第43話 地獄に落ちたのか?(前編)


 視覚の前に嗅覚きゅうかくが戻った。あたりに満ちる臭い……腐った水や肉の刺激臭に、吐き気をこらえて息をする。


 棘々した下草が体全体に触れている感覚がある。僕は手足を拘束されて、地面に転がされているようだった。

 僕の腕を後ろ手に縛るソレは、縄ではありえない、なめらかで湿度のある冷たさがする。おそらく、これは……

 

 身をよじってなんとか解けないか試していると、


「あんまり動くと、落ちますよ?」


 すぐ近くの頭上からした堰根の声に、動きを止める。

 落ちる?僕は高いところにいるのか?


 あたりをたしかめるため、まだ重たいまぶたを、なんとか開いた。ぼやけた視界でもはっきりとわかる、黒。


「すごいでしょう」

 

 対岸に古いやしろがあり、あの思い出の泉で間違いない。だが体育館ほどの広さがあった泉は、半分以下に縮んでいた。そして水面は真っ黒になり変わっている。この美しい水面は、夜でもわずかな光を反射して、ちらちらときらめくはずなのに。

 

 いや、水が黒いのではない。無いのだ。

 これは穴だ。地面にあいた底なしの陥没だ。


 ごうごうと闇の奥から低い音が響く。風が通る音のようで、もっと不気味な気配を帯びている。刺激臭もここからただよっている。

 地面に突然出現した穴は、僕達の世界にあってはいけないエラーやバグとしか思えない異様な光景だった。間違いなく、穴の下にあるのはこの世のものじゃない。

  

  

「いやはや良かった。聖地をダムで沈めるなどという、馬鹿げた計画、元々たち消える寸前でしたが、念の為にひと押しして正解でした」

 

 堰根はその光景を自慢するように言った。まだ足りないのか、僕への嫌がらせなのか、一人で話し続ける。 


「この地のことを知ったのは、まだ10代の頃でね。ようやくここまで辿り着けた。

 本が偽書ぎしょでないことは、書かれていた「人間の生命力から霊力を徴収する術式」を試してすぐに分かりましたよ。

 あれは便利です。私の異能でも起動できて効率がいい」


 堰根はしゃがむと、僕の足に巻き付くモノを指でつついた。予想はつくので見たくはなかったが、おそるおそる確認する。

 それは真っ白な人間のひじを、二つ繋いで輪にしたような代物だった。断面を溶かして接着したかのように、繋ぎ目がぼこりと盛り上がっている。


「死体をあやつる異能ですよ。こうやって加工してもいいし、生きてる風に見せて駒にもできる。よくできてるでしょう?」


 病院への道で襲ってきたゾンビは、廃村の術式ではなく、こいつ自身の異能だったのか。

 僕の腕を後ろで掴んでいるのも、死者の手なのだろう。あの土砂崩れの現場の白い手のような。みんな命を理不尽に奪われただけでなく、亡くなった後も尊厳を踏みにじられ続けるなんて、あまりにも無念だ。

 

「ただ、死んでると保存が大変でね。殺す時に手に入るわずかな霊力では、たいして保存期間は伸びないんです。それに異能は死んだ時点で消えてしまう。 

 やはり生者も操れたらと、つくづく思いますね」

「目的は……それか……?」


 再び立ち上がり僕を見下ろす堰根に、回らない舌でなんとか問い返す。


「目的?ええ、その通り。八淵洞やぶちどうの霊力があれば、保存期間は実質無限に伸びます。

 あの書にあった意識操作の術式を試せば、生者も操れるでしょう」 

「それで人を操って……何を……?」

「何を?」


 堰根は少し考えこんでいた。まさか僕に聞かれて、ようやく考え始めたというのか?


「ふむ、まぁ色々と便利に使いますよ。生きてる人間はたくさんいるから、面白いことは増えるでしょう」


 愕然がくぜんとする。こいつには操って成したい野望はないというのか?

 ただ何もかも自分の思い取りにしたいという、底なしにゆがんだ欲望だけでここまで来れるものなのか?


