机上の夏

親指ノ人

夏-1

第一部 -夏-


 夏は窓ガラスを透かし、熱を帯びて目の前の机に降り注いでいた。




 エアコンが壊れた教室の中には嫌になるほど夏が蔓延っている。ネクタイを外した男教師。スカートの裾をパタパタさせる女生徒。開いた窓を覆う陽炎。暑中見舞いの絵葉書のような光景が、目の前には広がっていた。




 だが、彼の隣には── 窓際の席に座る彼の隣には夏がぽっかりと欠けていた。彼はその存在しない夏を、自らの想像で補完する様に、その空白を眺めていた。




「おい。野村ぁ。何をぼけっとしとんのや。」




 その声が彼の鼓膜を震わせると、彼は一瞬のうちに想像から現実の世界へと引き戻された。顔を前へ向けると、眼鏡をかけた若々しい男が、黒板に書かれた漢文を背にして、チョークを持った手で彼を指差していた。ついさっきまで教室に広がっていた熱い空気は寒気を帯び、氷柱の様な冷たい視線が、教室の隅々から彼に降り注いでいた。




 その冷気を感じた彼の体は急な温度変化に耐えられず、反射的に「すいません」という言葉を口から捻り出した。とっさに口にしたその言葉に教師は満足したのか、再びチョークで黒板を引っ掻き始めると、彼を縛り付けていた視線も徐々に解けていった。




 再び夏が戻りはじめた教室に、野村は安堵の溜息を漏らした。だがそれは自身の成績の悪化を防いだからではなく、周りからの評価が下がらなかったからでもなく。再び自分自身の夏に集中できるという安心感が、彼の心を緩めたのであった。




 だが彼の想像は、背後から掛けられた声によって、またもや妨害されることになる。


「お前また夏実のこと思い出してんのか?お前もなかなか乙女だねぇ」


 その声は、野村の一つ後ろの席に座る彼の親友によるものだった。親友と彼は中学の頃からの腐れ縁である。中学校三年間を同じクラスで過ごし、同じ高校を志望し、そしてお互いその高校に合格し、その上高校でもこうして同じ教室で生活している。それに加え、親友は根尾という名字を持っていたから、こうして席が近くなることも多かった。野村自身も根尾に対しては、どこか数奇な、奇妙な運命というものを感じずにはいられなかった。入学してから一度だけ席替えが行われたにも関わらず、またこうして席が近くなったのだから。


「そりゃすぐには忘れられないよ…。あんな経験、普通ならしないだろ?」


 今度は教師にバレないよう、前を向いたままひっそりとした声で根尾に答えた。教室はシーンと静まり返って、ただチョークを黒板に擦り付ける音だけが響いている。彼の声はその音に紛れ、根尾の耳にだけ。いや、正確には近くに座る生徒にも聞こえていたのかもしれないが、それでも板書の音が途切れることもなく、その言葉は根尾の耳に届いた。


「そうだなぁ。でも俺は中々楽しかったよ。お前には悪いが、ひと夏の青春って感じがして」


 根尾は楽しそうに一人でニヤつき、手に持ったシャーペンを器用にクルクルと回し始める。その浮ついた声色に、野村の脳裏にはつい数週間前までの思い出が徐々に蘇りはじめた。そしてそれが鮮明に描き出されると、彼は何かに導かれるように視線を窓の外に向け、目の前に広がる青をはっきりと視界に入れた。波は穏やかだった。だがその光景は、彼の心には妙な安心感と満足感をもたらしていた。彼は水平線へと視線を移すと、その果てしない直線を、どこかに切れ目が入っていないか観察する様に、じっくりと眺めはじめた。


 過ぎ去ろうとしている夏に、かつての自身の存在を探しながら……



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

机上の夏 親指ノ人 @sorosoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