もなく、躊躇なく、あっさり振られてしまった。


「ぼ、僕のこと、嫌いですか?」

「どちらかというと好きだけど……」


 嬉しいことを言ってくれた後、


「でも、付き合うほどの好意じゃないな。そもそも私たち、まだ知り合って二か月ほどしか経ってないし」

「二か月って人が付き合うには十分な期間だと思いますけど」

「冬木くんにとっては」


 先輩が言った。僕は頷いた。


「でも、私にとってはそうじゃない、かな」


 先輩はカバンの中から本を取り出した。本のタイトルは『デカメロン』。何回も読んでいるのか、ボロボロになっている。


「だから、ごめんなさい」

「いえ……」


 先輩はデカメロンを読み始めた。僕の視界には二つの(いや三つといえるか?)デカメロンが入っている。『デカメロン』を読むデカメロン先輩。僕も本屋で買ってこようかしら。


「ねえ、デカメロン先輩」

「そのあだ名、やめない?」

「やめない」

「まあ、嫌ってほどではないんだけど……」

「デカメロン先輩、『デカメロン』があるのなら『デカスイカ』があってもおかしくないと思いませんか?」

「思わない」

「ひどい」


 振られたものの、先輩との仲は変わらなそうだ。一安心。……いや、良い方向へ変化させたいのだから、安心するのはよくないな。

 他の文芸部員はまだ来てない。部室を僕と先輩の二人だけで独占しているのは、なんだか晴れやかな気分だ。後一〇分もすれば、誰かやってくるだろう。それまでの束の間の幸福な時間を堪能する。

 んん、とデカメロン先輩が大きく伸びをする。豊かな双丘が強調されて、目のやり場に困ってしまう。

 なるほど、胸に惚れたわけではないけれど、胸にも惚れているのかもしれない。


「眼福だなあ」

「セクハラだよ、それ」


 先輩が笑いながら言った。


「いやいや、何が眼福かは言ってないですよ」

「言わなくてもわかるよ」

「ごめんなさい」

「許す」


 やはり、先輩は朗らかに笑う。

 それから少しして、野崎先輩がやってきたので、二人きりの時間は終了した。ちなみに僕は、野崎先輩のことを心の内で『チビメロン先輩』と呼んでいる。うっかり口にしないように気をつけなければ。


 ◇


 部活が終わり、高校の最寄り駅までみんなで歩き、駅に着いた瞬間散り散りに去っていった。中学までとは違って、家の方角は様々だ。僕と先輩は家の方角が同じらしい――というか、どうやら同じ中学校だったようだ(僕は知らなかった!)。

