物語のカケラ
胡白
迷子の僕
突然足元から地面が消えた。内臓がひっくり返るような浮遊感。足の裏で何もない空間を蹴り上げる。重力に逆らいきれなかった毛が逆立ち天を突き刺す。耳元では風を切る音がする。僕は、今、落ちていた。
「かあさん」
このまま地面に叩きつけられて死ぬんだ。助けを求めるように頭の中でこの場にはいない母さんを呼ぶ。もう二度と会えることはないだろう。だって死んでしまうのだから。
「なーにビビった声出してんだよ。お前のお母さんを探しに行くんだろ?」
僕を地面のない所に落とした張本人が後ろでニヤニヤと笑う。このお兄さんに助けを求めたのが間違いだった。いやこの街を訪れたことすらよくなかったのかもしれない。そうすれば母さんとはぐれることも、空を舞うことさえなかった。この街、チェーロに足を踏み入れさえしなければよかったのだ。
「ごちゃごちゃ難しいことを考えんな。お前はこの空の上から探しているものだけを探しておけばいいんだよ」
永遠にも感じられた空中浮遊。それ自体は時間はそれほど経過していなかったと思う。お腹にかかる衝撃、それと同時に僕の自由落下は終わりを告げた。
「ミケーレさん、いたい……」
「痛かったか、悪かったな。生き物を運ぶ機会なんて今までなかったからな」
僕はお兄さん、ことミケーレさんに抱えられ郵便局の建物の屋上から自由落下していた。いやさせられたと言った方が正しいかもしれない。
「それならもうちょっとやさしく運んでよ」
「次から気をつけるわ。それじゃあお前のお母さんを探そうな」
わしゃわしゃと荒く頭を撫でてくるミケーレさん。いつも優しく撫でてくれる母さんとは似ても似つかないけど温かい手が母さんを思い出させた。
そもそも僕らがこの郵便配達員が空を駆ける街、チェーロへやってきたのは母さんの休暇を利用したバカンスが目的だった。
「ねぇ、アルバ。チェーロはね、海に面した小さな街で山の斜面にびっしりと建物が立ち並んでいるの。山の頂上にあたる場所には郵便局があるのよ。郵便局からは配達員が出てきて建物の屋根を伝って郵便を配達しながら山を下っていくの。その屋根を渡っていく様子が空を駆けるようで見事なんですって」
「母さんはそれが見たいの?」
「アルバも見たいでしょう? 今度の休暇に一緒に行きましょうね」
「うん!」
そうやって僕は母さんとチェーロへとやってきたのだ。それなのにまさか来て早々に母さんとはぐれてしまうなんて思ってもみなかった。
「かあさん、どこ?」
母さんと来た公園で走り回っていたのにいつのまにか母さんの姿はどこにもなかった。どうしてだろう、家族連れや友達と来ているであろう人たちはいっぱいいるが母さんはいない。僕は焦って走り回る。
完全にはぐれてしまった。そう気がついてしまうとペタンと地面に座りこむ。どうしよう、知らない土地で母さんとはぐれてしまうなんて。
泣きそうになって下を向くと影ができる。なにかと腕を向くと郵便配達員のお兄さんが僕を見下ろしていた。
「あれ、お前綺麗なお姉さんと一緒に海岸を歩いてただろ。一人でどうしたんだよ」
「僕の母さんに手を出すなよ!」
「あー言い方が悪かったか。はぐれたのか?」
「うん、母さんとはぐれたの」
「はぐれたみたいだな、よし、俺がお前の……お母さんを探してやるよ!」
「ほんと?」
身長が高いお兄さんを僕は必死に見上げると目線を合わせるようにしゃがんで話しかけてくれる。
「大船に乗ったつもりでいろよ!それじゃあまずは郵便局に行くか」
「なんで郵便局に?」
「俺も仕事しないといけないしな、それに郵便局から人探しするのがスタートするのが一番効果的なんたよ。お前もすぐわかるさ!」
「わかった!」
「俺はミケーレ。お前の名前は?」
「アルバだよ!」
「アルバ、か。いい名前をつけてもらったんだな」
ミケーレは僕の方を見ると名前を呼んで頭を撫でてくれた。
「それじゃあ、お前のお母さんを探しに行くか」
「うん!」
「探すなら高いところからだな、よし俺の職場からスタートするぞ」
そう言って僕はミケーレに抱き上げられた。スッと高くなる視界は母さんに抱っこしてもらう時より高くてとても新鮮だ。
