(27)

 ヴァネッサは獣のような声を発したあと、すすり泣きを始める。そんなヴァネッサを哀れに思うこともなく、レオンツィオは冷たい目で床にはいつくばる彼女を見下ろす。


「なんで、なんで、なんで、なんで……」


 口の中を切ったのか、舌足らずに同じ言葉を繰り返すヴァネッサは、本当に、心の底から己の愚かさを理解できないらしい。恐らく、地獄へ行っても自覚のないままに違いなかった。


 これでは父親であるマッシミリアーノが愛想を尽かすのも無理はない。とは言え、そんな風にヴァネッサを育てたのもまた彼ではあるのだが、レオンツィオにはどうでもいいことだった。


 血が繋がっていないというだけ事実ひとつでマッシミリアーノの、ヴァネッサに対する愛情はどこかへ行ってしまったことも、レオンツィオにとっては些細なことだ。


 正義感の強い人間であれば、その身勝手さに憤るだろうが、そんなものはレオンツィオは微塵も持ち合わせていない。


 父親と娘、という構図はレオンツィオとティーナにも当てはまる。けれどもレオンツィオのティーナに対する愛情は、マッシミリアーノのそれとは本質的に異なっていたので、やはりレオンツィオにはマッシミリアーノの気持ちはわからない。


 そもそもティーナはヴァネッサではなく、ヴァネッサはティーナではないし、なれもしない。レオンツィオにとってのティーナは娘でなくても可愛い存在で、娘であっても可愛い存在だ。


 ヴァネッサは、その足元に及びもしない。ただそれだけの事実が、レオンツィオに残酷な行いをさせる。


「レオナのバイト先にも地味な嫌がらせをしていたみたいだね。まあ、レオナはまったく気づいていなかったようだけれど」


 ティーナの雇い主であるオリエッタは、薄々ティーナを標的とした嫌がらせであることに気づいていた。だからこそティーナには悟られることをせず隠し、一足飛びにレオンツィオへミルコを通して伝えてきたくらいだ。


 ティーナが大事にされているのだと思うと、レオンツィオはうれしかった。前世でのティーナは仲間だ恩人だと義理人情に縛られていたが、大切にされていたわけではない。


 レオンツィオにとってティーナはかけがえのない存在だ。ティーナが、己が向けるのと同じようにだれかに大切にされている事実は、独占欲を刺激するものの、やはり喜ばしいという気持ちも湧く。


「な、なに笑ってるのよ……!?」


 ティーナのことを考えていたレオンツィオは、自然と口元に笑みを浮かべていた。そのことに指摘されて初めて気づいたレオンツィオは、「おっと」と言って手で口元を隠す。


 レオンツィオはティーナのことを考えて、実際に彼女に会いたくなった。なのでこの深夜の「ひと仕事」を終わらせることにする。


「……君にはなにを言っても無駄みたいだ。……うん。時間の無駄ってやつだね」


 部屋の扉を内側からノックして外に控えていた部下ふたりを呼び寄せる。男たちは室内に入ると無言でヴァネッサの腕を掴んで立ち上がらせた。


「いや! やめてよ! 触るなっ!」

「あー……うるさいなあ。なんて耳障りなんだ」


 ティーナと話しているときはおおよそ抱かない感情がレオンツィオの心にあらわれる。そうなるとますますティーナに会いたくなってくる。会って、言葉を交わして、この心の中にある暗雲のような気持ちを洗い流して欲しい。


 ティーナの一部にかつて己の血が流れていたことは、なんだかレオンツィオを不思議な気持ちにさせた。冷血だなんだと言われるレオンツィオと同じ血が、ティーナの半分を占めていただなんて、信じられない。


 血は水よりも濃いと言うが、ティーナのケースは違うようだ。血よりも環境の影響のほうが強かったのだろう。それはそれで、ちょっとだけ落胆したことをレオンツィオは思い出した。


 けれどもそれでよかったような気もする。己とそっくり双子のような人間を愛せる自信はレオンツィオにはなかった。となるとそれはレオンツィオにとっては幸運で、ティーナにとっては不幸なことなのかもしれない。


 ティーナは明らかに、レオンツィオにまつわる様々なことで、戸惑いのさなかにある。実の父親だったこと、無二の友人だったこと、恩人を手にかけた仇敵であること、夫候補のひとりであること……。


「あとはよろしく。テキトーにやっていいから」

「はい、ボス」


 明日にはヴァネッサの遺体がどこかであがるのだろうが、レオンツィオにはもはやどうでもいいことだった。レオンツィオの頭を支配するのは目障りなヴァネッサではなく、愛しいティーナなのだから。


 ティーナに今揺さぶりをかけるのは可哀想なのかもしれない。ティーナは明らかにレオンツィオに対してどういった態度を取るべきか悩んでいるのだ。善良なる大人であれば、待ってやるのが筋というものだろう。


 けれどもレオンツィオは善良からもっとも遠い場所に立つ人間だ。なんだったら、母親の胎内にそういうものを置いてきてしまったと言っても、過言ではない。


 レオンツィオはただ己の欲望に従ってティーナに会いに行くのだ。


 ……とは言え、ティーナの機嫌を損ねたり、気を悪くされたりするのは本意ではない。どちらにせよなにかと理由をつけて直接顔を見に行くつもりで、レオンツィオは部下に車を運転させ、その後部座席からティーナに電話をかけた。


「レオナ? 夜遅くにごめんね。まだ寝ていなかった?」

『はい……まだ起きていました』


 スピーカー越しではあったが、ティーナの声が優しくレオンツィオの耳朶を打つと、柄にもなく温かい気持ちになれる。先ほどまで抱いていた刺々しい感情が、丸くなって行くのがレオンツィオにはわかった。


 けれどもそんな様子は電話越しなのでティーナには伝わらない。ティーナはいつものよそよそしい声音で問う。


『……それで、なんの用ですか?』

「顔が見たくて」

『顔?』

「今から会いに行ってもいいかな?」


 もうすでにティーナに与えられたマンションへと向かっているのだが、そのことは伝えない。それでもまあ、「断られるかな」とレオンツィオは予測する。しかし――。


『……いいですよ』

「本当に?」

『ええ。でも、できれば早く来てください。明日も朝からバイトなので』

「うん、わかった。飛んで行くよ」

『……待ってます』


 どこかいつもより小さなティーナの声。その声を聞いて、レオンツィオは今目の前に彼女がいないことをもどかしく思う。今すぐにでも、抱きしめたい気持ちでいっぱいだったからだ。

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