街の灯火

武蔵山水

街の灯火

 仕事が終わり行くあてのないことに気づいた俺は、ただ東京の寂しい摩天楼を歩いている。

 往来する人間は皆、無くした何かを求めさすらっているかの様に見えてしまう。かく言う俺も何かを失ってそれを探し続けている様に思えてならない。其の何時の間にか失ってしまった何かというのは恐らく何よりも大事なものだった事は確かである。

 歩いていると古びた酒場の前を通った。中には仕事終わりの俺の様な客が溢れている。皆カウンター席に並んで楽しそうに笑い合っている。そんな様子を俺は認め此処で一杯引っ掛けて行くか、とも思ったが今はそんな気分には成れず楽しそうな笑い声を背中にその場から立ち去った。

 まだ仄かに空が紫の色をしている夏の宵である。汗により体にシャツがくっつき離れる。時折手で顔を仰ぐがまた汗が流れる。街の街灯に少しづつ光が灯り夏の一夜の訪れを寂しく街を流離う人々に告げる。

 行き交う人に道を譲り川の流れの様に留まる目処が立たない自動車に気をつけながら俺は道を歩く。遠くにはヒルズが見えている。何故だか今日は酷く楽しそうに輝いて見える。あの光の元にいる人間たちと云うのは人生が楽しいに違いない、と不意に思ってしまった。苦労する事も無く日々の生活を楽しみ男と女が出会う事など当たり前の如く思っている。あの街では毎日がお祭りできっと楽しいのだろう。然し誰も俺をあの祭りに誘ってくれない。俺は彼等に僻んでいる。そして相変わらず自らを拒んでいる。俺はあの光から目を背けた。

 何度も坂道を登り降りしたのだが東京の街はそもそも坂道が多いため終わる事なく俺の目の前に坂道が現れる。新しく靴を買い替えてしまったからまだ足に馴染んでおらず先ほどから微かに足の指先の痛みを覚える様になった。坂道の両端には大きな家屋が立ち並んでいる。坂道の見晴らしの良い天辺から辺りを見回してみても家屋と遠くにはビル群が立ち並んでいる。俺は以前サンフランシスコに行った時の街並みを思い出さずにはいられなかった。あまりにも今此処から見る景色と代わり映えがしなかったからである。

 そんな呆然と立ち尽くす俺の傍らに何か物体がぶつかって来た。俺は急に我に帰り其のぶつかった何かをみた。少年であった。少年は俺の方を見て今すぐにでも泣き出しそうな顔をしていた。もしも今此少年に泣き出されたり泣かしたら俺が不審者として扱われてしまうのだろうと万一の為に言い訳を考えた。すると私の背後からまた別の元気な少年が走ってきた。其の泣き出しそうな少年は少年を見るや否や駆け出して行った。俺は其の二人の少年の後ろ姿を呆然と見た。

 あの少年たちは大声で何か横文字の長い言葉を発し騒いでいた。或るヒーローの真似事であると云うことは現代の子供事情に疎い俺でも分かった。俺もかつてはヒーローに憧れていたことを今彼等の姿を見て思い出した。誰にでも憧れられて誰かのために格好良く死ねるヒーローに。然し普通の日々を送るに従ってそんな夢は何時の間にか馬鹿馬鹿しいものに成り果ててしまった。今の俺は姑息な手段を使ってただ保身だけを考えて誰のためにも生きておらず誰にも必要ともされず死する其の時を待っている身になってしまった。あの頃に戻りたいとは少しも思わないが少なくとも今も見るに耐えない己を変えたくは思う。然し俺には勇気がないから自らを変えることにも恐れてしまう。我ながら悲しい人間である。

 そんな住宅街を歩き道を曲がり其の果てに鳥居が現れた。俺は其の名も知らぬ神社の境内へと入った。そして賽銭箱目掛けてポケットに入っていた小銭を投げ込んだ。

 そうして境内を別の出口から出るとまた大きな通りに面する道に出た。車の騒音を合図に俺はまたゆっくりと歩み始めた。ふと空を仰ぎ見れば瞬く星々が寂しく散らばっていた。都会ではビル群の五月蝿い光が夜空の星の役割を担ってしまう。其のためか本当の星たちはヘソを曲げて輝きを放つことをやめてしまった様に俺には思えた。

 街の喧騒をくぐり抜け俺は何時か来た事のある古本屋の前にたどり着いた。そこで立ち止まり店の中の様子を覗き見た。奥の間に無愛想なそして幾分かあの頃より毛根が後退した店主が新聞を読んでいた。然し店内はあの頃と何ら変化がない。俺は懐かしい其の店に入った。奥間の旦那は新聞を読みながら何かボソッと呟いた。恐らく「いらっしゃい」と言ったのだろう。静かな店内に響くのは店前をひっきりなしに往来する自動車と歩行者の音だけである。俺はしゃがみこみ仰山積み上げられている本の背文字を目で追った。そんな折、或る一冊の文庫本が目に止まった。堀辰雄の『菜穂子』である。何故其の本に目が止まったのかを説明するならば俺が堀辰雄のファンであることが一つ、と俺がかつて愛した女が此小説の主人公である『菜穂子』と同じ名前だからである。そんな今まで俺は彼女の名前すら忘れていた事に気付かされた。俺はかつてあの女との二人の日々を想像したこともあった。海辺の小さな二階建ての家で静かに共に老いて行く幸せを必死に思い描いていた。然しそんな幻想は弱くそして脆く簡単に打ち壊されてしまった。俺は女の現在を思った。息災であろうか。美人である事に変わりはないだろう。恐らく俺が知らない誰か良い人と結婚して幸せを味わっているだろう。それならば良い。俺は心穏やかにそう思った。俺は其のヨレヨレで日焼けした『菜穂子』を持って店の親父の前に置いた。親父は新聞を置いて会計をした。俺は親父の手のひらにポケットから出した百円玉一枚と五十円玉一枚とを置いた。そうして其のあまり綺麗とは言えない状態の文庫本を大事に抱きかかえ何か清々しい心持ちと共に店を出た。

 ちっとも変わってはいない古本屋から出た時、俺の目の前に映るのは先ほどと同じく変わらない東京の夜の筈だった。然し今東京のビル群が何か違って見えた。どこを見ても何を見ても見覚えがあるのにも関わらず新鮮に煌びやかに見えたのである。月は、満月とまでは行かない中途半端な月は、俺の頭上に今日も変わらずある。然しそんな月を見て今の俺はまばゆい美しさのからか涙を流しそうになってしまった。

 さて、俺の気持ちはもう帰路に立っている。後は体が行動するのみである。俺は地下鉄の階段を軽快に降りて行き犇めき合う人混みの中に紛れた。街の灯りはあんなにも輝いていたのだから今日だけでも良いから俺の心も輝いてみよう。いつか必ず来る其の時の俺に其の時の俺に相応しい幸福を享受できる様ただ生きて行こう。今日だけはそう思ってみよう。

 電車の窓に映る俺も顔を見て今の俺は只静かに微笑んだ。

(了)

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