 電車の吊り革に掴まり揺れながら、僕たちは喋る。これが青春ってやつか。


「冬木くん、今日が何の日か知っている?」

「今日が何の日か……?」


 祝日ではないはずだ。祝日なら学校は休みなのだから。


「あ、もしかして、先輩の誕生日とかですか?」

「正解」


 冗談のつもりで言ったのだったが、当たっていたようだ。

 僕は財布の中にいくらほど入っていたか思い出そうとした。バイトをしていないので、僕の懐事情は決して裕福ではない。


「じゃあ、何かプレゼントしましょう。何がいいですか?」

「任せる」


 これは『どうでもいい』『なんでもいい』というわけではなくて、僕が何をプレゼントしてくれるのか試しているのだ。試すってほどのものでもないけれど。

 僕たちは乗り換えのために電車を降りると、その駅の改札を抜けた。二人とも定期券内なので、金はかからない。


「じゃ、先輩。誕生日プレゼント買ってきますので、喫茶店で待っててください」

「うん、わかった」


 何を買うかは決めていた。

 お金はかかるけれど、必要な出費なので仕方がない。

 先輩を待たせないように、足早に目的地に向かう。プレゼント用の包装をしてもらうと、彼女が待つ喫茶店に向かった。


「ただいま戻りました」

「おかえりなさい」


 先輩はアイスコーヒーを飲んでいた。読書をしていたようだけど、読んでいたのは『デカメロン』ではなかった。

 僕は包装された立方体の箱を、先輩の前にすすっと置いた。


「ありがとう」先輩は言った。「それにしても……随分、大きな箱だね」

「ですね」

「今、開けてみてもいい?」

「もちろん」


 僕が頷くと、先輩は包装を丁寧にはがして、中の木箱の蓋をぱかっと開けた。なんとなく想像がついていたのか、僕が想像していたよりも薄いリアクションだった。悲しい。


「…………メロンだね」

「ですね。高かったんですよ。ご家族の皆さんと食べてください」

「冬木くん、君が私のことを『デカメロン先輩』って呼んでいるから、メロンを……?」

「ええ、そうです。なかなかユーモアがあるでしょう?」

「私、メロン好きだし、嬉しいと言えば嬉しいんだけど……なんか違うような……」


 微妙な微笑みを浮かべて蓋を閉めるデカメロン先輩。

 まあ、誕生日プレゼントにフルーツをあげる高校生というのは、ヘンテコであって一般的とは言い難い。


「うん、まあ、ありがとう」


 ともう一度言って、先輩は僕が買ってきた手提げの袋にメロンが入った箱を入れる。

 僕は天邪鬼の変人かもしれないけれど、好きな先輩の誕生日プレゼントにメロンだけを送るほどの変人ではない。これはちょっとしたジョークというか、前座みたいなものだ。ここからが本題本編。

 僕は制服の上着の内ポケットから、細長い箱を取り出して先輩に渡した。


「? これは……?」

「こっちが本命といいますか……高宮先輩、誕生日おめでとうございます」

「あ、ありがとう……」


 高宮先輩は戸惑いながら受け取ると、先ほどのメロンと同じように包装を丁寧にはがして開けた。中に入っていたのは――。


「え、これ、ネックレス?」

「はい。前に先輩が欲しそうにしてたやつです」

「これ高かったでしょ?」

「まあまあ」


 ぼかした表現をした。

 高校生の買い物にしては高かったと言える。


「こんなの、もらっちゃっていいの?」

「ええ。先輩のために買った物ですから、むしろもらってもらわないと困ります」


 もらってくれなかったら、僕はこれを売り飛ばすことになる。男の僕に似合いそうなネックレスじゃないし。


「ありがとう。大切にするね」


 先輩は微笑みながら、ネックレスをつけた。

 それだけで、僕の失われた諭吉たちは報われた。こう言ってはなんだけど、金で好意が買えるのなら、僕は喜んで金を投げ出す所存である。


「じゃ、そろそろ帰りましょうか」

「そうだね」


 僕たちは喫茶店を後にした。

 電車に乗ると、自宅の最寄り駅まで他愛ない会話をした。先輩は時折、つけたネックレスを嬉しそうに見ている。僕まで嬉しくなった。

 電車を降りて、改札を抜けて、駅から出て少し歩き、スクランブル交差点に差し掛かる。


「あ、私こっちだから」


 先輩は右を指差す。僕は左だった。


「じゃあね。また明日」


 手を振って去りゆく先輩に、僕は声をかける。


「デカメロン先輩!」

「なあに、冬木くん?」

「よかったら、明日一緒に学校に行きませんか?」

「私、学校に行くのけっこう早いよ? それでもいいのなら――」

「大丈夫です」

「じゃあ、一緒に行こっか」


 先輩はにっこりと笑うと、「明日、七時一〇分に駅前で」と指定して、今度こそ去っていった。

 よし、と僕は一人ガッツポーズをした。


 僕は『「明日」一緒に学校に行きませんか?』とデカメロン先輩に言った。これが『明日オンリー』となるのか、それとも『明日から』になるのかは未定だ。できれば、後者になることを祈っている。

 今日一日で、先輩との距離をいくらかつめられたと思っているけれど、交際にたどり着くためには、後どれほど距離をつめればいいのだろうか? 焦る必要はない。時間はたっぷりとある。少しずつ距離をつめていこうじゃないか。


 僕はにやついた軽薄な笑みを顔に貼り付けたまま、帰り道にある本屋に寄った。そこで『デカメロン』を購入すると、ベッドに寝転がって、明日のことを考えながら『デカメロン』を読んだ。

 明日の道中は、『デカメロン』についてデカメロン先輩と話そうと――僕はそう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デカメロン先輩 青水 @Aomizu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