「すごい!高い!」
「楽しいか?これからもっと高いところに行くからな」
「これより高いところ?」
「あそこの山の上に建物があるだろ?あそこが俺の職場の郵便局だ。まずは郵便局まで戻ってそこから仕事、郵便配達しながらお前のお母さんを探そうな」
「わかった!」
僕はいいお返事をしたが何もわかっていなかった。郵便局にはミケーレがワイヤーを使って斜面にいっぱい建っている家の屋根を登り、どんどんと山を登っていく。その最中にもポストに次々とお手紙を入れていっていた。
そして郵便局にやってきたミケーレは郵便局の人たちに挨拶をすると街を見渡せる屋上へと上がっていく。
「ここからどうやって街におりるの?」
「そう焦るなって。準備はいいか?行くぞ」
ミケーレがそう言って屋上の端に立つ。僕はミケーレの腕の中から下を見る。下にずっーと斜面に沿ってお家の屋根が広がっているのが見える。階段もスロープもないけどどうやって降りるのだろうか。
僕の頭にはてなマークが飛んでいるのがわかったのか頭を撫でてくれるとそのまま屋上から落ちた。何もない空間へと落ちていく。そして冒頭のやりとりとなった。
僕は気がつけばぶらーんとお腹を抱えられてミケーレさんにぶら下がっていた。何が起こったのかと上を見るとミケーレさんがワイヤーで屋上からぶら下がっている。
「怖かったな、悪かった。すぐ地面に着くからな」
そう言ってミケーレは下のお家の屋根に着地する。
「地面じゃない……」
「ほら、着地できた。いつもこうやって移動してるから慣れてないと恐怖を覚えるの、失念してたんだ。悪かったからそんなに怒るなって」
「すごく怖かったんだからね!」
「でもこうやって上から見ると探しやすいだろ?」
「うん!すごいね、ミケーレ!」
「おっ機嫌が戻ったな」
まだ怖いので恐る恐るミケーレさんの腕の中から下を見ると街の人たちが行き交っているのが見える。これなら母さんを見つけることができるかもしれない。
「俺もお前のお母さんの姿を知ってるけどお前の方がすぐ見つけられるだろうからな。見つけたら教えてくれよ。俺は仕事もやらないといけないから」
「うん、わかった!」
「いい返事だ、それじゃあ行くぞ」
ミケーレさんは手紙の束を持ちつつ僕を抱き直すと屋根から屋根へと移動し始めた。次々と流れていく景色を見つつ僕は必死に母さんの姿を探す。これで見つけられなかったら母さんとは二度と会えないかもしれない。その恐怖から必死に母さんの影を見逃さないように見渡した。
ミケーレは屋根づたいに移動して行き時おり道に降りてカバンから取り出した手紙をポストに投函し、たまに街の人たちに話しかけられ会話をする。僕もその中でいろんな人に撫でてもらい、母さんを見なかったか聞くが誰もわからない、と首を振るだけだった。
そうやってお手紙を配達していくミケーレと僕を呼び止める人がいた。かわいいカフェのお姉さんがミケーレに抱かれた僕を見て話しかけてくる。
「あら、ミケーレ。かわいこちゃん連れてるのね。仕事はどうしたの?」
「ちゃんと配達はやってるさ。それと、今はこのかわいこちゃん、アルバの親御さん探しも仕事の一部ってね」
「あら、アルバくん迷子なの。それでミケーレが連れて歩いてるのね」
「上から見た方が探しやすいだろ?」
「確かにそうね。でもアルバくん、助けを求めた先がミケーレだったのは災難だったわね。この男、扱いが手荒いでしょう?」
「そうなんだよ」
「サーラもアルバも酷いな。俺ほど優しい人間はいないだろ?」
「どの口がそんなこと言うのよ」
「僕をいきなり落としたじゃん」
「ほら、アルバもそう言ってるわよ」
「おかしいな、俺と君たちとでは時空が歪んでいるようだ」
「歪んでいるのは時空じゃなくてミケーレの認識よ」
サーラはあははは、と笑いながらミケーレの肩を叩く。そして僕の頭を撫でてこう言ってくれた。
「早くお母さんと再会できるといいわね、おチビさん」
「ありがとう!」
「それじゃあ、アルバのお母さん探し、再会するか」
「うん!」
サーラに別れを告げてアルバはまた屋根の上に戻っていく。