「…………はっ、低俗すぎて、意外だよ……」


 怒りと侮蔑ぶべつを込めて言い放つ。

 さっきまで自慢気にニヤついていた堰根は一転、顔をしかめ苛立いらだちをあらわにした。


「立場のわからない子供め。儀式のために生き永らえてるだけだというのに。

 こんなに早く起きるなら、面倒がらずに君の手首も切り落として、口に詰めておけばよかった」


 落とされた僕の手首はこいつの支配下に入るのだろうか。いや、待て。

 僕はある残酷な可能性に気がついた。

 

 金剛願こんごうがんは病院の周囲にいたゾンビたちを確かに消し去った。廃村の術式は無害だから残ったのであり、金剛願の効果を防ぐものではなかった。

 僕の手足を縛る遺体はなぜ今ここに在るのか。最もシンプルな答えは、ついさっき切り落として準備した、ということだ。


「命を……なんだと……!」

  

「私にはそれが赦されている。君だって何度も聞いた真理だろうが。

 君は家畜の肉を加工するのを酷いと思うのか?木を切って紙にするのは、植物が哀れだとでも?」


 何を言っているんだ?こいつは何の立場で物を考えているんだ?

 堰根は生まれながらに命を冒涜する能力を持ったせいで、完全に感覚がズレてしまっている。こんな異常者が、自らの異常性を肯定し崇拝すうはいする思想に触れてしまった。さらに霊力さえあれば限界を超えられると知り、底なしの欲望に火がついたのだ。


「たかが素材に肩入れするとは、本当に愚かだ。君も迫水くんも」


 醜い口で迫水先輩を侮辱ぶじょくするな。こいつに一瞬でも感謝したのがくやしい。僕を先輩のところへ向かわせたのは、異能が必要なタイミングで自殺でもされたら困るからなのだろう。


「せっかく強力な霊地と縁があり、才能に恵まれたというのに。

 特に君は、真理に目覚める機会すら与えられたのに、ふいにする馬鹿者だ。

 ならその八淵洞に繋がる脈、私が利用してもいいだろう。

 ……さて余計なおしゃべりはもうお終いだ」


 堰根は片足で僕の体を踏みつけた。腹に靴底がめり込む。


「ぐっ……!」


 僕を見下ろす堰根の目は真っ暗で、得体のしれない虫のようだった。

 その口角が裂けるように上がる。

 

「あぁ、命乞いなら今からでも聞きましょうか?

 君が病院でやったように、底から霊力を引き上げてくれるなら、穴に落とす必要はないんですよ?」 

 

 地面に転がり、身を守る術ひとつない無力な僕には、この状況を打開することはついにできなかった。

 それでも……心まで屈してやるものか。


 さいわい、舌のしびれはとれてきた。

 僕だって呪いの一族の末裔まつえいなのだ。あいにく呪文は一つも知らないが、吐く言葉にありったけを乗せてやる。

 

 奴の虫のような黒い目をにらみながら、僕は言い切った。


「どうぞ、穴でも地獄でも落とせよ。

 向こうについたら、お前も引きずり込んでやる」


 舌打ちを聞いた。

 その瞬間、足蹴にされて体が転がる。

 すぐに地面の終わりが来て、重力がぐらりと体にかかった。


 一瞬の浮遊感、背筋がゾクリと震える。

 落下はすぐに加速し、 穴のふちが、みるみる小さくなっていく。


 きっとあいつの、あんなやつの思い通りにはならない。これは行き当たりばったりの計画変更で隙だらけだ。霊力だけあれば何でもできるなら、あの村は滅びてない。たくさんの恨みを買って、破滅に向かうに違いない。

 

 ても僕はもう戻れないんだろう。ぐんぐん遠くなる地上を見て思うのは、どうしようもない寂しさだった。子どもの時に車の後部座席から、楽しかった場所が小さくなっていくのを、ただ見ているしかないような。

  

 すぐに針のような光すら見えなくなった。真っ暗闇で、落下を実感できなくなる。

 底はまだ先か。いや、底なんてあるのか。


 暗闇に締め上げられているような感覚がした。気のせいではなく、落ちるほど圧力が上がっている。息を吸おうとしたのに、胸を押さえつけられてるから出来なかった。

 酸素の足りない体が、血を巡らせるため心臓を早く動かす。生きたいという胸の奥の叫びを聞いて、ようやく僕は恐怖と向き合った。このまま底に落ちる前に、窒息するのか、それとも押し潰されてしまうのか。いずれにせよ結果は一つ。

 

 死だ。ひとりぼっちで、僕はここで死ぬんだ。



 ――その時、青い光点が見えた。


 もちろん地上じゃない。僕が向かっていく地下の方から。その光は気づいた一瞬後には、僕の目の前に広がってー――

 

 

 

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