第一章 海辺の町、新しい生活(3)

 私の前を走る二台の自転車。狭い路側帯の中を一列に、私たちの走らせる自転車は白木須さんの家へと向かっている最中だ。

 少し失敗してしまった自己紹介から始まった転校初日。けど、そのあとはそれなりに上手くやれたんじゃないかなと思う。最初はとんでもない学校に来てしまったと思いもしたけど、どうやら私の思い過ごしだったみたいだし。

 今日一日で何人か声を掛けてくれた子がいたけど、波風が立たないようにちゃんと応対できたと思う。まぁ、相手がどう思っているかは分からないけど……。

 そんな私はよく分からないうちに、海釣り同好会というものに入会することになってしまった。なんて名前だっけ? アングラ女子会? 確かそんな名前だったと思う。

 あんまり友達みたいな関係は作りたくなかったんだけどな……。けど、断るのも無理だったし……。近付き過ぎないように気を付けていれば問題ないかな……。

 ビックリする速度で距離を詰めてくる白木須さんと、なんだか言葉と視線が怖い汐見さん。二人とも個性的と言うかなんと言うか、正直言うと私があまり得意じゃないタイプの子たちだ。急に手を握ってきたり、心の中を覗き見てきたり……。

 そういえば私を入れて四人と言っていたっけ。あと一人はどんな子なんだろう? 物静かな子だったらいいのだけど……。

 子供めいた幼い背中と、ロングの髪の毛がなびく大人な背中。そんな私の前を行く二つの背中は道なりから脇道へとその進行方向を変える。

 私も同じくハンドルを切ってそのあとに続く。ようやく自宅のある漁港町へと帰ってきた。

 私たちは石畳の坂を下っていく。この漁港町の中に家があるということは、白木須さんの家に到着するのは時間の問題ということになる。そんなふうに思うと途端に気持ちが重くなった。

 部屋に通されて、お菓子や紅茶をごそうになって、ワイワイと楽しくお話をする。

 それはなんの変哲もない放課後のひと時に過ぎないのかもしれない。けど、私にとってのそれは地雷原を歩くようなもので、なにか気に障ることをしてしまったらと考えてしまうと……。

 そんな重い心持ちで白木須さんたちのあとをついていっていると、石畳の坂は終わりを告げ、それからややあって私たちはある場所へと入っていって自転車を停めた。

 私はわけが分からず首を捻ってその建物を見つめている。するとそんな私のことを置き去りに、白木須さんたちは早々にそちらへと歩いていってしまう。そうしてそのまま中へと入っていってしまった。

 一人取り残された私は「それ」へと視線を戻す。そうしてややあって、あっ、とようやく理解することができた。

 白木須釣具店。入口戸の上に掲げられている看板にそんな文字が記されている。確かにここは白木須さんの家……お店? であるらしい。

 どことなく趣のある平屋の建物で、入口戸のガラス面には墨色の魚の写し──なんて言うんだっけ? あれ──が貼り付けられていて、店先に設置された掲示板らしきコーナーにはなにやら案内が貼り出されている。

「なにしてん? はよ来ぃや」

 ついその場に立ち尽くしていた私は、開いた入口戸の向こう側にいる汐見さんにそう声を掛けられ我に返った。

「はっ、はい!」

 私は慌ててカバンを手に取り肩に掛け、小走りに汐見さんたちの待つお店の中へと入っていく。……そこは、なんとも不思議な空間だった。

 コンビニなんかより全然狭い。中の様子はまるで昭和時代の駄菓子屋さんみたい──といっても、それほど昭和時代に詳しいわけではないし、駄菓子屋さんにだって行ったことはないのだけど──で、ところ狭しと多くの商品が並べられている。黄色とかオレンジ色のものが妙に目立つ。あとは、バケツ? とか、鉄? とか、そんな感じのものがいろいろ……。

 BGMの代わりに聞こえてくるのは、どこか聞き覚えのある関西弁、そんなラジオの音声がどこからともなく聞こえてきている。そしてその音声にかぶさるように聞こえてくるのは、ブーン、というなにかを震わせているような振動音。これは一体なんの音だろう?

