終章

第34話 決別の時



「ニーちゃん、おいしい?」

 

 お腹をすかせていた子猫は、フードを夢中でぱくぱく食べていた。遅くなってごめんね。ひとしきり泣くより先にあげるべきだったね。


 食べ終わった皿を流しに置いて、ニーちゃんを抱きかかえ、ベッドの上に座った。

 

 ニーちゃんが生きていてくれてよかった。ここに一人きりだったら発狂していた。こうして馬鹿正直に猫の世話をすることで少しは気がまぎれる。


 電気がつかない部屋で雨の音だけを聞きながら、僕はただうずくまっていた。携帯はあるが、かけてもなんになると言うのだろう。誰がこの状況から僕と先輩を助けてくれるというのか。

 そして僕にこれ以上何ができるというのか。

 

 孤独と無力感と、濡れた服の寒さが体を縮ませる。そうして、しばらく時間がたった。

 

 ふと気がつく。窓の外が騒がしい。


 

『……淵市……ら……緊急……です…です…』 

「広報……?」

 

 反響しすぎて、よくわからなくなっている広報の音のようだった。

 胸がざわざわする。放送を聞くために窓を開け、身を少し乗り出す。

 

「ニー!」

「――あっ!!」


 バカだ。なぜ抱っこしたまま窓を開けてしまった。ニーちゃんは腕をすり抜けて室外機の上にトンと乗った。腕を伸ばす間もなく、すぐ下の地面に飛び降りる。足が悪いのに、器用な身のこなしだった。

 

 急いで靴を履き、アパートの裏手に回る。まだ遠くには行っていないはずだ。


「待って、ニーちゃん!」


 迫水先輩の部屋は一階の奥側の角部屋だが、ニーちゃんは軒下のきしたを歩き、反対側へと向かっていた。とてとて、びっこを引きながらニーちゃんは雨の中に踏み出す。


「待って――あっ!」


 焦って走っていたせいで、軒下から地面に踏み込んだ瞬間、ぬかるみに足を取られて転ぶ。ニーちゃんは振り返って止まった。転けて視線が下がった僕を、不思議そうに見つめている。


「戻ってきて……お願いだから……」


 とてとて、僕の懇願こんがんを無視してニーちゃんは歩いていく。


「……だめだよ、いかないでよ……」


 また目頭が熱くなる。君にまで置いていかれたら、今度こそ僕はどうにかなってしまう。


「ニー」


 遠くにも聞こえるように、大きな声でニーちゃんは鳴いた。僕に語りかけるように。


 ――どうして?追いかけて来ればいいのに


 そう言っているように聞こえた。

 ニーちゃんは囚われていないんだ。僕もこうして部屋の外には出れている。扉に鍵などかかっていなかった。閉じこもっていたのは、現実から逃げようとした僕の弱い心だ。


 震える足で立ち上がる。そのまま前に真っ直ぐ走り出す。ニーちゃんは逃げたりしなかった。僕はこの子を抱き上げて、そのままマンションの出口に走った。

 あの暗い部屋を背にして、混乱の街に踏み出すと決めた。

 


 

「――地区の洪水浸水想定区域にいる方、または浸水のおそれのある区域の方は、すみやかに避難してください。避難場所は――」

 

 公共放送が聞こえる。いつのまにか電気も復活していたようだが、この地域には既に避難指示が出ている。

 とにかく雨宿りがしたい。僕は忌々いまいましい地下道と反対側に走り、近くに見えた道路の高架下に向かった。

 

 一息つく。ずぶ濡れの制服が体に貼り付き、冷たい水がしみ込む。ただ今は走ったから体はむしろ暑いくらいだ。

 ニーちゃんも毛が濡れてしまったが、とりあえず元気そうだった。


 迫水先輩のお願いを破ってしまったことは、僕の心を引きずっている。でもあの部屋に居続けたら、あれきり二度と会えない気がする。それこそ一番嫌だ。 


 状況を投げ出さず、落ち着いて考えよう。僕がまずやるべきことは、夕子さんへの連絡だ。学校を抜けて行方がわからない僕を心配しているに違いない。 


 電話帳を開く。都築の、家族の並びの中にいる幹也さんの名前を見て胸がぎゅっと痛んだ。何度かけても出ない番号が、そこにあるのがつらかった。

 そしてもう一つの、普段は無視していたある名前が、今日はやけに目についた。

 なぜか指がその名前に吸い寄せられた。きっと出来心だ。押した瞬間に後悔した。すぐに切ろうとして、


「なんだ」


 なんであなたは1コールで出るんだ……

 それは都築広城つづきひろき、久しぶりに聞いた父親の声だった。


「――――なんだ、って」

「お前どこにいるんだ?いなくなったと連絡があったが、私にかけている余裕があるんだな。ならとっと屋敷に戻れ!もうじっとしていろ」

「――は?状況わかってるんですか?」

「分かってるから言ってるんだ」

「街が洪水で沈むかもしれないんですよ?」

 

