第16話 凛水・距離
カツン、カツン――…
二人分の靴の音が響く住宅街。
時計の針は、すでに7時を回っている。
玲香と月樹といるのが楽しくて、つい山田さんの家に長居してしまった。
脳裏に浮かぶ玲香の笑顔。
――玲香、幸せなんだな。
兄弟じゃなかったら、絶対関わることはなかったタイプだった。
こうやってちゃんとクラスメートと会話して家に集まったりする日が来るなんて。
――私も、幸せだ。
「ねぇ」
不意に隣を歩く月樹が私を呼んだ。
「リズさんは、覚えてる?」
「何を?」
「お母さんが歌ってくれた曲」
「え?」
「お母さんが僕らのために作って、毎晩歌ってくれた曲。たしかこんなメロディで…」
曲?
たしかにお母さんは趣味で曲を作っていたけれど…
「〰〰〰〰♪」
月樹が鼻歌を歌いだす。
あぁ、優しくて温かいメロディ。
どこかで聴いたことがあるような。
「あっ…」
懐かしい記憶が蘇ってくる。
――お母さん、今何時?
――もう11時よ。眠れないの?
――うん。あのお歌を歌ってくれない?
――ふふっ。じゃあ、こっちおいで。
お母さんの膝の上で、滑らかな旋律に身を任せながら。
眠れない日は、いつだってこの曲を聴きながら目を閉じていた。
「夢を空に描いた季節~♪…あってる?」
「あってると思う」
思い出してくれたんだねと月樹は笑った。
「懐かしいね」
「またあの声を聞けたらいいね」
「うん。お母さん、どうしてるかなぁ。るきあは何か連絡取れてたりしないの?」
「それが、取れてないんだ…」
「そっか」
――いつか、夢を空に描いた季節…
私も、曲を作っている。
山脇さんの家の、大きなグランドピアノ。
鍵盤を押すと、透明な音が指を滴る。
今ある曲だけじゃ足りなくて、いつしか適当に浮かんだメロディを弾いていた。
どうしようもない気持ちを、音にして自己満足する。
でもそれは、お母さんみたいに誰かを笑顔にするための曲じゃない。
単なる、自分のための道具だった。
「僕も、あんな曲を届けてみたいな」
月樹がぽつりと言った。
月樹も曲を作っているのだろうか。
「月樹も、曲を作ってるの?」
「ううん、さすがに今の僕には無理だけど、」
月樹が上を向くのに合わせて、前髪から綺麗な目が覗いた。
「でも僕はいつか、音を咲かすことで、たくさんの人の笑顔を咲かせたい」
音で、笑顔を…
自分のためじゃなく、他の人のために…
私も顔を上げ、空に浮かぶ細い月に目を凝らした。
「それが、今の僕の夢!」
夢…か。
溌溂とした月樹の横顔が、いつもより大人びて見えた。
なぜだろう。
月樹には自分の夢を叶えてほしいし、私だって全力で応援したい…いや、応援しているのだ。
なのに、なんだか寂しい気持ちがした。
「そっか」
頑張ってねと言えない自分が情けない。
兄弟だから多分大丈夫だよねと月樹の手を取る。
掴まらないと、置いて行かれそうで怖かった。
「リズさんには、夢がある?」
「私の夢?えっと、私の夢は――」
今の私にはおそらく夢なんてない。
それでも、いつか私にも夢が生まれると信じていた。
でも、私は――
私は他のみんなみたいに鮮やかな生活を送っていない。
このままずっと自分のためだけにピアノを弾いて、このままずっと家族以外の人の干渉を拒絶し続けて、ずっとこのまま自分を出せないぼんやりした生活を送るだけなら、私の人生に夢なんて生まれるのだろうか。
それなら、いっそ。
「私の夢は、るきあの夢を叶えること」
きっと、これでいい。
こう答えるのが正解だ。
姉として、兄弟の夢は応援しなくては。
夢がないなんて言えない気がした。
「ありがとう」
冷たい風が私たちの間を吹き抜けていった。
「じゃあ、僕はあっちだから。また明日ね」
T字路まで来て月樹が言う。
――嫌だ。今は一人になりたくない。
「…待って」
無意識に呟いた。
「どうしたの?」
でも、迷惑をかけるわけにはいかない。
「ううん、何でもない。ごめんね。ばいばい」
夜の冷気が痛かった。
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