(3)

『だいじょうぶですか?』

『はは……面目ない……』


 そうやって困ったように笑うレオンツィオのことを、今でもティーナは忘れられない。


 ガラの悪いチンピラに絡まれたティーナを、白馬に乗った王子様よろしく助けに入ったレオンツィオ。しかしあえなく殴られて、殴ったほうであるチンピラは、レオンツィオの登場に興がそがれたらしくその場を立ち去った。


 安っぽくはないが、高いわけでもないグレーのスーツに身を包み、尻もちをついているレオンツィオにティーナは手を差し伸べた。レオンツィオははにかんでティーナの手を取った。


 ティーナのひょろっとしていて頼りない手とは違い、ごつごつと筋張った男の手。その手を取っただけでティーナはレオンツィオはわざと殴られたのだとわかった。レオンツィオの手は、人を殴ったことのある手だとティーナは直感したのだ。


 それでもレオンツィオはあのチンピラを殴らなかった。それどころか黙って殴られてしまう始末だ。ティーナはそんなレオンツィオのことを甘ちゃんだと思った。……今考えると本当に見る目のない自分が、恥ずかしくなるが。


『ここはああいう連中がうろついている街だ。君みたいな可愛い子は歩かないほうがいい』


 レオンツィオの言葉にティーナはむずがゆさを覚える。「可愛い」なんてお世辞でだって言われたことがないし、自分が「可愛い」などとは口が裂けても言えないということをティーナは知っていた。


 金がないから投げ売りされている安い服を擦り切れるまで着て、化粧ひとつ知らないで。髪だって自分で散髪するから、「キマって」いるとは言えないことをわかっている。


 それでもそんなティーナをレオンツィオは「可愛い」と言った。枕詞みたいなものだと理解しつつも、年頃の娘であるティーナの心は一瞬だけ浮足立った。


 いたたまれなさと、喜びが入り混じった感情。まさかこれから何度もレオンツィオにそんな気持ちにさせられるなんて、ティーナは思いもしなかった。




「この子になにかあったら承知しないよ」

「やめてよオリエッタ。この人は――」

「ヤクザもんだからって、なにさ。あんたにもしなにかあったら、あたしは怒らずにはいられないんだよ」


 街の小さな喫茶店を切り盛りするオリエッタは、雇われのティーナにもなにかと気を回して世話を焼いてくれる、のいい女主人だ。けれども今だけは、その気性の荒さにはヒヤヒヤしてしまうティーナであった。


「マーリさんは私が責任を持って送り届けますので、ご心配なく」


 一方、釘を刺されたレオンツィオはさして気にした風でもなく、人好きのする笑みを浮かべてそう言い放つ。気分を害された様子はないが、レオンツィオが感情を隠すのが上手いことを知っているティーナは、気が気でない。


 きっと、オリエッタを殺すのなんてレオンツィオにかかれば一瞬だ。レオンツィオにはためらいがない。常人が持ち合わせている人を害することへの逡巡とか、そういった感情とは彼が無縁だということを、ティーナは痛いほど知っている。


 レオンツィオはマトモではない。そう見えるのは、見せかけの部分だけなのだ。


「それじゃあオリエッタ、わたしはもう行くから……」

「……気をつけるんだよ」


 オリエッタは最後まで納得が行っていないようだった。五人の子を育て上げた母親でもあるオリエッタからすれば、生まれてからずっと放置されていたティーナと突然会いたい、などと言ってくる輩は信用がならないのだろう。ティーナも、オリエッタと同じ気持ちだった。


 親の顔を知らずに育って、これからも知ることなんてないだろうと確信していたし、知りたくもなかったのに、これだ。


 しかし相手はヤクザ者。善意や好意があるかはわからないが、申し出を突っぱねてはあとが怖い。これだからヤクザ者はイヤなのだ、とティーナはため息をつきたくなった。


 店の前に乗りつけてある邪魔な黒塗りのセダンが目に留まる。その車の前で立っている若い男が、レオンツィオを見て頭を下げた。レオンツィオはそれを見て鷹揚に微笑む。


 恐らくこの若い男が先ほどレオンツィオが言っていた、「待たせている舎弟」なのだろう。がっちりとした筋肉質な体型からして、レオンツィオの護衛役も担っているのかもしれないとティーナは思う。


「レオナ、彼はミルコ。私の部下のひとりだよ」

「……レオンティーナ・マーリです」


 ミルコと紹介されたレオンツィオの舎弟は、仏頂面のままティーナにも頭を下げる。ティーナの存在が気に入らないのか、はてまた単に緊張していて顔が強張っているのかまでは、ティーナにはわからなかった。


 ミルコは頭を上げるとソツのない動きでセダンの扉を開ける。ティーナはレオンツィオに促されて先に乗り込んだ。


 こういうことをさせる、ということは、恐らく後部座席右の扉は内側から開けられないようになっているのだろうとティーナは推測する。レオンツィオはティーナを逃がす気は、毛の先ほども持ち合わせていないだろうから。


「そんな不安げな顔をしないで」


 後部座席に腰かけたふたりのあいだに静かな走行音が流れる中、レオンツィオはそんなこと言う。「寝言は寝てから言え」とティーナは胸中で吐き捨てる。


 これからこの土地一帯を支配するマフィアのボスの前へ、ティーナは引き立てられるのだ。それも、ボスの孫娘として。それを不安に思わない人間がいるとすれば、そいつはずいぶんとお気楽で幸せなやつに違いないとティーナは思う。


 膝の上でぎゅっと握りしめた拳の甲に、横から伸びてきたレオンツィオの指が触れる。レオンツィオがつけている黒い革手袋は、少しだけひんやりとしているような気がした。


「君は私が守る」

「……触らないでください」

「ごめんよ。そういうつもりじゃなかったんだけれど――」


 レオンツィオはパッと手を離す。また眉を下げて困ったような顔をする。人畜無害そうな顔をさせれば、レオンツィオの右に出る者はいないだろう。ティーナはずっと、レオンツィオの浮かべる微笑みに騙されてきた。


「……その口で『わたしを守る』だなんて、よく言えますね」


 ティーナの居場所も仲間も奪って、その心をずたずたに引き裂いたのは、ほかでもないレオンツィオだった。そして最期の瞬間だって――。


 レオンツィオはなにも言わなかった。いつもの滑りのいい舌を使って、耳触りのいい言い訳を口にすれば、ティーナはレオンツィオを嫌いになれただろう。けれどもレオンツィオはそうはしなかったから、ティーナの心は相変わらずぐちゃぐちゃのままだった。

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