「そんなものは自然現象だ!ああ、それに、川が決壊しても沈むのは第三工場だけだ。あそこはもう古いし、主力の第一と海外拠点が無事なら事業はどうとでもなる」

「…………」


 耳を疑った。まさかここまで見下げ果てた人間だとは思っていなった。


「……その、どうとでもなる洪水を防ぐために生贄を捧げてきたっていうんですか?」

「な……!お前、誰からそれを」

「幹也さんから。そして夕子さんから。あなたが帰ってこないから当然です」

「余計なことを……」

「余計ではなく、必要なことでしょう」


 最初の質問に答えろ。逃げても話を戻すからな。


「一族がやっている負の事業です。受け継いで、ちゃんと終わらせるまで罪を背負うのは僕たちのはずです。洪水が二度と起こらないよう治水工事を完了させて、街を守り切る義務がある。

 そうでなければ犠牲になった命に合わせる顔がない……。

 でもあなたは違うんですね?街が沈んでもいいと思っている。なら、なぜ生贄をいっそやめさせなかったんですか?」

「……知ったような口で話すな!まだお前はあの場所のおかしさも何も知らないだろうが!生きて止められる代物じゃないんだ!」

「そうですね。じゃあなぜ、ダム事業を再開しなかったんですか?」


 僕だって生贄を無策で止めて洪水を起こせとは思っていない。大勢の人命と生活がかかっているのだ。それを無視できるのは父くらい無責任な人間だけだ。

 僕が聞きたいのは、迫水先輩に指摘されて言い返せなかった正論の方だ。どう答えてくれるのか?


「ははっ、それこそ分からないのか?新規ダム建設なんて一企業がどうこうできる規模じゃない。国が税金を何百億とつぎ込むんだ。もうそんな公共事業がぽんぽん出来るような時代じゃない。

 特ににはな」


 そう言った父の口調は、小学生の頃、僕が塾のテキストで間違えた計算を指摘する時と似ていた。

 もう電話を切ろう。これ以上話す価値なんてない。


「そもそも今マズいのはシステムがどうこうの話じゃなく、この現代にまだオカルトをやろうとするイカれたテロリストの方だろう。幹也はどうした?」

「幹也さんは――安否が分かりません」

「は??まさか死んだのか?」

「…………」


 あえてぼかした言葉を無遠慮にぶつけられた。父の声は明らかに動揺している。

 

「あいつ、あれだけ市外どころか海外に行きたがって、実際に行けたのに。何故わざわざ一番危険な時に戻った?馬鹿め」


 馬鹿はお前の方だ。

 

「――いい加減にしろよ」

「親に向かってなんだその口の聞き方は!」

「親らしいことをしてるのか?安全圏に引きこもって、立ち向かった人まで馬鹿にして。それで責任から逃げ切れるつもりか?」


 激昂する父に合わせないよう、僕はあえて静かに話す。

 

「都築化学はグローバル企業だ!いつまでも田舎の呪われた土地に縛られてたまるか!」

「出て行きたいなら、始末をつけてからにしろ。それで苦しんでる人がいるんだ」

「知ったことか、俺のせいじゃない。こんな負債を引き継いでたまるか。お前だって別に、無視していいんだ。じっとしてろ!」


 大きく息を吸う。


「――そうだ、僕たちのせいじゃない」


 携帯を握りしめる手が、痛いほど強くなる。そのまま地面に叩きつけたいほどの衝動を、この言葉に乗せてやる。

 

「でも、僕がどうにかしたいんだ。なりたくないんだよ、アンタみたいな奴には!!!」

「なんだと、」


 ツー、ツー、


 返事を聞く前に電話を切った。

 言ってやった。言い切ってはじめて、自分の本気がはっきりした。これでよかったんだ。


 ――プァン!


 クラクションの短い音、いつのまにか一台の黒い車が少し向こうに停まっていた。

 運転席から黒いスーツの男が出てくる。


葛西かさいさん!」


 短い黒髪をビジネスマンらしく整えた、真面目な雰囲気の彼に迎えに来てもらったのは何度目になるだろう。葛西さんが僕の分の傘を持って、こちらに歩いてくる。

 張り詰めていた肩から、力が抜けていくのを感じだ。


 

 


 


 

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