第23話 月は出ているのに


「大丈夫?汗すごいしけっこう熱出てる感じ?」


 梢さんが保健室のベッドで寝る僕を心配そうにのぞき込んでいる。

 今測ったら平熱より高いだろうな。汗をかいてぐったりしている理由は当然、ついさっきまで走ってきたからだ。グラウンドではない所を往復で走るのは想像以上にキツかった。布団ふとんは暑くてしょうがないが、もうしばらく立ち上がりたくはない。


「休んだら気持ち悪さは治ってきたので、帰ってもう少し寝れば大丈夫かと……」


 とはいえ本当に病院に連れて行かれてはまずい。それらしい説明をして誤魔化した。僕は帰宅してから貰った風邪薬を飲んだふりをして、自室で再び横になるのだった。



 真っ暗な部屋で目が覚める。枕元の時計を見ると22時ちょうどだった。遅い時間ではあるが、何もできないほど深夜ではない。今日はまだ地下室での作業をしていないのだ。

 何事もなく帰ってこれたとはいえ、幹也さんの言いつけを破ってしまったことへの後ろめたさがあった。僕は着替えて本館へ向かう。外に出ると、雨は4日ぶりにぽつぽつとした小雨にまで弱まっていた。


「あっ、マサキ!起きてたの、調子どう?」

「寝たら治りました。ご心配おかけしました……その荷物は?」


 屋敷に入り、地階に降りる前に呼び止められる。2階から降りてきた梢さんは、旅行用と思われる大きな鞄をお手伝いさんに預けているところだった。


「ママがね、こっちに来てもいいよって。東京ならホテルから出なければ好きにしていいんだって。中にプールもエステもお店もあるし、うちにいるよりいいよね。というわけで梢さんはリフレッシュしてきます」

「それはよかった。いってらっしゃい」


 梢さんはストレスをためていたから、街から出られるなら僕も安心だ。しかし彼女は少しばつが悪そうだった。


「あのさ、ママはマサキも一緒に連れてくつもりだったんだよ。でもなんかダメだったみたいで……」

「僕のことは全然、気にせず楽しんできてください」

「うん…。お土産は期待しといて。いや〜、梢さんいなくなったらこの家ますます暗くなっちゃうかもな〜!」

「それは事実そうかもしれない」

「おっ、嬉しいね。やっぱり可愛くて明るい梢さんが必よ」


 その時だった。

 急に地階への階段から走ってくる足音に、梢さんも思わず声を止める。ただならぬ勢いで誰かが僕たちの横を通り過ぎていった。いや、そんなことをするのは一人しかいない。


「幹也さん!何があったんですか!」


 遠くなっていく背中に声をかける。

 もう玄関へと曲がる直前だった幹也さんは急停止し、振り向いた。


「正城、今日はいいから寝ろ。梢は明日朝一で出な」


 彼はそれだけ言い捨てると走っていった。

 見たことがないあせりの表情。悪い予想をなお上回ったかのような、困惑と動揺どうようを浮かべる幹也さんの姿に、僕も梢さんも黙るしかなかった。僕達にはどうしようもない事態になっているという事だけが、はっきりと分かった。


「……じゃあ、また明日。早いから会えないかもだけど」

「おやすみなさい。僕も部屋に戻ります」

「あのさ、別に何をしてくれってわけじゃないけどさ。兄貴のことよろしく頼むね」

「梢さん…僕にできることなら何でも」

「ま、アイツの仕事はアイツが何とかしてほしいけどね。じゃあね!」


 梢さんは足早に2階に戻っていった。

 僕も離れへ戻るため外に出る。雨は降っていない。もちろん幹也さんの姿はなく、夜中の静寂せいじゃくだけがあった。


 だが急に、その静けさを破り、携帯から通話の着信音が流れた。こんな時間に緊急の電話をかけてくる心当たりは幹也さんしかいない。急いで携帯を取り出し画面を確認する。


「えっ、先輩?」


 画面には迫水辰と表示されていた。何かあったのだろうか、すぐに出る。


「先輩、どうかしたんですか?」

「いや大丈夫、そういうわけじゃない。もしかして寝てた?」


 先輩の声は夕方に聞いた時よりずっと普段の調子に戻っていて、大丈夫という言葉が強がりではない事にほっとする。きっと良くなってきたから僕に連絡してきたのだろう。


「全然起きてますよ。先輩こそ体調はどうですか?」

「気分がすっきりしてきた。なんだか久しぶりな気がするよ。そしたら君の声が聞きたくなって」

「よかった!そういえば、雨がやんで月も見えてますね。これも久しぶりな気がするなぁ」


 そう、月が出ている。先輩のことがあり僕は最近いつも空の具合を気にしていて、その度にため息をついていたから、さっき外に出た時に気づいたのだ。空には月が白く輝いていることに。


「月?本当に?」


 電話の向こうで先輩が窓をあける。すると外の雑音がきこえてきた。

 かなりの人数の声と、大きな音……サイレン?パトカーの音だろうか?


「なんだか深夜の割に騒々そうぞうしいですね」

「あぁ、上の階で事件があったからね」

「え?」


 事件という単語に驚いている僕に、先輩はその内容を話し続ける。


「上の階、若い女の人が借りてて、そこに外国人の男を連れ込んで、その周辺の変な奴らの溜まり場になっていたんだが、男の一人が部屋で死んでたらしい」

「死んだって……。自殺ですか?他殺ですか?物騒ぶっそう過ぎますよ」

「さぁ。パトカーがこれだけ来るんだし、事件性はあるんじゃないか?まぁうらみを買っていたんだろう。あの部屋からは男の怒鳴どなり声がしょっちゅう聞こえてきてたしな。他の部屋の人間には関係ない話だ」

「でも怖いですよ。一刻も早く引っ越したほうが」

「そうだね。まぁ、考えとくよ」


 先輩の声は恐ろしく淡々たんたんとしていた。すぐ隣の部屋の異常事態なのに、遠い海の向こうの戦争の話をするよりも当事者感が薄い、不思議な雰囲気だった。


「あぁ、残念。月、部屋の窓からは見えなかった。外には出たくないし仕方ないな」

「家の中に居ましょう絶対。でも警察の人、先輩に事情聴取とかしてきそうですね」

「さすがに明日じゃないか?寝てたとしか言えないから困ったな」

「事実だし捜査に協力できないのは仕方ないですよ。いや、まさかアリバイがないとかで…」

「ははっ、探偵ドラマじゃないんだから。まぁ怪しまれないよう、今夜はもう静かにするよ。

 ありがとうマサキ、電話に出てくれて」

 

「こっちこそ嬉しいです。また学校で続きを色々話しましょう」

「……うん。また行けたら月曜に。じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」


 通話が切れて、夜の静寂がまた僕を包んだ。


 先輩の体調が良くなって、懸念けねんが一つ消えたはずなのに、妙に不安で寂しい感覚が胸を締め付ける。それを振り払うように、僕は自分の部屋への道を急いだ。



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