第27話 猛獣の学校
夢の中に現れた仔猫が、ミュウと鳴いたと思うと、次の瞬間に猛獣となって、私に襲いかかって来た。
私の家の目と鼻の先に、公園があった。遊歩道と展望台のある小高い山、遊具のある遊び場、そしてその一角が動物園となっている大きな公園だった。私の家は動物園側の、お堀を挟んだ対岸にあった。
お堀を泳いで夜な夜な猛獣が私を襲いにやって来る。子供のころ、そんな夢ばかり見ていた。
私はうなされて、額に寝汗をかき、飛び起きる。追い詰められて、絶体絶命の時に目が覚めるのだ。
朝は最低の気分だった。
学校と言う言葉を思い浮かべただけで、頭に血が上り、みぞおちの辺りがしくしくと痛んだ。
8月31日の夜は、一年の中でもとりわけ最悪だった。
夏休みの甘やかな夢が、一夜にして終わる。夏の息吹きは急速に消えて行き、月の明るさも星の輝きも、すべてが疎ましかった。
そんな夜は、猛獣たちまでもがいつも以上に故郷のサバンナの草いきれや、狩りをする部族の雄叫びさえも懐かしく思えるのか、漆黒の闇に向かって咆哮するのだった。
9歳の私にとって、学校は猛獣の棲家だった。学校の匂いはとても、一言では言い表せない。
こぼした牛乳を拭いた雑巾、習字の墨汁や絵の具や給食の残飯や、校庭の土埃、無駄に群がる子供たちが食べこぼした服のしみ、汗やそれぞれの家庭の洗剤の匂い、保健室の消毒液や理科室の薬品、靴箱に溢れる無数の靴、それらすべてが猛獣の臭いを形成していた。
その秋私は、学校に行かない選択をした。うろたえた母親が当初は学校を訪ねたり、担任の教諭が家庭訪問に来たり、と何かと騒々しいこともあったけれど、連れて行かれた児童相談所で知能テストを受け、知能には問題はないと言われて、とりあえず本人が休みたいだけ学校を休ませてみましょう、と言うことになったのだ。
そして私はようやく、猛獣の夢からも解放され、夜中にうなされることも無くなった。
秋から冬の間、私は母親が買ってきた本を読んで過ごした。「十五少年漂流記」や「小公女」、それに「ああ無情」などの児童書が主だったけれど、たまに父親の書棚にあるSF小説や文学全集にも手を伸ばした。
冬が過ぎて春が来るころ、そろそろ学校に行ってもいいかな、と思うようにもなっていた。
動物園はその春、郊外の町に移転したのだ。
学校に行っても、もう猛獣の匂いはしなくなっていた。
小学校の卒業文集に、小学校の先生になって、この学校に帰って来ると書いた。
そして、実際にその10年後にその言葉どおり、母校に赴任した私は、意気揚々と、受け持った3年生の教室に入った。
その途端、あの獣臭が私の鼻腔をくすぐった。私はうっと吐きそうになりながら、何事も無かったように、黒板に白いチョークで自分の名前をゆっくりと大きく書いた。
ひとりの少女が座席から立ち上がり、そっと教室から出て行くのが見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます