夢ノ航海

ちくわ書房

第1話 夢の船

「いらっしゃいませ!」

「お、今日も卯羅ちゃん元気だねぇ」

 からんころん、と少し籠ったような鐘の音と共に、常連のおじさまがお二人様。熱い御手拭きと、お冷やを持っていく。

「いつもの二っつね」

「はあい」

 今度はマスターの所に戻って、注文を伝える。「広津さん、ブレンド二つ」

 母様の働く、カフェーをお手伝いして早数年。女手一つで私を育てて、女学校まで行かせてくれた。職業婦人でも善いかなと思ったけど、学生時代に会った人が凡てを変えた。

「ブレンド二つ。そこの豆菓子を付けてさしあげなさい」

「はあい」

 マスターは職人気質で寡黙。珈琲博士。サイフォンを使って淹れてる姿は、魔術師のよう。

「はい、おまちどう」

「卯羅ちゃんの笑顔は可愛いなあ」

「好い人でも在るのかい?」

「もう、お止しになって。在るのよ、好い人は在るの。でもね、お仕事柄、何時お会い出来るのか、解らなくて。御手紙をくださるの。とても素敵な、潮風の御便り」

「随分と浪漫雰囲気な人だね」

 もう何年お会いしてないかしら。客船の操舵手なの。半月前の御手紙には『間モ無ク 戻ル』と、とても短く。それに添えられた、小さな貝殻。調べたら、板屋貝というそう。一緒に給仕をしている立原くんが、手先が器用だから無理を云って、首飾りにしてもらった。

「卯羅や、此れを運んでくれるか?」

「ただいまー!」

 甘味を作っていた母様に呼ばれて、パタパタ。

 プリン・ア・ラ・モード。とても魅惑的。母様のお作りなさるプリンは絶品。しっかり固く、卵の味がお口に広がる。カラメルも甘すぎず、大人の苦味。

「剰りあやつの事を口外するでない」

「でもね、もう戻られるのよ?もう港に到着なさってるかもしれないわ」

「海は容易く命を奪う。期待はするな」

 何時もそればかり。海はとても美しいのに。私も行ってみたい。海の向こうには何が有るの。外つ国って、どんな処かしら。舞踏会があると聞いたけど、あちらにはそんなにお姫様と王子様がいるのかしら。今度彼に訊いてみよう。

 カランコロン

 また新しいお客さん。戸口に駆け寄り、お伺い。

 まだ、いらっしゃらないのかしら。本当に、母様の云うように、成ってしまったのかしら。

 あと少しで店仕舞。表の看板を準備中に変えよう。明日は来てくれるかしら。人魚姫ってこんな気持ちだったのかしら。それだったら、泡と消えた方が素敵ね。彼が海に出ていれば、ずっと一緒だもの。

 カランコロン

「済まぬのう、もう今日は店仕舞じゃ」母様が開いた扉に向かって声を掛ける。マスターは一杯ならまだ、と小声で母様に伝えた。

「カフェモカを一つお願い出来ませんか」

 注文を受けた立原くんが、母様に耳打ち。私はそれを見つつ、陶器杯を準備した。

「立原、淹れたぞ」

「じいさん、男には女給の方が善いと思うぜ?」

「じゃあ私が行く」

 お客様なんだから、そんなの関係ないでしょうに。「お待たせしました」

「待たせたのは私の方だよ」

 白手袋を嵌めた手が、すっと帽子を取り払う。それから私を見、にっこり笑った。

「おさ、む……さ……」

「息災の様だね。荷卸に時間が掛かってね、申し訳ない」

 お盆をひっくり返しそうになった。必死に抑えても震える手。カタカタと鳴る陶器杯が恥ずかしい。やっとの思いで、カフェモカを置く。立っているのもあれでしょうから、向かいの席に着く。

「見ない間に格段と美しく成ったね。その貝は私が贈ったものだね。嬉しいよ」

「暫く居てくださるのでしょう?」

「一週間は」

 短い。何年も待った末の、一週間。

「次の航海に、君も招待したくてね」

「え?」

「次の船は最新式でね。なんとも白い船体が美しい。速度も世界最高峰だそうだ」

「でも、私、そんな……」似合わないもの。街のカフェーの女給が、豪華客船だなんて。彼の顔に泥を塗ることになるわ。「嬉しいけど、お断りします」

「何故?身の回りのものは凡て用意するよ?それに、君が私と不釣りだなんて誰も考えはしやしないさ」

「私にもお仕事が有るのよ?」

「まどろっこしいのう」

 母様が、見かねたのか、腰に手をあてて、呆れたように立っていた。

「行ってくれば善いではないか。何時かはそなたも嫁に行く身。今更どうという事はないわ」

「でも……」

 久しぶりに会えて、嬉しくて、頭が回らないのかしら。私の好い人。優美で、高貴な雰囲気に、絡め取られてしまう。でも母様を一人には出来ない。

「善い機会だとは思わぬか?こやつの仕事ぶりを見られる訳じゃ。まあ、最も、御主よりも働くとは思えぬがのう」

 支度を済ませてお店を出ると、治さんが待っていてくれた。

「母様が、お夕飯でも食べてくればって」

「それは有難い。港の近くに善い店があってね。積もる話も互いにあるだろう」

 腕を差し出されて、誘われるように手を添える。

 二人で歩く夜は特別。風が吹く度に悪戯をして、長外套を私に巻き付ける。その度に治さんは謝りながら、外套を引く。

「申し訳ない。お邪魔でしょう」

「治さんに包まれている様で、嬉しいわ」

「随分と寂しい思いをさせたようだね。月に一度届く、君からの手紙は、慰めになったよ」

「大した事書けなくて、ごめんなさい。そう云ってくださるなら、もっと、ちゃんと書けば善かった」

「気取らなくて善いじゃないか。卯羅の飾らないところが好きだから」

 連れてきてくださったのは、煉瓦造りが新しい洋食軒。喫茶店の賄いで口にするけど、まだ目新しい。

「此処は外つ国の料理人が経営していてね。本場の味というわけだ」

「治さんは色々召し上がっているのでしょう?」

 メニュウの名前を見ても、知っているのは、ビフテキとか、ライスカレーとか。

「ナポリタンが無いの、珍しいわね」

「あれは日本発祥だそうだよ。このベークドマカロニは君も気に入りそうだ。葡萄酒は如何かな?」

「治さんが選んでくださるのなら、何でも美味しいはずよ」

「なら」

 そう云うと、給仕さんに、あれやこれやと申し付けた。すると間も無く、食事の準備をと、食器を並べ始めた。

「葡萄酒をお持ちしました」

「ありがとう」

 色々説明してくれる。味がなんとか、香りがなんとか。それに頷きながら、薫りを確かめる治さん。矢張、住む世界が、違う。釣り合わないのかしら。

「この葡萄酒はね、花のように芳醇な薫りが特徴なんだって。卯羅にとても合うと思うんだ」

 御手紙にも、ずっと書いてらした。『私の榴ちゃん』『可愛い椿ちゃん』色々なお花に例えてくださった。葡萄酒を少し口に含むと、ふんわりと柔らかな薫り。

「航海の最中、ずうっと部屋に椿を一輪、飾っていたんだ。君の手紙から香る薫りと同じ」

「母様から頂いた香水なのよ。特別な時にしか使わないの」

 話している間も次々に料理が運ばれる。大きな海老。とても真っ赤。

「ロブスターは初めてだろう?切り分けるから、少々お待ちを」

「海老とは違うのね?」

「まあ、大体仲間だろう。このバターソースを付けて召し上がれ」

 いただきます。

 弾力のある身と香ばしい薫り。これ、好き。母様の料理とは違った美味しさ。食べさせてあげたい。

「明日は、支度を整えに行こう。礼服が一つあれば善いでしょう」

「でも私、お船に相応しい服なんて、何も無いわ」

「今の洋服だって十分に素敵だ。可愛い貴婦人だよ」

 褒められると何故かむず痒くて。でも何故か、彼が焦っているように見える。

「ねえ、何故お急ぎなさるの?まだ時間はあるのだから、ゆっくり支度をしても善いでしょうに」

「それがね、私に縁談の話があってね」

「え……」持っていた食器を落とすかと思った。血の気が引いて、出迎えてからの喜びが、凡て消えてしまいそう。

「無論断るよ。私が愛しているのは卯羅、君だけだから」

「嫌よ、お願い、お傍に置かせて?ずっと待っていたの。毎日、貴方の無事を祈って、届かないかもしれない手紙を待って、送って」何故急に出てきた女に横取りされなきゃならないの?「私を、貴方のものに、してください」

 はしたないお願いだと解っていても。こうするしかない。若しくは───

「……一寸、電話をしてくるよ」

 お店の電話を借りて、何処に御電話?

 どうしよう。女学校の時分に何人か見たの。お相手に許嫁がいらして、御別れした子達。私もそれになってしまうのかしら。

「紅葉さんに、宿泊の許可を貰ったよ。話が解る方で有難いよ」

「なら、今夜は……」

「君の望むままに」


 翌朝、柔らかな光で目が覚めた。

 隣を見ると、待ち焦がれた愛しい人。

 そうだ、私たち、一線を越えたんだ。母様に怒られてしまうかしら。未婚の男女がこんなこと。

 寝顔まで愛しいなんて。眠る彼にそっと口付けた。気だるそうに私へ回された腕に力が入る。

「起こしてしまったかしら」

「いいや……仕事柄、眠りは浅くてね」

 唸るような声で云った後に、胸へ引き寄せられる。目の前の逞しい身体に、お腹の辺りが、じんわりと反応する。

「身体は辛くないかい?」

「いいえ、幸せなの。凄く幸せ。このまま溺れてしまいたい」

 朝御飯作りましょう。身体を起こそうと身動ぎするけど、彼は力を抜こうとしない。

「朝の御食事は?」

「こうしていたい」

 なら、諦めるしかないわね。少し重いけれど、彼が居てくれる満足感。確かにこうしていたい。

 それを破るように電話の呼び鈴が鳴り響いた。

「出ましょうか?」

「いや、いい」

 私が行くよ、とそれはもう用事先が解っているような口振り。

「はい、太宰です……もうその話は済んだでしょう。私がそちらに行くことはもう有りませんよ。此れから相手先に挨拶へ行きます。除籍でも何でもどうぞ」

 叩き付けるように電話を切り、溜め息。

「治さん……」

「紅葉さんに挨拶へ行こう。新婚旅行が客船というのも、素敵だろう?」

 投げるような言い方。まだ御疲れなのね。お茶を入れて差し上げましょう。襦袢を羽織り、台所に立つ。玉露があった。これにしましょう。お湯を沸かして、湯飲みを温めて。

「湯浴みなさってくれば?」

「少し冷静になってくるよ」

 朝御飯の支度を、と思ったけど、そうよね。食材が有るわけないわね。近くの商店で何か見繕ってきましょう。お米は有るから、お野菜を何か。

「小松菜と人参をお願いできますか?あと……卵は二つ」

「随分奮発するじゃないか。おまけで椎茸付けといてあげるよ」

「ありがとうございます」

 戻らなきゃ。なるだけ急いで。お浸しと厚焼き玉子。お米も炊かなきゃ。

「戻りましたぁ」

 お台所に荷物を置き、お米を研いで水に浸しておく。治さん、出たかしら。湯冷ましの一杯でも持っていこう。執務室かしら。お見合いの申し出をされるぐらいだもの。御実家はきっと高貴なんだわ。お家だってこんなに広いんだもの。

 執務室を覗くと、上を着ないで、頭に手ぬぐいを掛けて、項垂れたように放心している治さんが、椅子に腰掛けていた。

「治さん……御加減悪いの?」

「何処行ってたんだい?もう気が気で無くて……」

「ごめんなさい、朝御飯の支度をと思って……」

 お茶をお出しして、お台所へと戻った。手早く済ませなきゃ。小松菜と人参を煮浸しに。椎茸は、一寸炙りましょう。厚焼き玉子は丁寧に。お米は慎重に。そのうちに彼も降りてきて、卓袱台の前でぼんやりとしていた。

「お待ちどうさま。簡単なものしか出来なかったけど、召し上がって」

「ありがとう。いただきます」

 食べるのを暫く見守っていた。そうだ、母様にお電話しなきゃ。今日はお店がお休みだから、お家に居るはず。

「お電話、借りますね」

「どうぞ」

 交換手に呼び出し先を伝える。「もしもし、母様?卯羅です」

『そろそろ来るか?』

「何で?」

『昨日遅くに、太宰から連絡があってのう。挨拶に行きたいと』

「私も今朝、その話を聞いて……色々勝手に、ごめんなさい」

『詳しい話は家で聞く』


 後片付けをし、私の家へ二人で向かった。見たことのない母様の表情。怒っているような気もする。客間で三人、卓を挟んで。

「小僧、順序がおかしくはないか?」

「申し訳ありません。些か急ぎすぎました。お嬢様を愛すあまりに、先走りました。決して不誠実な思いからではないと、信じていただきたい」

「では娘を如何とす?」

「この先も、卯羅さんと歩んで行きたく存じます。留守を任せ、彼女の深い優しさに甘える男を、どうか、お認めください。私には彼女しか無いのです」

 三つ指を付いて、頭を下げる姿。何故か胸を締め付けられた。本当に善いのかしら。太宰のお家で、彼の立場が、危うくはならないかしら。今更になって、怖い。彼の地位が脅かされる可能性が、怖い。

「待つことしか出来ぬ娘だが、それでも善いのか?何も持たぬ、ただの娘じゃ」

 宜しく頼む。

 深々と頭を下げた母様に続いて、私も。

 漸く肩の力が抜けた。冷たい茄子の煮浸しを母様が小皿によそって、出してくれた。

「出航の支度は済ませたのか?」

「これから!」

「夕刻迄には御返しにあがります。嗚呼、矢張、紅葉さんの御点前が素晴らしいからだ。卯羅さんが朝食を作ってくださいましてね。大変美味しくいただきました」

「私なんて、全くよ。母様の足元にも及ばないわ」

 もっと教わらないとね。作れる品数を増やして、洋食も覚えなくちゃ。

 私も湯浴みをして、御化粧と、お着替え。

「それでは、行って参ります」

「気を付けるのだぞ」

 日傘をさして、晴れの道。呉服屋さんに向かう。昨日よりも彼が眩しく見える。私、今日から太宰卯羅なのね。

「イブニング・ドレスを一つ見繕って欲しくてね」

「畏まりました」

 身体を隅々採寸されるなんて少し恥ずかしい。数字を読み上げられ、また、恥ずかしい。

「君は本当に魅力的な体型だね」

「どういう……」

「着物も洋装も似合う、素敵な体型」

「何着か御出ししましょう。お色味は?」

「お任せします」

 赤、純白、濃緑。何れも引き摺りそうな丈だけど、善いのかしら。

「卯羅は何れが善い?」

「何れにしましょう……濃緑は落ち着いていて、善いんじゃないかしら」

「折角の結婚旅行だ、純白はどうだい?」

 試しに着てごらんと云うものだから、その通りに。胸元が空いて、少し見えているのは、大丈夫なのかしら。袖は着物のように広がっている。

「歩く時に、少し裾を摘まむと善い。ハイヒールも慣れないだろう。爪先で歩く様にすると善いよ」

 よろよろと歩いてみるけど。不安定過ぎないかしら。

「大丈夫。歩く時は私が支えるよ。このドレスに合う髪飾りも貰おう」

「はい」

 包みが山のように。どれも高価なもので、忍びない。此処までしてもらって善いのかしら。それに、荷物も凡て持っていただいて。

「シャンデリアの下では、君が一番の美人だ」

「そんな、そんな訳ないわ。私なんか、霞んでしまうわよ」

「私の船へ一度、御案内しよう。船長に君を紹介しておきたい」

 お船は本当に大きくて、美しかった。山のように大きいの。写真でしか見たこと無かった物が、目の前に。

「素敵……」

「ようこそ、お嬢様。さ、御手を」

 ハイヒールに慣れる為と思って、履いてみたけど、お船の揺れに耐えられるかしら。お姫様になるのは、大変。

 階段に注意しながら、治さんの手を頼りに。あんなにお荷物持っているのに、すたすたと歩いていく。

「此処が私の宿直部屋。狭いが、まあ自由だ。船長はね、亜米利加の人で、何よりも自由がお好きなようでね」

 小さな机の上の、小さな花瓶。その脇に椿の葉が落ちていた。

「本当に飾ってらしたのね」

「無論。可愛い椿ちゃんを忘れない為にね」

 船内を回るからと、お荷物は彼のお部屋に置かせていただいた。とても広いのね。迷子になってしまいそう。

「此処がダイニングホール。君は一等客として乗船してもらう。船員の家族だからね。緊張しなくて善いさ。君はそのままで貴婦人なのだから」

「でも不安。立ち居振舞いなんて解らないもの」

「自然体で善いんだよ。気取る必要は無いさ。そうだ、君に渡そうと思った物があった。確か此処にしまって……あった。西洋にはね、結婚相手と揃いの指輪をする習慣があってね。左の薬指に」

 銀色が煌めく。誓いの証。私も治さんの左薬指に指輪を嵌める。

「私も君も、もう誰のものにも成れない。私たちが夫婦だ」

 その言葉に過る昨夜の電話。起きたら彼が居ないなんて、無いわよね。不安がる私を、ぎゅっと抱き締めてくださる。「太宰の妻は君だよ。君しか有り得ないんだ。だから何も心配しないで」

 彼の言葉を信じましょう。信じるべき。だって、帰ってきてくれたじゃない。それだけで信頼に価する。

 次に案内された一等客のサロン。生成色の壁には細かい模様が施され、シャンデリアもダイニングの物よりも豪華。

「今、海の向こうではラグという音楽が流行っているんだ。実に軽快な躍りでね。きっと君も気に入るよ」

 鹿鳴館の舞踏会とは違うのかしら。行った事もないけど。

「ねえ、早くお仕事場を見せて?私、治さんがどのようにお仕事なさってるのか、知りたいの」

「宜しい。特別にご覧にいれましょう。丁度、船長もいらっしゃるだろうし」

 操舵室は、お船の一番見晴らしの善い所にあって、舵輪と難しい機械が所狭しと、けれども整然と並んでいた。

「此れが私の相方。この舵輪を左右に切って、船の方向を決める。その機械は、この操舵室と機関室を繋いでいるんだ。航海士が機関室へ、前進、後退、速度の指示を此処を通じて出す。すると機関室では、素早く燃料の調整を行ってくれると云うわけだ」

「このお船は治さんの意のままに動くのね」

「最も、進路を最終的に決めるのは、船長だけどね。ほら、彼処にいる白髪の大柄な男性が居るだろう?あの方がこの船の船長、メルヴィル氏だ」

 治さんは、私の手を引きながら、Mr. Melville と呼び掛けた。

 "Mr. Dazai, what's wrong?"

 "I want to introduce my sweet fiance. She will join to next voyage."

 女学校で確かに英語は習ったけど、使わなすぎて忘れてしまったし、何より、英語を操る治さんが格好善くて、殆ど話を聞いていなかった。

「ようこそ歓迎します、だって。ほら手を差し出して。西洋式の挨拶だ」

 船長さんは私の手を取って、甲に口付け。お髭がとても立派。温和そうな方ね。

「宜しくお願い致します、メルヴィル船長。お会いできて、光栄ですわ」

 治さんが私の言葉を凡て翻訳してくださる。旅までに少し覚えなきゃ。

 そのまま甲板沿いに歩いていると、海の風が心地よく吹き付ける。時折、海猫たちが群れをなして飛び交い、賑やかな声をあげる。海も空も、何処までも青く、澄んで。

「海を見て、君を思い出すのは、空も海も君と同じ色だからだろうね」そう云って、私の髪を一束手に取り、口付ける。「私の航海の無事を祈る、海の女神様」

 後ろから抱きしめられ、耳元で彼の声が響く。その声に思い出される、昨夜囁き続けてくださった愛の言葉。

「貴方の物に、してくださるのでしょう?」

「もう私のものだよ。私だけの女神様」

 重ねた手に輝く指輪。特別ね。此れがある限り、私たちは一緒。永遠に。

「出航の日は迎えに行くことは出来ないけれど、進路が安定したら君の部屋に顔を出すよ」

「お仕事に支障ない範囲でしてくださいね」

 彼に送られ、母様の元へ戻ると、治さんの抱えた荷物の多さに驚いて、頻りにお礼を云っていた。今度は治さんがお泊まりする番。蚊帳を広げて、彼の寝床を整える。

「こういう慎ましい家庭は素敵だね」

「そうかしら。この生活が当たり前ですから」

 少しでも涼しくなるように、団扇で風を送る。船での生活よりも、もしかしたら、不便かもしれない。

「蚊取り線香の薫りと風鈴の音。あるべき夏の姿だよ」

「治さんのご実家のお話、聞いたこと無いわ」

「私の実家なんか、どうでも善いだろ」

「そう仰有らないで」

 虫の声が涼しさを運ぶ。話題から離れるように、身体を丸め、私から顔を逸らす。

「……私の家はね、謂わば、豪商で、農工から税を取り立てて、財を成したんだ。それに何時からか、嫌気が差してね。人を苦しめて成した財で、贅沢など……」

「お優しいのね」

 そっと頭を抱えて、膝枕。私の浴衣をぎゅっと握る仕草に、彼の抱える、重い枷を感じた。航海士に成られたのは、それを海へ捨ててしまいたいから、そうなのかしら。

「海は善いよ。何のしがらみも無い。ただ其処にあって、穏やかに、激しく、平等だ」

 ただひたすらに、彼の頭を撫で続けて、しとしと静かに落ちる涙を、眺めていた。

「治さんは、お優しすぎるのよ。こんな女を信じ続けて、愛してくださる人だもの。ねえ、幸せな家庭にしましょう。貧しくても善いわ、貴方が居てくださるなら、幸せよ。貴方と、私と、可愛い子供。貴方に似た男の子が好いわ。まあるい、大きな眼で、にっこり笑うの」

「卯羅……ありがとう」

 おやすみなさい。私の王子様。私の前では、全てを脱ぎ捨てて、飾らずに居られますように。


 出航の日。

 空はいつもよりも澄んで青く、果てが見えない。母様と一緒に港へ向かい、最後のお別れ。

「達者でのう」

「落ち着いたら、御手紙します。母様も、どうか、健やかで」

「戻ったら、土産話をたんと聞かせておくれ」

「嗚呼、居た。紅葉さん」太宰さんが外套を翻しながら、駆けてきて、母様に一礼。「娘さんをお預かりします。戻りましたら、婚礼の儀を。それまでは婚約者として、どうか」

「頼んだぞ。二人の無事を、日々祈るとしよう」

「命に代えても御守りします」

 帽子の鍔を持ち、一礼すると、水兵服の男の子に、敦くん、と呼び掛けて、私の荷物を持たせた。

「さあ、お嬢様、素敵な航海に御案内しましょう。お別れの言葉は bon voyage 善い船旅を!」

 差し出された腕に手を添えて、母様に手を振り。船に乗り込めば、一等客のデッキへ案内され、部屋番号の案内と、お夕飯の予約。治さんは、仕事に戻るから、と手に口付けをくれ、操舵室へ。

 大きな汽笛の音が二回。可愛い女の子の水兵さんが、出港の合図。見て!この船、私の婚約者が動かしているのよ!ゆっくりと岸壁から離れ、海へと繰り出す。

「母様!お元気で!」

「存分に楽しむのだぞ!」

 見えなくなるまで手を振り続けた。また、会えますように。板屋貝の首飾りに挟んだ写真は、私と治さんと母様の三人で。

 海の向こうには何が待っているのかしら。操舵室を見守りながら、母様と、この旅の安泰を祈る。

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