「めざしちゃん」

 そう声を掛けられ、私はその方へと顔を向ける。そこには手招きをしてきている白木須さんの姿があって、私はそれに応じて彼女の許へと歩み寄っていった。

「はい」

 そう言って、なにかを差し出してくる白木須さん。私ははてと思いながらそれを受け取る。そして、まじまじと目をくれてみた。

 黒地に赤の彩りが施された艶のあるそれ。これが一体なんなのか、魚釣りをやったことがない私でもさすがに分かる。ちょっとしたずっしり感がある。これは、あれだ。

竿ざお、ですか?」

「うん。めざしちゃんのロッドね」

「私の……」

 私は手に持ったそれへと目を落とす。いきなりそんなことを言われても当然ながらピンと来ない。だって、これが一体どういうものなのか、どう使うものなのか、私はなに一つ分からないのだから。

「それ一本あったらなんとかなるから」

 そう言って、白木須さんはあとを続ける。

「釣りの道具なんていうのは切りがないほどいっぱいあって、釣りの種類によってロッドからなにからぜーんぶ変わってくる。磯竿とか、投げ竿とか、メバリングロッドとか、エギングロッドとか、ロッドだけでもめちゃめちゃ種類がある。けど、そんなもん全部いちいちそろえてられへんやん? アホみたいにお金がかかってまうから」

 釣具屋さんの娘がそんな発言をしてもいいのかな。白木須さんはそんな事実に気付いていないのか、白木須家の生活を支えている商売のことを軽くディスってみせた。

「で、そのロッドな」

 白木須さんはさらに続ける。

「それはルアー釣り用のロッドになんねんけど、それ一本あったら大抵の釣りは楽しめるから安心してもらって大丈夫やで。私が前につこてたやつ。それ、めざしちゃんにあげるわ。ちょっと古い型になるけど強度の方は問題ないで。あっ、そうそう。リールはスピニングな。そっちの方が使いやすいから」

 そうきと話す白木須さん。そんな彼女を見ていて、本当に魚釣りが好きなんだな、と私は思った。そして、今になってようやく気付く。白木須さんの前髪をピン留めしているあのヘアピン、あれは魚の形をしているのだと。……って、お礼を言わなきゃ。

「ありがとうございます。こんな高価なものをいただいてしまって」

 私はそうお礼を言う。これがいくらするものなのかは分からない。けど、決して安いものではないと思う。

「ええよ別に、気にせんで」

 白木須さんは軽い調子で言う。

「たったの一億兆万円やから」

「え?」

 私は思わず固まってしまう。一億兆万円? たぶん冗談だと思うけど……。

「どうしても払いたいって言うんやったら払ってもらってもええけどね。二十回払いまで大丈夫やで?」

 白木須さんはそう続けて言ってくる。一億兆万円の二十回払い……。果たして一回にいくら払うことになるんだろう。ちょっとすぐには計算できない。

 やっぱり一億兆万円というのは冗談だったらしく、けど一万円くらいはするものらしくて、一気に「ゼロ」の数が減ったといっても高価なものには変わりない。私は改めて白木須さんにお礼を言った。

「にしても、えらい準備ええやん。店に置いてたん? そのロッド」

「ううん。学校おる時にお母さんに連絡して、家から持ってきてくれるようにお願いしててん」

「ふーん。そういうのだけは頭が回るんやな」

「そうそう。そういうのだけは、ってなんでやねん」

 なんだか漫才みたいなやり取りをする白木須さんと汐見さん。どうやら私の知らないうちに白木須さんはいろいろと動いてくれていたみたい。

「じゃあ、行こっか」

 白木須さんがこちらを見やり言ってくる。

「行く、ですか?」

「うん」

 私の問いにそう答え、白木須さんはあとを続ける。

「ロッドも手に入れたことやし、はよ釣り行こ」

 私は思わずあつに取られてしまう。魚釣りに? 今から? え?

 ぽかんと立ち尽くす私のことを置き去りに、白木須さんと汐見さんはなにやら話を進めている。どうやら本当に今から魚釣りに行くみたい。

 私は手に持っている釣り竿へと目を落とし、そうして再び彼女たちへと目を向ける。

 ほんとに……?

 それは私の正直な感想だった。

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