ミケーレは郵便配達を再会しつつ移動していくと、どこか見覚えのあるようなあたりまでやってきた。
「あの辺りがお前と会った公園があったところだからよく探せよ。灯台下暗しって言うだろ」
「わかった!」
『とうだいもとくらし』というのはよくわからないが公園で母さんとはぐれたのだから公園あたりにいるかもしれない、というのは納得できた。
必死にあたりを見渡して母さんの姿を探す。毎日抱きしめてくれた暖かさ、あの手。一緒にお散歩した時の足音。いけないことをした時の厳しい声と褒めてくれた時の優しい声。母さんの全てを思い出しながら姿を探す。
たくさんの人が行き来しているのに、こんなにも人がいるのに母さんの姿を見つけることはできない。もう会えないのではないか。もう二度と母さんに抱きしめてもらうことはできないのではないかと思った瞬間。
「いたっ!ミケーレ、母さんがいた!」
もう会えないんじゃないかと思い泣きそうになりながらも探していた。するといろんな人の中から母さんを見つけることができた。不安そうな顔をしてあたりを見渡し、道行く人に声をかけている。
「アルバ、わかった、わかったから暴れるな!」
「かあさんいたの!」
「落ちるから、暴れるなって!」
ミケーレに必死にそう言うとミケーレは慌てて僕を抱きしめつつ屋根から道へと降りていった。常にバランスよく降りていたミケーレが少しバランスを崩しつつ道へと降り立つと僕を地面へと下ろしてくれる。
地面に足がついた瞬間に僕は母さんの元へと駆け出して行った。
「アルバっ!」
「かあさん!」
「やれやれ、感動の再会ってところだな」
たった数時間ぶりの母さんとの再会だが僕は泣きそうになる。必死に母さんに走り寄ると母さんはぎゅっと抱きしめてくれた。
「ごめんね、怖かったね」
「かあさん、あえてよかった。もう死んじゃうかとおもったんだよ」
「うんうん、怖かったよね、ごめんね。もう離さないからね」
母さんは僕を撫でまわして怪我がないか確かめてくれる。大丈夫だよ、ミケーレが守って一緒に探してくれたんだ。
「アルバのお母さん?」
「はい、アルバと一緒にいてくれてありがとうございました。でもよく分かりましたね」
「こんな綺麗な女性を忘れることなんてイタリア紳士としてはありえませんから。それとね、アルバが教えてくれたんですよ」
「アルバが?」
「ええ、あなたを見つけると吠えて暴れはしないんですけど尻尾が大騒ぎして危うく落ちそうになりました」
「郵便配達員さんでもそんなことがあるんですね」
「俺たちが運ぶのは荷物と手紙だけですからね。生き物を運んだのは初めてです」
「あはは、アルバはまだ子どもだから抱っこできたんですね」
「でももうすぐ抱っこできなくなるぐらい大きくなってしまうんですよね」
「犬の成長は早いですからね。ねー、アルバ」
「うん、かあさんもミケーレだっておいこすんだから」
「何言ってんのか分からないんだけど言いたいことは雰囲気でわかる素直ないい子ですね」
「私の自慢の息子ですから」
そう、僕はイギリスで生まれて母さんと一緒にイタリアで育ったゴールデンレトリバー。母さんは人間で僕は犬だけど僕は母さんの息子なんだ。
「それでは、無事にアルバくんをお母さんの元へ配達できたということで。私の仕事はここまでです。どうぞ、チェーロで楽しい時間をお過ごしください」
「ありがとう、ミケーレ。あなたに神のご加護があらんことを」
「それじゃあな、アルバ」
「ミケーレ、ありがとう」
ミケーレがしゃがんで別れの挨拶をしてくれるので僕はミケーレの顔を舐めまわす。ミケーレは笑いながらも僕の頭を撫でてくれた。母さんはその光景を見て笑ってる。僕は空の下、ひとつ吠えた。
今日はとてもいい日だった。僕が人間だったら今日あったことを全部日記に残しておくぐらい楽しかった。死ぬかと思うこともあったけどここ、チェーロでの旅は残りの時間もとても楽しい時間になると思う。僕はそう思った。
終わり
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