恋愛は、どん底から始めれば負けはない。

久我📭

第1話 交差。



 終わった。

 人生が終わった。


 というか、もう人生をやり続ける気力がなくなった。


 決意の足取りで校舎の屋上に行くと、フェンスの向こうに先客がいた。


 ほう。なかなかの美少女。腰まで届く、絹糸のように繊細な黒い髪。透き通った切れ長の瞳、透き通るような白い肌、桜色のくちびる。

 さらに視線を動かすと、フェンスのこちら側には、そろえられた革靴。その下には封書があり、達筆な字で『遺書』とある。


「手書きの遺書だと?」


 いまどき遺書なんてものはスマホのメモアプリにでも書いておくものだと思ったが。


 本物だ。

 彼女は、本物だ。


 彼女は俺に気づいたようで、こちらを見やった。


「説得しても無駄だから」


 なんて透き通った瞳だろう。そしてなんて真剣で美しい光を放っているのだろうか。


 彼女は心の底から飛び降りようとしている。


 湧き上がるは尊敬の念。彼女こそ、朝食にベーコンエッグを作るような気持ちで、一歩を踏み出せる人に違いない。


「見届けさせてほしい」


「え? とめないの?」


 と、彼女は意外そうな表情。


 わかるぞ、いまのあなたの気持ちは。同士を見つけた歓びに満ちているに違いない。だいたい、人さまの死にざまを止めようとすることほど無粋なものはない。


「君の覚悟を貶すのようなことはしないさ。そこから飛び降りて、頭がグチャグチャになる。確実に退場できる」


 中途半端な高さというのが、いちばんはた迷惑だろう。そこいくと、ここの高さは基準をクリア。落ちた先もコンクリだし。


 彼女は冷ややかな眼差しを、おれから離して、足元へと向けた。


「ふむ。頭部がグチャるのは考えものね」


「なぜ?」


「可愛いわたしの顔が台無しじゃない」


 呆れた。


「細かいことを気にする奴だなぁ」


「細かいことではないでしょ。どうせなら綺麗なまま、天国に旅立ちたいじゃない」


 なんだ、この女は。天国なんてものを、まさか本気で信じているのか。仮に天国が存在するとしても(そんな都合のいいものがあってたまるか)、死んだ肉体は関係ないだろ。


 少女が軽やかな身のこなしで、フェンスをよじのぼってきた。フェンスのてっぺんをまたいで、ジャンプ。スカートがひるがえり、下着が見えた。


 優雅に着地。


 おれはすっかり醒めた気持ちで尋ねた。


「おい、飛び降りは?」


「やめたわ」


 手書きの素晴らしい遺書を手にとってから、革靴をはきはじめる。ふと思いついて、おれはその手から遺書を奪い取った。


「なにするのよ?」


 遺書を開いてみたが、何も書かれていない。白紙だ。表紙にだけは達筆な字で『遺書』とあるだけのまがい物。


「くそ。インチキだったか。お前、さては『死んでやる』とか騒いで、他人に構ってほしいだけだったな」


 詐欺だ。これは絶対的な詐欺だ。俺の純粋なる尊敬の念を返せ。


 俺が非難の眼差しを向けると、女は不愉快そうに答えた。


「インチキとは失礼ね。あなたが邪魔しに来なければ、わたしは確実に飛び降りていたわ。明瞭にして、純粋に」


 おれはインチキ遺書を破って、風に飛ばした。


「白紙でか?」


「書くことが思いつかなかっただけよ。知ってた? 『退部届』の書き方はすぐにネット検索できても、自殺用の『遺書』の書き方は出てこないのよね。なんのためのネットかしら」


「はぁ?」


「とにかく、文句があるなら、どうぞ」


 と言って、女はフェンスを指さす。いや、そのさらに向こう側を。


「なんだって?」


「わたしのかわりに、あなたが飛び降りたら?」


 俺は鼻で笑ってやった。


「バカか。人生をやめたいからといって、無に帰りたいわけでもない。死んでたまるか」


 だから生きるのは辛く苦しいわけだ。この女は、本質が分かっていない。


「ふーん、変人ね」


「はっ?」


 あまりにとんでもない暴言を吐かれたので、脳味噌が理解するのに23秒もかかった。

 この俺が、変人だと?


「ふざけたことを──」


 そのときには、すでに屋上から、さっきの女は消えていた。


 これが西塔紗季との出会いだったわけだが。


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